第7話 イタリアンと場末のバー

 相変わらずセブは毎日が真夏で暑かったけれど、日本はそろそろ梅が咲き始める季節となった。一月の初めにセブへ上陸し、二ヶ月が経とうとしている。

 リンと出会ってからはほぼ一ヶ月。二人は旧知の仲のように遠慮がなくなり、何でも話せるようになっていた。僕はそんなある日、リンをセブで有名なイタリアンレストランに誘った。

 彼女は目を輝かせて、その誘いを喜んだ。

 バニラッドのマボロ寄りエリアにあるイタリアンレストランは、店内全体がダークブラウンの装飾のせいで、やもすると重苦しいくらい落ち着きのある店だった。照明もヨーロッパと同じく、雰囲気を楽しむ以外は何もとりえがないくらい薄暗い。もちろんワインセラーは地下にでもあるだろうけれど、壁の一部には格子棚にずらりとワインボトルが納まっている。

 店内にどんな音楽がかかっていたのか、不思議と思い出せない。もしかしたら、そういった音は一切なかったのかもしれない。ボーイは全員が白ワイシャツに蝶ネクタイ、黒のスラックスに黒の革靴という、セブでは珍しいくらい気を遣った店だ。

 車が店の前に到着すれば、外で待機している店員が、車のパーキングや客の案内をしてくれる。店のドアの開け閉めを一切自分でする必要がなく、テーブルへの案内も、途中で客を一度も立ち止まらせることのないよう細心の注意が払われる。

 僕は初めてそのレストランに行ったとき、どこでも穴だらけのサービスが普通のフィリピンで、珍しいほどパーフェクトを目指した店だと感心した。


 僕とリンは店員が引いてくれた椅子に腰掛け、向かい合わせでテーブルについた。店員が二人にメニューを手渡してくれる。

 彼女は一応メニューを開いたけれど、「全てあなたに任せる」と言って、素早くそれを閉じた。

 僕はフレッシュジュース、トマトスープ、野菜サラダ、ボロネーズ、そしてメインに子羊のローストを頼んだ。

「僕はトマトスープがあまり好きじゃないけれど、このレストランは特別なんだ。しっかりにんにくを炒めて下味を作っているから、とても本格的で美味しい。日本にもたくさんイタリアンレストランがあるけれど、これほど美味しいトマトスープはなかなかお目にかかれない」

 彼女は「そう?」と言ったきり、口をつぐんだ。

 彼女は僕のお気に入りトマトスープを半分残した。そしてパスタが届くと、彼女はその皿を前に「これはどうやって食べるの?」と言った。

 僕は、スプーンの上でフォークをくるくる回し、パスタをフォークにからめて食べたらいいと言って、実際にそれをやってみせた。最初彼女は、ぎこちない手付きでそれをやっていたけれど、半分も食べないうちに、フォークとスプーンを皿の上に置いてしまった。

「どうしたの? 美味しくない?」

 彼女は「あまり食欲がないの」と言った。肉料理がサーブされてからも、リンは口数が少なく、料理にもあまり手を付けなかった。

 僕はとても心配になった。

「どうしたの? ここの料理は口に合わない? それともどこか身体の調子が悪い?」

「ノー、大丈夫よ。食欲がないだけ」

 会話はそれで途切れる。

 どうみても、彼女は体調不良か機嫌が悪いかだ。それで僕は、彼女に何かを話しかけることができなくなってしまった。

 僕は懸命に、その日自分が彼女に話した内容を思い出していた。自分が何か、彼女の気に障ることを言ったのかもしれない。しかし何も思い当たることがなかった。

 周囲のテーブルでは、各々が親密に話しながら食事を楽しんでいる。その中で自分たちのテーブルは、まるで透明な壁で隔離でもされているように浮いていた。

 仕方なく僕は、早々に食事を切り上げ、レストラン前の大通りで流しのタクシーを拾った。僕がドライバーに、いつも行くコーヒーショップの入るモールを行き先として告げたとき、彼女が突然「お腹が空いた」と言った。

「え?」僕は驚いて「さっき、食欲がないと言ってたのに?」と思わず言った。

「さっきは食欲がなくてあまり食べてないから、今お腹が空いたの」

「そうなの? それならいいけど、何が食べたい?」

 彼女は僕に答えず、ドライバーに「チャコールグリルに行って」と告げる。

 僕はまた驚いてリンの顔を見たけれど、彼女はまっすぐ前方を見つめたまま沈黙している。僕は今ひとつ事情が飲み込めないまま、腫れ物を扱うように彼女に従い、自分も沈黙を守った。


