第8話 セスナでボホール
テキーラで号泣したあと、彼女の母親はリンの顔に残る泣いた痕跡を見抜き、何かあったのではないかと心配したそうだ。
しかしリンは、そのことを告げただけで、なぜ泣いたかについては触れなかった。彼女が言わなければ、こちらから根掘り葉掘り訊くことはない。人は言いたければ言うし、言いたくなければ言わないのだから。そして言いたくないことは訊かれたくないだろう。
テキーラ飲み競走の一件からまもなく、二人はバニラッドの外れにある、初めての日本食レストランに行った。二人が初めてのデートでヒルトップへ行った際、彼女の話題にのぼったレストランだ。
店内では、目鼻立ちのすっきり整った日本人女将が、和服姿で店を切り盛りしていた。店の規模は大きくないけれど、白木をあしらえた小奇麗なインテリアには清潔感があり、同時に温かみを感じさせるものだった。
そんな店に、寿司を始め、一通りの日本料理を出すことができるフィリピン人の料理人がいた。彼は糊の効いた板前服を着て、調理場で一心に包丁を操っている。女将は、彼が自分の夫だと言った。
日本人男性にフィリピン人奥さんという組み合わせはよく聞くけれど、その逆パターンは珍しい。一体二人は、どういう経緯で結婚したのだろう。僕の興味が顔に出ていたのか、女将は世間話しついでに、それを教えてくれた。
「わたしが若い頃セブへ旅行に来て、リゾートで出会ったんですよ。ありきたりな出会いでしょう? でもそのときは、まさか自分がセブに住むことになるなんて、夢にも思わなかったんです。縁というものは、本当に不思議ですね」彼女はそう言って笑った。その笑い方に、朗らかな人柄が滲み出ていた。
僕は少し立ち入って訊いた。
「フィリピンに住むことには抵抗なかったですか?」
女将は笑みを絶やさず、答えてくれた。
「アメリカやヨーロッパならいざ知らず、フィリピンですから、それは両親にも反対されましたよ。わたしも暮らしていけるのか正直心配でした。でも結局、そういうときって自分のしたいようにするんですよね。それに実際、日本を飛び出してみれば、どうってことはなかったんです。住めば都というのは本当なんですよ。楽天家なんですかね、わたしって」
僕にはとても勇気の要る選択に思えたけれど、彼女はそんなことを微塵も感じさせない、明るい口調でそう答えた。
少し彼女を羨ましく感じた。多くの人は、自分にしたいことがあってもできず、何かに縛られて生きている。縛りのない人など、この世に存在しないのではないかと思えるくらい、それが普通だ。
自分を縛る何かは、大概世間体や将来性や金銭的なことだったりするけれど、要は自分に踏ん切りを付けられないことが多い。そんなときの不満は捌け口を失い、自分の中をさ迷うことになる。
「旦那さんの日本料理は、女将さんが教えたんですか?」
「そうなんです。でもわたしだけでは力不足で、母親にも何度か来てもらい、料理を伝授してもらいました」
女将はテーブルの脇で、料理ができてくるまでしばらく相手をしてくれた。
とても驚いたのは、女将が自分と同郷だったということだ。それも単なる同郷ではなく、小・中学校が同じで、同じ小学校に同時に通っていた時期が、一年あるという関係だった。そんな偶然に二人で驚き、それからは近所の人の話しを含め、局地的とも言うべきローカルな話題に花が咲いた。そして料理が出来上がると女将は、「お二人のお邪魔をしてすみませんね。どうぞごゆっくりしていって下さい」と流暢な英語でリンに言い、奥に戻った。
すぐにさび抜きの寿司と味噌汁が届く。
女将が同郷だったと、リンに説明した。
「あなたが日本に旅行に行って東京の小さなレストランに入ったら、そこのオーナーが、あなたの家から五軒離れた家の幼馴染だったという話しだよ。もちろん小学校も一緒。日本からこんなに遠く離れた場所で、それほど近所の同窓生に会うなんて、夢にも思わないことだよね」
