約束

第9話 帰国と国際電話

 機内アナウンスが着陸体制に入ったことを告げた。僕はいよいよ、日本に戻る。

 つまり、既に僕とリンの間には海があり、いくつかの国があり、約三千キロメートルにも及ぶ物理的隔たりがあるのだ。前日まで二人の距離は、いつだって一メートルから、離れてもせいぜい十キロ程度だったにも関わらず。

 この物理的隔たりは、僕の心に、どうしようもない虚脱感を植え付けた。それは成田空港でリムジンバスに乗り、首都高から東京の街を眺めるほど、いくらため息をついても追いつかないくらい大きくなった。僕は紛れもなく、刺激的で甘美で混沌的な別世界から、自分の世界に帰還してしまったのだ。

 飛行機でほんの四時間程度の場所なのに、二度と戻れない天上の国から、放り出されてしまったような気分だった。

 整然とした道路、きちんと並んで信号待ちをする車、立派で堂々とした高層ビル群や高層住宅街、人工的で美しい並木、安全運転を心がけるバス、丁寧で親切な運転手の態度とアナウンス。バスを降りたらきっと、サービス精神旺盛で、とても効率的な仕事の仕方が身に付いた、数多くの駅員や店員に出くわすことも分かっている。

 これが世界に誇る、街がとても綺麗で便利で安全で、たくさんの美味しいレストランがあって道路がすごくよくて、男性もみんなお金持ちで優しい、日本だ。

 実際、素晴らしい国なのだ。僕はこんな国を誇りに思い、そこに住む人々を尊敬し、この国の人間として生まれたことを幸せだと思う。

 それでも何か物足りない。何かが足りないのだ。街の風景にそれを感じるのか、あるいは別のことなのか見当が付かないけれど、何かが不足していた。

 休日の駅や電車には大きな混雑もなく、僕は大きなスーツケースを引きずり、淡々と電車を乗り継いだ。都会と言われるエリアに目を閉じても問題ないほどの土地勘はないけれど、誰かに何かを尋ねるほど疎いわけでもない。

 電車の中には、金属チェーンをじゃらじゃらぶらさげ髪を尖らした兄ちゃんや、紫色の髪にメイド服のお姉ちゃんがいた。日本は平和だ。

 背中を丸め、世間との交流を拒絶するように俯く中年男性もたくさんいた。まるで、献血の代わりに、何処かで精気を献上してきたかのように疲弊して見える。

 若者と中堅層の対比は、日本が何かの病気になりかけていないかを疑わせるものだった。それでも僕は他人との距離を取り、必要以上に世間の様子を気にしないよう努める。

 途中で書店とコーヒーショップに寄り道し、自宅最寄駅に到着した頃には、もう夕方の五時になりかけていた。四月になったばかりで、身が引き締まる程度の肌寒さが残っていた。駅も道路も大きな混雑はなく、普通の休日の夕暮れ時だけれど、ただ太陽の傾きが大きくなったというだけで、街には不思議なせせこましさが滲み出ている。一年の暮れや一日の夕暮れの街というものには、何かが終わるという理由だけで、そういった雰囲気がかもし出されるものだ。

 マンションに辿り着くと、僕は建物に入るための、電子ロック暗証番号を忘れていることに気付いた。僕は途方に暮れて、寒さに少々震えながら、何度も暗証番号を打ち直すはめになった。自分は、建物に忍び込もうとする、不審人物に見えたに違いない。

 僕はそのことで、自分の頭のネジが緩んでしまったのだろうかと、少し心配になった。おそらく僕は、色々な現実の世界のことを、本当に忘れかけていたのだ。

 こんな調子では、二日後の出勤が思いやられる。本当に過酷な現実はすぐそこに迫っているのに、思いもよらない所でさっそくつまずいているのだ。

 久しぶりに入った部屋は、微かにホコリの臭いが漂い、陰気くさく静まり返っていた。ピアノを弾ける防音タイプの部屋で、窓を閉め切ると外の音は全く入ってこない。整然と片付く部屋は乾ききって、まるで他人の部屋のように殺伐としている。