 チャコールグリルに到着して一通りオーダーを済ませると、彼女が唐突に「ごめんなさい」と言った。

「何が?」僕は何のことを言われているのか、まったく分からなかった。

「わたしの態度」

「やっぱり何か怒っていた?」

 彼女は口を結んでゆっくり頭を振る。

「違うの。あのレストランに入ったらとても緊張して、全然食欲が出なかったのよ。周りの目が気になって居心地が悪いし、そんな自分も情けないし、あんなレストランに普通に行くことのできるあなたはやっぱり別世界の人みたいに思えてくるし、とにかく色々あって苦しかったの」

「苦しかった?」

 胸に突き刺さる言葉だった。全てが分かると、彼女に対してかわいそうなことをしてしまったという思いが、僕の心を覆い始めた。

「それで? 今はもう大丈夫?」

「大丈夫。ここは落ち着く」

 僕はリンと、いつも自然体で付き合っているつもりだった。もちろん、何かを彼女に自慢するつもりは毛頭ない。むしろ彼女が負い目に感じそうなことは、できるだけ避けたいと思っていたくらいだ。

 一方で、自分の住む世界のことを、彼女に見せたいという気持ちもあるけれど、それは彼女に、色々な世界を体験させてあげたいという親心のようなものだった。

 しかしそんなふうに気を付けているつもりでも、アクシデントで彼女を傷付けることが起きてしまう。リンに自分の世界を見せることが、彼女にとって有難いかどうかもこれでは怪しい。僕は改めて、この付き合いには意外な難しさがあると感じた。

「そう、それは悪いことをした。もし居心地が悪いなら、その場で話してくれてもよかったのに。僕はどこで食事してもいいんだ」そう言った後、すぐに思い直す。「もっとも、そんなことをあの場で簡単に言えないことを、僕はよく理解しなければならないね。これからは気を付けるよ」

 彼女は「ありがとう。ごめんなさい」と言った。

「謝る必要はないよ。とにかく様子が変だった理由が分かって安心した。僕はずっと、自分の何かがあなたを怒らせているのだろうって、そればかりを考えていたから」

 彼女は頭を左右に振る。

「あなたは何も悪くないから、心配しないで」

 リンはタラバを食べて、いつもと同じ彼女に戻った。

 お互いの生活環境の違いは、思いも寄らないところに歪みを生む。僕はイタリアンレストランの一件で、それを深く胸に刻んだ。

 それから僕は、二人の食事場所として、ときどき日本食レストランを含む、ローカルレストラン以外の場所を選ぶようにした。もちろん事前にレストランの雰囲気を彼女に説明し、無理をせず、少しずつ彼女が慣れていくように。そして彼女の気に入るレストランがあると、僕はそれを、二人の食事場所のローテーションに加えた。


 初めてリンを日本料理レストランに連れていったとき、彼女は和食をとても気に入った。刺身も問題なく、彼女は寿司を事の他美味しいと言った。わさびは口に合わず、箸の先に僅かにつけたそれを恐る恐る味見し、彼女は驚いたように目を見開いたあとで顔を歪ませた。

「それは日本のスパイスだよ。元々殺菌作用があるから、生魚に使われていたんだ。今は食あたりの心配がないから、単に好みで使われる」

 もちろん彼女は 箸を上手に使えない。僕は店にスプーンとフォークを頼んでから言った。

「寿司は手を使って食べていいよ」

 僕は手で寿司をつまんで、それをひっくり返し、具の半分ほどに醤油をつけて食べてみせた。彼女もそろりと僕の真似をした。

 他には揚げ出し豆腐や大根の煮物、カツ丼や天丼、てんぷらなども彼女のお気に入りとなった。特に彼女が目を見開いて美味しいと言ったのは、意外にも枝豆だった。彼女はそれを、初めて見たと言った。

 基本的に醤油ベースの食べ物は、フィリピン人の口に合うようだ。彼女は色々なものを試食のようにつまみ、気に入ったら必ず「これ、どうやって作るの?」と僕に訊いた。

 僕はできるだけ調理方法を説明し、日本料理は材料の持ち味を大切にすることや、そのためにシンプルな味付けを心掛けることを彼女に教えた。

「だから塩や醤油の調味料にこだわるし、特に出汁を丁寧に美味しく作るのが大切なんだ」

 彼女は素早く瞬きをして、「出汁ってなに?」と訊いた。

「乾燥させた魚や昆布をボイルして、そこでできた液体を出汁と言うんだ。それをお湯や水の代わりに使うと、料理が美味しくなる。そう言えば、洋食でもベーコンが出汁を取るために使われるし、最近はフランスでも、有名なレストランは必ず昆布を持っていると言われているよ」 