僕は先に来ていた枝豆をきゅっと絞り、口に放り込んだ。
リンは中トロをつまんで、目を見開いて、これ美味しいという顔をした。
「それは確かにすごい偶然ね。でもあなたは、同じ故郷の人に会えて嬉しいの? それとも美人のママさんと話しができたことが嬉しいのかしら? とっても会話が楽しそうだったわよ」
それとなく、棘のある言い方だった。
「もちろん同郷だったことが嬉しいんだよ。ところで女将が教えてくれたんだけれど、あれを見て」
僕は店の壁に貼られている、一つのポスターを指差した。ポスターにはボホール島のチョコレートヒルと、世界一小さい体と大きな丸い目を持つ、ターシャという猿が写っている。そしてそれらの写真に重ねて右上に、控え目にセスナが飛んでいた。
「あれはなに?」
「ねえ、あなたは飛行機に乗ったことがある?」
「ないわよ」
「乗ってみたい?」
彼女は、それは一度は乗ってみたいわよと言った。
僕はすかさず言った。「だったら一緒に乗ろうよ」
「乗ろうって、どういうこと?」
「だからあのポスターだよ。プライベートセスナをチャーターしての旅行。ボホールの日帰りツアーらしい」
店内で食事をしていた日本人の二人組みが、自分たちの会話の合間に、ちらちら僕たちを見ている。僕はそのことに、とっくに気付いていた。
和食レストランは美味しく気軽だけれど、多くの日本人に出くわすのがたまに傷だった。アメリカ人もフィリピン人も、他人のことなど気にしない。しかし日本人は少し違った。日本人と若いフィリピーナが一緒に食事をする光景に何を連想するのか知らないけれど、いつでも何かしらの視線を向けてくる。
そんなことに気付いてか気付かずかリンは、「飛行機に乗ってボホールに行くの?」と訊いた。
「そう、飛行機は小さいけれど、僕たち専用だ」
彼女は一段と目を輝かせて、「すごい」とはしゃぐ。
「あなたがよかったら、明日にでも電話で予約する」僕は、ポスターの電話番号を自分の携帯電話に入力した。
そして翌日、ポスターに掲載されていた番号に電話をし、価格と予約状況を確認した。値段は若干高いけれど、専用で飛ばすのだから仕方ない。次の日曜の予約が取れ、二人のプライベートセスナによる、ボホール島日帰りツアーが決定した。
当日は朝が早く、七時半にマクタン国際空港に行かなければならない。夕食時、予約が完了したことをリンに伝え、朝が早いから遅刻をしないようにお願いした。
「だったら前日あなたの部屋に泊まりたいけれど、あなたは構わない? そのほうがお互い安心でしょう?」
「あなたが気にしないなら、それでいいよ」と僕は答えた。
彼女は目を瞬かせて「何を気にするの?」と言った。
「僕があなたを襲うかもしれないこと」
「あなたがそんな人だったら、わたしはとっくに襲われているわよ」
なるほど、どうやら自分は、信用されているらしい。
こうしてリンは、土曜日の夕食後に部屋へ来て泊まった。
部屋の灯りを全て落とした暗闇の中で、彼女は着ていた服を脱いで、下着姿でベッドに入ってきた。真っ暗な中で、彼女の白い下着がかすかに見えた。
彼女はキングサイズのベッドの上で、僕との間にしっかり距離をとって言った。
「グッドナイト」
僕も同じ言葉を返す。彼女が下着姿で横に寝ることは少し息苦しいけれど、同時に彼女のその態度は、僕に少しの安心をもたらした。ベッドの上ではそれ以外、何も言葉を交わさなかった。
翌朝、生まれて初めて飛行機に乗ることを楽しみにしていたリンは、遠足にはしゃぐ小学生のように僕より早く起きて、先にシャワールームで化粧をしていた。僕は起きてすぐに尿意をもよおし、彼女に一旦部屋のほうへ退却してくれるようお願いした。中途半端な関係の男女が一つの部屋に泊まるということは、意外に面倒なものだ。