 その日、日本の街にも同じような印象を持った。日本を離れていた三ヶ月間で、全てのものから潤いが失せてしまったような気がした。色に例えるなら、全てが灰色に染まったみたいだった。まるで不意に、自分がモノトーンワールドに迷い込んでしまったかのようだった。

 僕は、身の回りから自分の生活感を取り戻していくしかないだろうと観念して、まずはコーヒーを淹れることにした。コーヒーメーカーの中をすすぎ、ガラスポットも水洗いした。コーヒー豆を挽いて、ペーパードリッパーをセットする。コーヒーメーカーのスイッチを入れると、ずぶずぶとお湯の出る音が部屋の中に響き、コーヒーの匂いが立った。

 それで少しは、らしくなった。音楽をならし、ベランダのサッシを少し開けて、部屋の中へ外の空気を取り込んだ。モンクのピアノをバックにカーテンがゆらゆらと風に揺れ、ますますらしくなった。

 でも、コーヒーを手渡す相手がいない。僕の中で、また何かが欠乏する。

 ソファーにどっさりと体を預け、コーヒーを飲みながら、あることを思い出した。帰りの飛行機の中で、国際電話のカードを貰っていたのだ。鞄に放り込んだそれを探り当て説明を読むと、五分間の無料通話が付いている。僕は試しに、説明に従い、所定の番号とリンの番号を押してみた。

 数回のコールトーンが聞こえたのち、彼女のハローという声が聞こえて驚いた。個人の携帯電話から国際電話をかけたのは、初めてだったのだ。無料となっているから、本当に繋がるかどうかも疑っていた。

「僕だよ。あまり時間がない。無事に日本に着いて、自分の部屋にいる。途中で通話が切れたらごめん。飛行機の中で貰ったカードに、五分間無料通話が付いていたんだ」

 最低限伝えるべきことを不自然な順番で、矢継ぎ早に彼女に告げた。

「日本から電話を貰えるなんて、思ってもみなかった。驚いたわよ。無事に着いて良かった。連絡をくれてありがとう」

 五分で通話が切れてしまうというこちらの焦りを嘲笑うように、彼女は落ち着いた口調でそう言った。音声がとてもクリアで、三千キロメートルの距離が失せて、彼女はすぐそこにいるような気配が感じられた。それで僕も、いくぶん落ち着きを取り戻す。