「フランスのレストランって、フランス料理を出すんでしょう? フランス料理と日本料理は似ているの?」

 彼女の興味は尽きないようだった。僕はリンに、彼女の知らない世界を見せてあげるということを、こんなふうに実践するのがいいのかもしれないと思いながら、料理の話しを続けた。

「見た目は全く違うけれど、本質は似ている。それはどちらも材料の味を重視すること。だからフランス料理も色々あるけれど、本物はとても薄味なんだ。日本人とフランス人の舌が似ていることも、よく言われていることの一つだよ」

「でも、わたしたちが食べている日本料理は、薄味とは言えないわよね?」

 確かにその通りだ。

「セブの日本料理は偽物が多いからね。日本で食べる日本料理はもっと繊細で、材料の良さが前面に出ているものもある。だから料理人は、材料の良し悪しが分からないと、一人前にはなれないと言われているよ」

 彼女は自分が納得できないと、いつも追求に遠慮がない。

「偽物でもとても美味しいわよ。美味しいか美味しくないか、それが大切じゃないかしら」

「それはもっともだと思う。でも、もしあなたが本物の日本料理を食べたら、もっと美味しいと思うかもしれないし、逆に美味しくないかもしれない。それは今のところ分からない」

「あなたはどうなの? 本物は美味しい?」

「さあ、僕も本物を食べているのかどうか怪しいから、実はよく分からない」と、正直に言った。

「それはどういう意味?」

「つまりこの場合、本物とは何かが僕にも分からないんだよ。あなたにとっては、日本で食べる日本料理はそれだけで本物になるかもしれない。でも、日本の中にもレストランが色々とあって、僕のような庶民は、値段の高い、本当に美味しい料理を出すと言われる高級レストランに行くことができない。そうなると、僕にも一体何が本物で、それがどれくらい美味しいのか分からない。ただね、少なくとも、僕もセブの日本料理は美味しいよ」

「結局そうなの?」彼女がそう言って、僕たちは間の抜けた結論に二人で笑った。

 笑いに一息つくと、「ねえ」とリンが言った。「結局わたしたちって、いつも目にしているものでも、それが本物か偽物か分からないものよね」

「そうかもしれない。そもそも本物とは何か、それすらよく分からない」

 普段、自分たちが見聞きするもの、そして自分の話す内容でさえ、本物と呼べるものはほとんどないような気がする。つまり、全てが模倣や誰かの受け売りと言ってもいいのではないか。

「そうね。ねえ、だったら一つ聞きたいことがあるの。あなたにとって、本物の愛って何だと思う?」

 リンはいたずらっぽく僕を見てから、ジュースを一口含んだ。グラスに添えられた彼女の指は繊細で、僕はいつも、それを見るのが好きだった。

「あなたは僕がどう答えるか、試しているでしょう?」

「どうして分かるの?」彼女はクスクスと笑った。「でも本当に知りたいのよ、あなたがどう答えるのか」

 彼女は僕に、この難しい問の答えをどうしても言わせたいようだ。僕は少し考えて、一つの例として言った。

「自己犠牲を厭わない信念的感情、でも一方で盲信的感情、そしてときには理性的感情」

「なによ、それ。さっぱり分からないじゃない。そもそも理性的感情って何よ。理性と感情は全く違うわよ」

「僕にもよく分からない。ただ愛という感情は、ときには理性に支配されることがある気がする。その逆に、理性が愛という感情に支配されることはよくあるよね。それに愛が信念や盲信を作り出すこともあるし、その逆もありそうでしょう?」

 彼女の表情が、瞬間冷凍したみたいに固まった。そしてゆっくり眉間に皺が寄る。

「正解を言われているような気がするけど、何か騙されているような気もする」

 僕はのけ反ってかぶりを振った。

「騙してなんかいないよ。でもね、神でも家族でもない他人の本物の愛って、どうやって定義する? それに、本物だと証明するにはどうすればいい? それが曖昧だとしたら、愛の本物性を議論しても仕方ないように思うけど」

「仕方ない? そうなの? それはどうして?」

 さりげなく始まった議論は、少し複雑な領域へ入りつつあるようだった。

 そもそも、本物の愛とは何かなどということは、永遠のテーマではないだろうか。その解を求めるなど、所詮無理なことなのだ。それでも僕は、議論の着地点がどうなるかなど気にせず、思ったことを言える。彼女との会話には、いつでもそういった気軽さがあった。

「例えば、絵画で本物といえばオリジナルだよね。それは明らかだ。けれど、とても気に入って買った絵画を眺めていつも幸せな気分になれば、その絵画が偽物でも大きな問題はないんじゃないの?」