彼女はバスルームに戻ると、化粧を続けながら大きな声で話しかけてきた。
「ねえ、空を飛ぶってどんな感じなの?」静かな部屋に、彼女の興奮気味の声が響く。僕は部屋のほうで、二人のコーヒーを準備していた。
「これがね、意外に電車や船に乗るのと大して変わらないんだ。ただ窓の外を見ると、街が地図みたいに見えたり、雲が自分の下に見えたりするのが珍しいけれど」
「でも実際に飛ぶんでしょう? まさか羽根のある飛行機で、地面を走ったり海の上を船みたいに行くわけじゃないわよね?」
僕は「それはそうだ」と言って、彼女にコーヒーができたことを告げた。
「だったら電車や船とは違うわよ。とっても楽しみ」
「今日はセスナだから、飛んでいる実感は大きいかもしれない。セスナは僕も初めてだから、どんなふうになるか分からないんだ。ボホールへ行くのも初めてだし、僕も楽しみだよ。島に着いたら、今度は車でボホール観光をする。昼食はボートの上で取るらしい」
「何を食べるのかしら?」化粧を終えた彼女はコーヒーを取って、ベッドの端に腰掛けた。
「バナナ何とかって言ってたよ。でもまさか、バナナでランチってことはないはずだから、バナナリーフ(葉)料理かな?」
「もしかしたら、バナナリーフの上にマクドナルドが乗っているかもしれないわよ」と言って、彼女は笑った。フィリピンの場合、本当にそんなことが有り得る。僕は彼女の冗談に、妙なリアリティを感じた。
彼女は何か大切なものでも持つように、両手でカップを抱えてコーヒーを飲んでいた。その仕草は、まるで年端のいかない少女のようだ。大人びて見えたり少女のように見えたり、彼女の見せるそんな変化はとても魅力的で、自分の奥底でうごめく何かを刺激する。僕はときどきそんな気分を、無理やりどこかに押し込める必要があった。
それから二人は、ジミーの運転でマクタン空港まで行った。
空港滑走エリアの本当に隅っこのほうに、セスナツアーカンパニーの小さなプレハブ事務所がある。そこへ辿り着くまで、ずいぶんと色々な人に場所を尋ねる必要があった。
事務所の中には、顎髭を持つワイルドな日本人男性が、一人ぽつんといた。彼は日本で見掛ける一般的社会人と、一線を画す雰囲気を持っている。「わたしがパイロット兼ここの社長です」と、開口一番に自己紹介をされた。
彼は、一応搭乗の手続きをする必要があると言い、面倒だけれど、必要事項を書いて欲しいと書類を差し出した。航空管理局への提出義務があり、それをもって飛行許可をもらう必要があるようだ。
ぶっきらぼうな印象と裏腹に、笑うと彼は、人懐こい顔になる。
僕とリンは書類を記入し、旅費と一緒に渡した。彼は一通り目を通すと、悪いけれど少し待って欲しいと言い、お金と書類を持って事務所の外へと姿を消した。
「彼は日本人なの?」とリンが言った。
どうやらリンには、パイロットが日本人に見えないらしい。確かに彼はワイルドで、日本人離れしている。
「そうだよ。彼はここの社長兼今日のパイロット。今支払ったお金で、彼は今日のガソリンを買いに行った。お金足りるかなあって心配してた」
「それ、真面目な話し?」
「どう思う?」
彼女は「ボアン」と言い、それから暫く沈黙が続いた。
事務所の窓から、滑走路のある広大な敷地を眺めていると、社長が息を切らして戻ってきた。
「ごめん、手続きに時間が掛かってしまった。全て済んだので、すぐに出発しましょう。準備はいいですか?」
リンの顔に緊張の色が伺える。実は飛行機に乗るのが怖いのだろうか。
セスナの前席は二人乗りになっていて、操縦桿も二つあった。操縦体験もできるけど、どっちが前に乗るかと訊かれ、僕はリンに前の席を勧めた。彼女はそれをかたくなに固辞し、さっさと後部シートへ滑り込んだ。その代わりパイロットの声が届くように、彼女にはヘッドフォンが手渡された。飛行中、パイロットがガイドをしてくれるようだ。その音声がマイクを通し、ヘッドフォンに届くようになっている。