「本当に話しができるんだね」

 彼女はふふふと笑って「当たり前でしょう」と言った。なるほど、僕はそれほど、重大な危機に直面している訳ではなさそうだ。

「あなたの声を聞くことができて良かった」と僕は言った。

「わたしもあなたの声を聞くことができて良かった。ねえ、今何をしてるの?」

「コーヒーを淹れて飲んでいる。あとはあなたと話しをしている」と答えた。実際にそうなのだ。

 彼女はまた笑って「わたしもあなたと話しをしているの」と言った。それも間違いのない事実だ。

「そうか、それはよかった。それで元気?」

「元気よ。でもあなたのクレージートーキングが恋しい。また元の生活に戻って、何か寂しいわ」

 寂しいと言われると、僕たちは大切な何かを共有しているように思えて、少し安心する。

「僕も同じだ。また元の生活に戻って、何か寂しいよ」

「ねえ、わたしたち、同じことを言い合ってない?」

「そうだね、僕たちは同じことを言い合っているね」

「これは新しい会話の手法なのかしら」彼女が笑って僕も笑った。

「電話だと、あなたが冗談を言っているのかそうでないのか、さっぱり分からないよ」

 けれど僕は、顔は見えなくても彼女がどんな表情をしているのかを、頭の中できちんと再現することができた。

「ねえ、わたし、あなたのクレージートーキングが聞きたい」

 僕は、「今?」と訊いた。彼女は「そう、今よ」と答えた。

「突然難しいお願いをするね。急だから、話しが上手く完結しなくても失望しないと約束してくれる?」

「約束するわ。話しが上手く完結しなくても、わたしは失望しない」

「それじゃあ特別に」

 僕は五分のリミットのことなどすっかり忘れ、彼女のリクエストに応じることにした。


「ずいぶん昔の話しなんだ。僕の生まれた町の近くに小さな村があってね、シューマイの大好きな弥太郎おじいさんが住んでいたんだ。シューマイは覚えているよね」

「覚えているわよ。グリーンピースの乗ったあれでしょう?」

「そうそう、グリーンピース。この話しはグリーンピースの存在がとても大切なんだ」

「グリーンピースの存在が大切なのね」彼女が復唱する。

「弥太郎さんは、本当にシューマイが大好物だったんだ。でも弥太郎さんが住む村には、残念ながらシューマイが売られていなかった。当時はまだ、とても珍しい食べ物だったんだよ。だから彼がシューマイを食べるためには、山を一つ越えて隣の町まで行く必要があったんだ。ある日弥太郎さんは、焦がれるように、どうしようもなくシューマイを食べたくなった。あなたが突然、どうしてもタラバが食べたくなるように」

「分かるわ、その気持ち。それで弥太郎さんは、シューマイを買いに行ったの?」

「そう、彼はわざわざ峠を一つ越えて、隣町まで行った。ここで一つ、大きな問題があったんだ。山の峠には、恐ろしいモンスターがときどき現れて、そこを通る人を捕まえて食べてしまうんだよ。だから普段は、誰もその峠を通りたくない。でも弥太郎さんはどうしてもシューマイを食べたくて、勇気を出してその峠を越えたんだ」

「よほどシューマイが好きだったのね」

「そう、大好きだった。ソクソクよりも好きだった」

 彼女は大声で笑い、それで? と続きを催促した。

「そして弥太郎さんは、無事にシューマイを買うことができた」

 彼女は「それは良かった」と言った。

「でも、まだ問題が残っている。弥太郎さんは、また恐ろしい峠を越えて自分の村に戻らなければならない」

「そうねえ、家には戻る必要があるわねえ」

「だから弥太郎さんはシューマイを大事に抱えて、その峠をまた越えようとしたんだ。帰りは時間が遅くてずいぶん暗くなっていたから、本当に怖かった。弥太郎さんが峠のてっぺんに到着して、あとは下りというところで少し安心していると、突然、妙に生暖かい風が吹いた。もちろん弥太郎さんは気味が悪くなって、慌てて走り出したよ。自然とシューマイを抱える腕に力が入った。走る弥太郎さんに、ピタピタピタという誰かが追いかけてくる足音が後ろから忍び寄ってくる。けれど彼は、決して後ろを振り返らなかった。それはそれは怖くて、一目散に走って逃げたんだ」

「何か怖い話しね」と、彼女は変に感情移入してそう言った。僕は、いやいや、本当に怖いのはここじゃないんだと言った。

「弥太郎さんは死に物狂いで逃げたおかげで、無事に自分の家に帰ることができたんだ。もちろんシューマイも無事だった。本当に何よりだった」

「そう、良かったわね」

「彼は早速シューマイを食べようとした。妖怪に自分が食べられるかもしれない危険を冒して買ったんだ、何よりも真っ先にそれを食べたいよね。そして彼はシューマイの箱をそっと開けた。そうしたら……」

「そうしたら?」

「箱の中に整然と並んだシューマイのうち、一個のグリーンピースが無くなっていたんだ。弥太郎さんはずいぶん驚いて、それからとても悲しくなった」

「いいじゃない、グリーンピースの一個くらい。でもどうしてグリーンピースが無くなったの?」

「そこが問題なんだ。どうしてかな?」

「ふーん、モンスターが食べちゃったの?」

「それもあり得るけれど、答は別のところにあったんだ」

「それは何だったの?」

「実は……」

「実は?」

「グリーンピースは蓋にくっついていた」

 彼女はボアンと言って笑い、「どうしてそんなつまらないことが面白いのかしら」と言った。

 僕は感情を殺して、「まだ笑わないで欲しい」と言った。

「え?」彼女は笑うのを止めて、「話しはこれで終わりじゃないの?」と言った。

「これはね、笑う話しじゃなくて、本当はとても悲しい物語なんだ。今日はスペシャルトークだから」

「そうなの? それからどうなるの?」

 ここで突然電話がぷつりと切れた。時間切れになったようだ。プープーという無機質で無情な音が、僕の耳にあてた携帯電話から聞こえている。周囲がずいぶん静かだった。シーンという音が聞こえてきそうなくらい、静かだった。急転直下、僕の周りの世界が激変を遂げたという感じだった。何もここで切れなくてもと、僕は呆然とした。

 リンもセブの家で、あっけに取られているのだろうか。僕は彼女の様子を想像してみたけれど、今度はさっぱりイメージできなかった。彼女はあっさり電話を置いて別の何かを始めたかもしれないし、電話を持ったまま固まっているのかもしれない。

 国際電話カードを手にとって、もう一度説明書きをよく読んでみた。コンビニでチャージできると書いてある。なるほどと、僕は早速ジャケットをはおり、部屋の外に飛び出した。急いでいたせいで、素足にサンダルを履いて出てしまった。夜風が素足に、凍みるように冷たかった。

 コンビニのレジでカードを差し出し、チャージできますかと尋ねると、店員はできますよ、いくらですか? と慣れた調子で訊いてきた。僕はとりあえず、二千円でお願いしますと言った。それでチャージの手続きが終了する。ずいぶん簡単だ。ついでにポテトチップスとタバコを買って部屋に戻った。免税店で一カートンのタバコを買ったことなど、すっかり忘れていた。

 またすぐに電話をするのは、彼女にとって迷惑ではないだろうか。少し心配しながら、再びダイヤルを押す。

 彼女はすぐ電話に出て、「ハロー」と言った。僕は、今コンビニでチャージしてきたことを彼女に告げた。「話しがまだ終わっていないから電話をしたけれど、あなたはまだ大丈夫?」

「もちろん問題ないわよ。わたしはここにいると、何もすることがないの。特に夜は」

「どのくらい長く話せるのか分からない。また通話が切れたら、今日の話しはそれで終了するよ」

「分かった。早速さっきの話しの続きを聞かせて」

「いいよ。どこまで話したかな?」

「これは本当は、悲しい物語なんでしょう?」

 僕はそうそうと言って、話しを続けた。

「弥太郎さんは、モンスターから逃げて峠からずっと走ってきたよね。それでシューマイを守りきって家に帰ることができたから、本当に嬉しかったんだ。でも、息を切らしてシューマイを勢いよく食べたものだから、そのうちいくつかのシューマイがのどに詰まって、窒息して死んじゃったんだよ。歳をとったおじいさんだから、のどの通りが悪くて事故が起きてしまったんだ」

「シューマイで、人が死ぬの?」彼女は疑心暗鬼な声を出す。

「意外に疑り深いんだね。自分の経験上、人は誰でも死と背中合わせで生きていると思う。ただね、これはクレージートーキングだから、細かいところは気にしないで欲しいんだ」

「分かった。細かいところは気にしない」

「それで、突然弥太郎さんが死んだものだから、みんな驚いたり悲しんだ。そして葬式に、何人かの友だちが弥太郎さんの家に駆け付けた。とくに彼の恋人の梅おばあさんが、悲しみに暮れて可哀想だった」

「おじいさんなのに、恋人がいたの?」

 彼女は細かいところを気にしないと宣言したばかりなのに、真面目に質問を投げてくる。それが妙に可笑しかった。

「いたんだよ。日本人は何歳になっても、そういうことは大丈夫なんだ」

 彼女は笑って、「それで? 梅さんは、どうしたの?」と言った。

「それが、最後に弥太郎さんの顔をどうしても見たいと言って、梅さんは泣き腫らした顔で、棺おけのふたをカパッとあけたんだ。恋人なんだから、最後に顔くらい見たいよね。そしたら弥太郎さんが、棺おけの中にいなかった。それで梅さんは腰を抜かして驚いた」