セスナが離陸すると、マクタン島の外へ出るのはあっという間だった。もちろん自分たちの下には、真っ青な海が広がっている。海の青には濃淡があるけれど、いずれも汚れのない澄み切った青だ。潮の流れも海の表面の模様で見分けられる。
海原の中に、小さな島が点在していた。
「フィリピンに、いくつ島があるか分かりますか?」パイロットが訊いた。
僕は百くらい? と適当に答えた。
「七千あると言われているんです。おそらく政府も、正確な数を把握していないと思いますよ。なにせどんどん新しい島ができるんですから」
彼はそう言って、新しい島がどうやってできるかを説明してくれた。
「ほら、あそこに沢山の鳥がいるでしょう。サンゴが盛り上がっているところやちょっとした隆起に、ああやって鳥が羽を休めるために集まるんです。そして糞をする。その糞には植物の種が混ざっているんですよ。すると草木が生えてそれが増え続け、地面も増える。これを長年繰り返すと、最初は鳥数羽分の小さなエリアが、いつの間にか立派な島になるというわけです」
小波に太陽光線が反射し、海がきらきらと輝いていた。空から見ると、とても穏やかな海だった。
「宙返りなんかもできますけど、やってみます?」
僕はこの提案にとても興味があったけれど、リンが絶対にだめと叫んだ。その代わりパイロットは、急降下や急上昇をやってくれる。遊園地のジェットコースターでは味わえない迫力に、僕はすっかり夢中になった。ふと思い出して後ろの席を確認すると、リンが蒼白な顔をしている。その後水面近くまで降下し、しばし高速フェリーと並走し、セスナは滑走路が一本だけの寂しい空港に無事着陸した。
リンは思ったより具合が悪く、飛行機から降りるとすぐにトイレに駆け込んだ。パイロットは鼻の頭をかいて、「ちょっとやり過ぎたかなあ」と反省している。僕は彼に、帰りは大人しい飛行をお願いした。
リンはトイレから戻ると、少し落ち着いたようだった。二人を観光に連れていってくれる車は既に到着し、フィリピン人ドライバーが紹介された。
それから僕たちは、ボホール島の名物、チョコレートヒルを見たり鍾乳洞に入ったり、とても大人しく動作が緩慢なターシャという小さな猿を抱いて、記念撮影をした。
チョコレートヒルは、標高三十~百数十メートルという比較的小さな規模の、形が円錐の山の群集だ。三百六十度のパノラマで、ぼこぼこと地面から生えるように乱立する小山の景色には、地球上のものとは思えない不思議さがあった。僕が見たそれは緑色だったけれど、乾季には全て茶色になるため、チョコレートヒルと銘々されたようだ。
ボートで川下りをしていると、川の両サイドのジャングルで、地元のたくさんの子供たちが川に飛び込んだり木に登って遊んでいた。どこへ行っても原生林に囲まれた自然だらけの場所で、まさにそこには、僕がフィリピンを訪れる前に想像していたフィリピンの姿があった。
昼食は、食事が口に合いそうになければ、マクドナルドを買ってくると言われて驚いた。お願いすれば、バナナリーフの上に本当にマクドナルドが乗っかるランチになったのだ。もちろん二人は、用意された地元の料理を美味しく食べた。
移動中の車の中で、リンが思い出したように「海って青いのね。初めて知った」と言った。
それを聞いた僕は、海の近くに住んでいながら、そんなことも知らなかったのかと呆れた。そして不思議とこのとき、彼女と自分には、何か根本的な違いがあることを強く感じた。自分の常識が彼女の常識ではない、という類いのことだ。もちろんその逆のことも、普段からたくさんある。
僕はそのことを、否定的には捉えなかった。だから一緒にいて退屈しないのだ。そのほとんどはお互いが妥協したり学習し、折り合いをつけることができる。
その度に自分の何かが変わる。自分の世界観、常識、許容範囲、そういったものがじわりと変わっていく。ぽたりぽたりと水滴が垂れてコップに水が貯まるように、自分の中で何かがゆっくり変化していた。
彼女との付き合いがもたらすそうした影響は、自分の人生の中で、決して小さなことではないような気がしていた。おそらく僕は、この付き合いの中で、いつでもそういったことを無意識に感じ取っていたのだ。
「それにしても、飛行機って思ったより大変なのね。ねえ、帰りは船で帰りたいと言ったら、あなたは怒る?」彼女の目に、哀願の色が宿っている。
「怒らないけれど、少しもったいないなあ。パイロットには、帰りは静かに飛んで欲しいとお願いしておいたから、きっと大丈夫だよ」
彼女は、そう? と少し疑った顔をしたけれど、僕たちは予定通り機上で美しいサンセットを眺めながら、セスナでマクタン島に戻った。
帰りの飛行機を渋ったリンは、空から見るサンセットに、まるでそれを独り占めしているみたいと言って、とても喜んだ。
こうしたイベントも拍車をかけ、二人の距離は継続的に縮まった。その変化は、常に縮まる方向で安定していた。毎日一緒に食事をし、休日にデートを重ねれば、それは自然な成り行きと言うべきかもしれなかった。
僕のフィリピン滞在期間は、残り半月しかない。あと半月で、僕は日本に帰らなければならないのだ。リンもそのことを知っている。
その後の二人の関係について、僕には何もプランがなかったし、彼女のほうからも、特に何かを示唆することはなかった。場末のバーで働くビビに話した通り、二人はキスすることも手をつなぐこともなく、特別な親友のようにお互い振舞っていた。それは男女の間では逆に不自然な感じがするくらい、自然にそうしていたのだ。いずれ僕が日本に帰って自然消滅する関係なら、良き友人のままでいるほうがお互い幸せだと、彼女も思っていたのではないだろうか。
彼女はこのボホール島ツアーを契機に、自分の都合に合わせて僕の部屋に泊まるようになった。しかし、心の距離は縮まるばかりなのに、友だち以上恋人未満という二人の関係には、何も変化が訪れなかった。僕はそのことに納得し、帰国が迫っているという焦りもなかった。川の流れが海の手前で淀みを作るように、そのことに関して自分の思考は停止していた。
僕はそのことを、努めて考えないようにしていたのかもしれない。彼女の存在の重みが自分の中で増していることに気付きながら、敢えてそのことに気付いていないふりをしていた。僕はおそらく、先のことを考えたくなかったのだ。
自分の中には、考えてもどうにかなるものでもないという諦めのようなものがあったし、彼女を傷つける状況を作りたくないということもあった。もちろんそのまま日本へ帰る寂しさのようなものもあれば、彼女が自分をどう思い、どうしたいかを掴み切れない歯がゆさもあった。淀みの中では、その状況から抜け出すべきだという気持ちと、そのままでいいという気持ちが絡まり、いくつかの小さな渦を作っていたのだ。
それでも僕は、何もはっきりさせることなく、残りの半月という月日を淡々と消化した。
帰国日の前々日、二人はいつもと変わらず一緒に夕食を取り、そのあと宿泊ホテルのラウンジで、ピアノの生演奏をバックに静かに語り合った。会話はお互い僕の帰国のことには触れず、普段と同じように、どうでもよい話題に終始した。そして彼女は、僕の部屋に当たり前のように泊まった。
もうじき離れ離れになるというシチュエーションであってさえ、部屋の中で感傷めいたことはなく、二人はいつもと同じくベッドにただ並んで、一緒に寝るだけだった。
そして僕は何もはっきりさせないまま、帰国日前日の朝を迎えた。