「どうして弥太郎さんはいなかったの? 本当は死んでなかったの?」

「いや、死んでいた。でも棺おけの中に彼はいなかったんだ。一体何が起こったのか、あなたは分かる?」

 彼女は少し考えて、「分からない」と言った。

 そのあと彼女は三秒くらい沈黙して、突然吹き出した。笑いながら彼女は、「おじいさんは、ふたにくっついていた」と言って、また声高に笑った。笑いながら彼女は、「ク、クレイジー」と言葉を引きつらせて言った。

「それはそうだ。あなたは僕に、クレージートーキングをお願いしたんだから」

 彼女はまだ笑いを引きずっていた。

「そうね、確かにわたしがお願いした。とても面白い話しだったわよ。まるであなたとセブで話しているみたい」

「一緒に食事をしながら話せたら、もっと良かったんだけどね」

「本当にそうね。こんな話しなんか、お願いしなければよかったわ」

 僕は意外に思って、どうして? と訊いた。

「だって、ますますあなたのクレージートーキングが、恋しくなってしまうもの。あなたのいなくなった今のわたしは、なんだか惨めな気分よ」

「惨め? それはどういうこと?」

「そう、心境的に言えば、捨てられたぼろ雑巾みたい。みすぼらしくて誰も見向きもしてくれなくて、床の隅でひっそり干からびていくの」

 それは考え過ぎじゃないかと、僕は言った。「あなたがその気になれば、たくさんの男が言い寄ってくると思うけど」

 彼女はありがとうと言って笑った。「でもわたしはたくさんの男は要らないの。今は一人の友だちで十分。それだけでいいのよ。あなたがここにいたら、それだけで良かったのに。離れて初めて気付くのね、そんなことって」

 直接会っているときに、彼女は決して、そのような胸のうちをほのめかすことはなかった。

「今日はどうしたの? 珍しいことを言うじゃない」

「少し寂しいだけよ。きっと直に慣れるわ。だってわたしには、どうしようもないことだもの」

 かつて彼女が、フィリピン人はどうしようもないことに対して、諦めが良いと言ったことを思い出す。同時に僕は、彼女の言葉の真意をよく掴めなかった。寂しいのは僕も同じだけれど、彼女の言葉には、何かの前提があるように聞こえたのだ。それが何なのか、僕にはぼやけていた。

「でも、今日は電話をありがとう。おかげでずいぶん寂しさが紛れた」と彼女は言った。

「僕はあなたが、とても忙しくしていると思っていた。子供たちはどうしているの?」

「みんな遊んでいるわよ。絵を描いたりラジオを聴いたり。わたしはずっと、ぼんやりしているだけ」

「うん、それは平和な証拠だ。決して悪くない。僕も今日と明日はぼんやりして、明後日から仕事になる。フィリピンで僕の頭は少しふやけてしまったようだから、日本の仕事はきつそうだ。しばらくリハビリが必要になるね」

「そしてあなたも直に慣れる」と彼女が言った。

「そうだね。慣れないと、僕としても困る」

「どうして困るの?」

「慣れないと仕事が苦しくて、会社に行くのが嫌になる。嫌々仕事をするというのは、結構苦しいものなんだよ」

「嫌になったら仕事を変えればいいんじゃないの?」

「それはフィリピン的発想だ。それはそれで正しいような気もするけれど、実際の日本社会の事情はもう少し厄介なんだ」

 僕は不意に、『生きるために食べるべきで、食べるために生きるべきではない』という、ソクラテスの言葉を思い出す。できることなら、食べるために仕事をするのではなく、生きるために仕事をしたい。そうすれば、少しは仕事が楽しくなる。

「これからときどきこんなふうに、あなたに電話してもいいかな?」と彼女に訊いた。

「もちろん歓迎よ。わたしは電話をもらえると嬉しいわ。本当のことを言うと、あなたは日本に帰ったら、わたしのことなんて綺麗さっぱり忘れてしまうと思っていたの。だからこうして話しができたことが、とても意外だったのよ」

「僕ってそんなに軽薄かなあ?」

「そうじゃないわよ。ただ、フィリピンより日本のほうが、色々な意味で断然いいでしょう? もっと条件のいい女性はたくさんいるだろうし、楽しいお店もいっぱいある。わざわざ遠いところにいる貧しいわたしに関わるメリットなんて、あなたには何一つないじゃない」