出勤前、リンと夕食の確認をした。
「今日が最後の食事になるから、場所はチャコールグリルにしようと思うけれど、どう?」
高級で豪華なレストランではなく、二人の原点のような存在のそこが、最後の晩餐には相応しいと思ったのだ。
彼女も「そうね、わたしもそこにしたい」と言った。
「おそらく僕は、九時頃に次の場所へ移動しなければならないと思う」
工場スタッフによる、自分の送別会があるのだ。それはどうしても断ることができなかった。
「仕方ないわよ。わたしのことは気にしないで」
「それじゃあ今晩、チャコールグリルで六時に」
僕はそう言って、彼女を部屋に残し、カンパニーカーで出勤した。
その日工場で、大した仕事はなかった。三ヶ月間のまとめと称して、みんなで取り組んだ成果を確認し、みんなの協力に対する感謝の意を表する挨拶をしたくらいだ。
そして夕刻、僕は少し早めに仕事を終え、誰もいない部屋に戻ると、翌日の荷物の整理をした。
静まり返った部屋で、一つ一つの荷物をスーツケースに詰めながら、僕は動かす自分の腕が少しずつ重くなるのを感じた。
正直に言えば、できることなら帰りたくないという気持ちが、冬の低くて重苦しい空のように心を覆っていた。
荷物の整理を終え、少し早めにホテルを出た。チャコールグリルに向かう足取りは重かった。
歩きながら、どこかでこの気持ちを切り替えたいと願った。せっかくの最後の晩餐だ。せめて楽しく締めくくりたい。どうせどんなに頑張っても、帰国の日程は自分の一存で変更できないのだ。もちろん会社に背くつもりがあれば、物理的には可能だ。しかし僕にそんな度胸はない。
人は普通、自分の思う通りにはなかなか生きられないものなのだ。日本食レストランの女将の顔が浮かぶ。僕はあの人のように、強くなれないのだろうか。
その日のチャコールグリルは、テーブルが三割程度しか埋まっていなかった。それでも辺りにバーベキューの香ばしい煙が立ち込め、どんなときでも淡々と営業する、レストランの寡黙さが感じられた。時間は少し早く、リンはまだいなかった。僕はビールとつまみを頼んで、リンを待つことになった。
もうもうと炭焼きから立ち上がる煙が、裸電球の周りを漂っていた。ほんの三ヶ月前、セブの街の至るところにぶら下がる裸電球に侘しさを感じたけれど、今は不思議とそれが、暖かく心に染み入る。
空の色は紫がかり、夕刻の雰囲気を滲ませていた。セブでの最後の夜が、すぐそこに顔を覗かせているのだ。このまま時間が止まってしまわないだろうか。
頼んだビールは三口くらい飲んで、そのままになっていた。誰かがレストランの敷地に入ってくる度に、僕は薄暗い入口付近に気を取られ、それがリンではないと分かるとほっとした。彼女にどういった顔で向き合えばいいのか分からないのだ。
そして僕は、もしかしたら彼女は来ないのかもしれないと思い始めた。リンは時間には少々ルーズだったけれど、約束をすっぽかすことはなかった。それにも関わらず、僕はそんなことを考えていた。しかも、もし彼女が来なければ、それはそれでいいのかもしれないと思っていた。もしそうなら、もやもやする胸の内に自ずと決着が着くと思っていたのだ。僕はどこかで、彼女に来ないで欲しいと願っていたのかもしれない。
しかし間もなく、ほぼ時間通りに、彼女はあっさりやってきた。僕は手を上げて、自分の場所をリンに示した。リンはいつもと変わらぬ調子で、「グッドイーブニング」と言った。
「時間通りに来たんだね」
最初の言葉を発すると、少し心が軽くなった気がした。
「それはそうよ。だって今日、あなたは時間がないんでしょう?」
「そうだね、助かったよ。飲み物と料理はいつもの通りでいい?」
彼女が頷き、僕は前方の食材コーナーで、チキンバーベキュー、ベイクドタラバ、ベイクドタホン、ベジタブルキニラオ、マンゴシェークを注文し、テーブルへと戻った。
改めてリンと向き合うと、僕は何を話せばいいのか、分からなくなった。
彼女は「どうしたの?」と言った。
意外にいつもと変わらない彼女を見て、自分は少し、思い込み過ぎるのだろうかと疑った。僕は何かが重苦しくて、平然を装うのに疲れ始めている。それなのに、なぜ彼女はいつもと変わらないのか、それが理不尽に思えてくるのだ。
「ごめん、まずは乾杯しようか」
「そうね、わたしたちの思い出に乾杯」
珍しくリンが、乾杯の音頭を取った。合せたグラスが、とても澄んだ音を出した。
「出会ってから二ヶ月間、あっという間だったね」
「そうね。早かった。最初に会ったときは、こんなふうに付き合うなんて思いもよらなかったけれど」
彼女はいつもより、はつらつとしていた。しんみりされるより、そのほうが気楽かもしれなかった。
「本当にそうだね。おかげで楽しいセブ出張になった」
「わたしも楽しかったわよ。今まで見たことのない世界をたくさん見せてもらった。たぶん一生忘れないわ」
「そう言ってもらえると嬉しいよ。僕にとっても忘れることのできない月日になった」
「何が一番忘れられない?」と彼女が訊いた。
そんなふうに訊かれても、色々なことがあり過ぎて、簡単には絞り切れない。しかし何といっても思い出深いのは、意外性をたっぷり含んだ最初のデートだ。
「一番は、間違いなくヒルトップの夜景だよ。あれがなければ、僕たちはこんなふうに付き合っていなかったかもしれない。そして一番驚いたのは、オカマバーだね」
彼女はくすくす笑った。
一度二人で、オカマバーに行ったのだ。オカマバーは面白いという噂を聞いて、リンに連れていってもらった。
バーの中には半円のステージがあり、ステージに沿ってテーブルと椅子が並んでいた。リンはステージから一番遠く離れたテーブルを選んで座ったけれど、ショーが始まると僕はせっかくだからと、ステージ真ん前の椅子に一人で移動したのだ。しかし不思議と、入れ替わりでダンスを披露するのは、どれも若いれっきとした男だった。どの角度から見てもオカマには見えず、誰もがブランド品の靴や服を身に付け、フィリピンでは珍しく、身の回りに金をかけている男たちだった。
そして全ての男が僕の前に来て、腰を振ったりズボンのジッパーを下ろしたり、こちらにセックスアピールのようなことをしていった。中には僕に抱きつき、キスを強要しようとした男もいたのだ。
僕がそれを不思議がると、リンが言った。
「みんなあなたをオカマだと思っているからよ。あのバーはオカマがショーをするんじゃなくて、客のオカマが男を探すバーなの」
僕は、バーのネーミングの意味がまるであべこべなことに、目を丸くした。
「それじゃあ、あの男たちは、普段オカマと寝てお金を稼ぐの?」
「そうよ、知らなかったの? それとお金持ちふうのおばさんが客で何人かいたでしょう? 彼女たちは、若い男を買いに来ていたの」
そんなことは、知るわけもなかった。フィリピン性風俗産業の奥深さは、日本人の想像を遥かに超えていたのだ。
「あのときあなたの慌て様は、離れた場所から見ていて面白かったわよ」
「僕は冷や汗ものだったけどね」
彼女は楽しそうに笑う。
「わたしはね、あなたの冗談が、いつも楽しかったわよ。名作は、お札の洗濯の話しね」
僕はとても綺麗好きで、ときどき日本で、お札を洗濯していたという作り話しだ。僕はとても汚れているフィリピンのお札に我慢ならなくなり、ホテルの洗面台で有り金全部を洗濯した。するとそれらは水に溶け、跡形もなく消えてひどく後悔したことを、フィリピン政府が如何にいい加減で手抜きをしているかを示すように語ったのだ。もちろん彼女は、甲高い声を出して笑った。