「メリット? 僕はメリットの有り無しで、付き合う相手を決めたりしないけど。それは相手が日本人でもフィリピン人でも、女性でも男性でも」

 彼女は少し無言になって、自分の発言を撤回した。

「ごめんなさい。そうね、きっとあなたはメリットなんて考えない。わたし、少し僻みっぽいことを言ったかもしれない。今日は本当にありがとう。また電話を頂戴。待っているから」

 僕は彼女にまた電話することを約束して、その日の通話を終えた。彼女と会話ができたことで、僕の気持ちはずいぶん紛れた。僕は二杯目のコーヒーを淹れ、しばらくベッドの上で本を読みながら、旅の疲れでいつの間にか眠った。


 翌日、僕は心と体に鞭を打ち、昼前に街へ買い物に出掛けた。食料品やら嗜好品やら雑誌やら、当面の生活に必要なものを一通り買うために。

 日本の街には、感心するほど何でも揃っていた。美味しく手軽な加工食品が、数え切れないくらい用意されている。一人暮らしに全く不便さがない。吟味するまでもなく、そのほとんどが美味しい。ちょっとした雑誌や本を買って適当なコーヒーショップに入れば、素晴らしいコーヒーとケーキもいくらでもある。街中に公衆電話とたばこやドリンクの自動販売機があり、要所要所の交番ではおまわりさんが常駐し、常に街の様子に目を光らせている。パチンコ屋があり牛丼屋があり、少し気位の高いレストランと本当にハイクラスなレストランもある。

 何でも揃っていて、それらは計画的に配置されている。どこにでも救急車や消防車が入り込めるようになっていて、消火栓もあらゆるところに設置されている。安全や便利が機能的に整理されているのだ。車は決して少なくないけれど、排気ガスにむせることもない。どうすればこんなふうに物事をきちんと整理できるのだろうと、不思議に思うくらいだ。日本とはこれほど過保護で商売熱心で計画熱心なのかと、僕は改めて再認識する。

 

 部屋に戻る前、コンビニに寄って国際電話カードに二千円をチャージした。でもすぐには彼女に電話をしなかった。僕は最初に、この日本にもう一度馴染む必要があったのだ。

 部屋に戻ってから、まず食料品を冷蔵庫に詰め込み、雑多なものを所定の場所へ納めた。我が家は人の住処としての物が揃い、たちまちフィリピン出張前の状態に戻った。

 次にCDの棚からKeith Jarrettの『Facing You』というアルバムを抜き取ってプレーヤーにセットし、コーヒーを淹れた。

 ベランダから入る風は春の匂いを含み、それとコーヒーの香りが混ざり合う。ぼんやりするには素晴らしい環境が整った。Keith Jarrettのピアノはテンポが速いけれど、音はキーを外すかどうかの際どい指運びが多い。それが自分の気だるさと絶妙にマッチして、今日の選曲は正解だと自画自賛する。

 部屋は出張前の状態に戻ったけれど、まだ自分自身が元に戻らない。でもそれはもう、二度と戻らないかもしれない。

 一度出来上がった記憶や気持ちは、自分自身でも、どうにかなるものではないのだ。まるでメッキを施した金属のように、表層の見せ掛け部分は立派でも、核となる材料部分が一度塑性変形を起こせば決して元には戻らない。それでもどうにかするには、溶解して再加工するしかない。

 もちろん僕は、溶解されるのはごめんだ。それに、フィリピン滞在を振り返ってみても、僕はそれをそれなりに気に入っている。

 僕は気に入っているけれど、そんな自分を世間がどう見るか、それはまた別問題だ。僕の感じる限り、日本人の東南アジアに対する偏見はまだ根強い。特にフィリピンとなれば尚更だ。イメージがとても悪い。単なるイメージだけでなく、実態もイメージ通りということがあるから始末が悪い。実際は、一部の事象が全てであるかのように捉えられるのが問題で、フィリピンやフィリピン人全てに問題があるわけではないのだ。

 もちろん僕は、フィリピンで感じたことをおくびにも出さず、猫をかぶって生きることができる。あるいは自由が建前の日本では、狭い了見がちらつく日本社会からスピンアウトするのも、一つの選択肢として許されている。ただ、一度スピンアウトすれば、それなりの代償を払うことになる。日本の社会の仕組みとは、そういうものだ。人に優しい国でありながら、日本は異質なものを許容できない怖い一面も持つ。ときとして、フレキシビリティに欠ける。単一民族の持つ村社会文化というか、そう言った類のものだ。

 しかしそもそも、虚脱感やら寂しさやら色々あるけれど、一体自分の中で何が変わったのだろう。街の見え方までも一変している。きっとそれは、僕の中の深い部分で、何かが変化したのだろう。精神構造を構成する、無数に折り重なった層を一枚一枚めくっていくと現れる、コアのような部分で何かが起こったのだ。その何かを突き止めるには、僕はその無数の層を一枚ずつ剥がして、その奥にあるコアに辿り着かなければならない。いくら自分のことでも、普通の人はその部分がどうなっているのかよく分からないものだ。人が自分の言動に自分自身で驚くことがあるのは、そういうことだ。そしてそこに辿り着くのは、簡単なことではない。上手くいったとしても時間がかかるし、ときには専門家の手助けが必要なくらい大変だ。

 目を閉じて、フィリピンでの出来事を思い出してみる。Keith Jarrettのピアノの音が、少し遠ざかる。

 サードワールドとしての一面と、それとは対照的な世界の同居。激しい貧富の差の上に成り立つ同居だ。恐ろしいほどの年収を誇る会社オーナーの下に、恐ろしいほど安月給の社員が五万といる。

 そして人間の欲望と弱さが浮き彫りになる街。それが人間の本来の姿であることを知らしめるように。

 あるいは人間としての躍動感と人間らしさが見える街。それが正直な生き方だと強調するように。

 そこで出会った貧しさの中で生きる、リンという若くて賢い女性。

 僕は彼女のことを受け入れながら、一方で彼女のことを拒否している。どこまでが受容でどこまでが拒否か、その境界は曖昧だ。僕はそのことを隠しながら、あるいは騙しながら、彼女と毎日楽しい時間を過ごした。

 日本に帰国後、僕は自分の寂しさを紛らわせるために、彼女と電話で会話し、確かに充足した。だから僕はいつも、何かを先送りする。楽しくて充実するから、意識的に、あるいは無意識的にいつでも先送りだ。そして同時に僕は、自分のそういった一面に嫌気をさす。しかし結局、自分は何もせず、何も決めず、ただ経過する時間を自堕落に見つめているのだ。

 つまり僕は、彼女と一緒に楽しい時間を過ごしたというだけで、人間らしく一緒に生きていたわけではないし、何かを共有したわけでもない。僕は単に、自分が一時的な充足を得るために、彼女の時間をお金で買取ったに過ぎないのだ。

 彼女は、『わたしはあなたにお金で買われるつもりはない』と言いながら、実はそのことに気付いていたのかもしれない。

 そもそも僕と彼女の立場は、全く違う。自分には選択肢があり、彼女にはそれがない。

 きっと電話で彼女が話した『わたしにはどうしようもない』というのは、そのことだったのだ。僕は彼女を、行き場のない袋小路に追い込んでいるのかもしれない。

 それでも正直に言ってしまえば、僕は自分がどうしたいのかよく分からない。そして彼女がどうしたいのかも分からない。

 ただ確かに、自分の中で何かが変わった。

 Keith Jarrettの指が飛ぶ。彼のぼそぼそと唸る声が、ピアノと一緒に録音されている。彼の演奏はいよいよ佳境に入り、彼は自分の世界に深く入り込んだのだ。

 それに合わせて、僕も考えることを止めた。自分の世界から脱出し、Keith Jarrettの世界に入り込む。

 翌日は久しぶりに、日本のオフィスへ出勤しなければならない。そうなれば、嫌でも頭の痛いことが盛り沢山だ。少し英気を養っておかなければならない。

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