僕はそんな作り話しを、いつも彼女に提供した。そして彼女は必ず、その手の話しに「クレージー」と言うのだ。そして二人の間では、そう言った類の冗談話しを、クレージートーキングと固有名詞的に呼ぶようになった。
こうして振り返えると、短期間に二人でとてもたくさんの話しをして、希少な体験をした。庶民的レストランから高級レストランまで、名の通った店はたいてい二人で試してみた。出会ってから後半は毎日会っていたのだから、思い出は数限りなくあるのだ。
振り返りでもう一度楽しめるほど、楽しいことが盛りだくさんだった。だから二人の話しは、思い出話しだけで予想外に盛り上がった。幸か不幸か、時間も会話に消化不良を起こすくらい、とても早く過ぎた。
でも僕は途中で、早い時間の流れに、焦りを感じ始めていた。もっと何か、彼女に言うべきことがあるのではないかという気がしたのだ。しかし、実際には何を話すべきかよく分からなかった。
その内僕は、思い始めた。
もしかしたら、言うべきことなどほとんどないかもしれない。言わなければならないのは、彼女に対する感謝の気持ちだけかもしれない。それ以外、僕には彼女に約束すべきことはないし、告白すべきこともない。敢えてもやもやした自分の胸の内を披露したところで、それは大きな意味を成さないのだ。
僕は色々迷っているうちに、きっとそれが正解だと思い始めた。だから僕は最後まで、その日の会話を、普通の世間話しで通すことにした。
空には綺麗な月が浮かんでいた。目を凝らしても、月の明るさで星はそれほど見えなかった。その代わり、月の表面の模様がくっきりと見える日だった。その模様にウサギが餅つきをする姿を重ねてみると、月の表面で本当にウサギが餅つきをしているように見える。一旦そんなふうに見え出すと、決して他の模様には見えないのが不思議だった。
そしていよいよ、お別れをしなければならない時間がきた。時間の短さというものは、はかなく酷なものだ。いくらこの時間が永遠に続くことを望んだところで、時間切れは必ずやってくる。
最後の乾杯をした。
「あなたと知り合えて、本当に良かった。とても楽しかった」それは、心からの気持ちだった。「本当にありがとう」
リンはそんな僕に、こう言った。
「バイバイ、ジャパニーズ」
それはおどけた明るい口調だった。やもすれば、とても軽薄に聞こえた。その軽薄さは、僕の心に小さな影を落とした。
僕も彼女に、その言葉に相応しい雰囲気で、もう少し何かしら言葉をかけなければならないだろうか。そう考えながら、僕はリンの顔を正面に捉えた。
そのとき、無言で自分を見返す彼女の大きな目に、泉が湧きだすような静かさで、涙がゆっくり溜まっていった。彼女の目に収まりきれなくなった涙が、音もなく彼女の頬を伝った。彼女の目に裸電球の灯りが映り込み、その瞳は宝石のように美しく煌めいた。
突然のリンの変わりように、僕は困惑した。頬を伝った涙を、彼女は慌てて自分の手で拭った。
その時初めて、僕は彼女の本心を垣間見たような気がしたのだ。
僕はリンを、愛しく思った。優しい言葉も掛けてあげたかった。
しかし、それができなかった。その期に及んで、自分は何かを迷っていたのだ。僕は、テーブルの上に置かれた彼女の手に、黙って自分の手を重ねるのが精一杯だった。
チャコールグリルを出てタクシーを拾うまでの間、歩きながら僕は彼女に、またあなたに会いたいと言った。彼女は、あてにしないで待っているわと、冗談のように答えた。
目の前にタクシーが止まる。
最後に彼女は、僕の頬に軽くキスをして、無言でタクシーに乗り込んだ。
彼女を乗せたタクシーのテールランプが、非情にも早い速度で小さくなる。僕は薄暗い路地に立ち、テールランプが通りの向こうに消えるまで、黙ってそれを見送った。
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