「でも偽物と知った途端、とてもがっかりしない?」

「そうかもしれない。でも、その絵画は何一つ変わらない」

 彼女は素早く瞬きをして、無言になった。

「みんなそれが本物だというお墨付きが欲しいだけで、それ自体にどんな価値があるのか見えなくなるんだ。きっとそれが、本質を見失うということの不幸だよ」

「つまりセブの日本料理が偽物であっても、わたしがそれを美味しいと感じることが大切であって、それが本物かどうかという議論は意味がないということ?」

 僕は「おそらく」と言った。「愛の大きさは同じでも、あなたがそれを本物と思えば幸せな気分になれる。偽物と思えば幸せは半減だ。あなたがどう感じてどう思うかが問題で、おそらくその愛が本物かどうかは議論の対象にならないんだよ。それは理屈ではないんだから」

 世の中にどれだけ普遍的なものがあるのか、それすら怪しい。常識さえセブの天気のように簡単に変わる。言葉も生き物のように変わるし、正義の定義だって変わる。大勢の人が正しいと言えば辞書は書き換わるし、強い者が正義を振りかざせばそれが正義になる。そうなると、一体何が本物なのか分かりづらい。同じように、愛の定義だって、いつ変化しても不思議ではない。しかしそんな定義など、実際には何の足しにもならない。本物というものはとてもシンプルで、お墨付きなど不要なものなのだ。

「きっとあなたも本物の愛に出会えば、嫌でもそれが何か分かると思うよ。それは理屈じゃなくて、経験値だから」

 彼女は再び眉間に皺を寄せた。

「どこかで聞いたような話しね」

 僕は思わず笑った。

「それはそうだ。人の言葉なんて、ほとんどが受け売りなんだから」

 彼女はふふんと鼻で笑い、またいたずらっぽい顔を作った。

「それじゃ最後に教えてよ。本物の愛に出会うためには、どうすればいいの?」

「それにはもちろん、人を見る目を養う必要がある。人を信じる心を持つことも重要になる。でも……」

「でも?」

「最後は運かな?」

 彼女は意外な顔をして、「結局そこなの?」と大きな声で言ったけれど、少し考え込んでから「確かに運はあるわね」と、勝手に納得しているようだった。


 僕の積極的なレストラン巡りは、リンに対して功を奏した。彼女は次第に、どんなレストランでも気軽に食事をすることができるようになった。一度は緊張し過ぎて食欲を失った、あのイタリアンレストランでさえもだ。

 こうして僕たちの行動範囲は、以前に比べて随分広がった。

 食後もコーヒーショップだけでなく、落ち着いたホテルのラウンジでゆったりとした時間を楽しむこともあれば、僕がかつて行ったゴーゴーバーで、久しぶりに会う女性にリンを紹介し、一緒に騒ぐこともあった。

 その流れで、ある日僕たちは、食後に少し変わったバーに行くことになった。それまで行ったことのない場末のバーだ。リンに、友だちが働いているから連れていって欲しいとお願いされたのがきっかけだった。

 

 そのバーは、とても辺鄙な場所にあった。タクシーで道に迷いながら、ようやくたどり着いたのだ。

 バーの扉を開けると、いきなり単調な四角い大部屋があった。壁際に長いソファーがいくつか並び、その前にテーブルが等間隔で五つか六つ配置されている。こじんまりとして、お金のかかっていない店だった。

 ゴーゴーバーではなく、ローカルソングのカラオケはあっても、カラオケバーと呼べるほどでもない。女性は何人かいたけれど、豪華絢爛というふうでもなかった。

 僕たちがテーブルに着くと、店の奥からリンの友だちが姿を現した。僕とリンが隣り合わせに座り、リンの隣にその友だちが座る。そして僕の隣には、その友だちが紹介してくれた女性が座った。

 つまり僕の横に座った彼女は、友だちの友だちの友だちということになる。遠い親戚より近いのか遠いのか分からなかったけれど、リンが友だちの友だちというだけで、その女性はとても気さくで親切だった。

 リンの友だちは名前をアビといい、アビが紹介した僕の隣に座わる女性は、ビビといった。アビにビビ。まるで漫才コンビのような名前だった。

 四人で乾杯したあとに、リンが僕をアビとビビに紹介してくれた。そのとき彼女は英語を使ったけれど、リンがアビと話し込むときに、彼女たちは地元言語のビサヤを使っていた。

 リンは次第に、アビと話し込むようになった。もともと二人は、何かの話しがあったのかもしれない。そのバーを訪れたのは、そもそもリンの珍しい申し出によるものだったのだから。

 そのおかげで僕は、必然的にビビと二人で話しをすることが多くなった。

「あなたは日本人? それとも韓国人?」ビビが僕に訊いた。僕が当ててみたら? というつもりで黙っていると、彼女は「あっ、中国人?」と言った。

 僕は、自分は日本人だと白状した。彼女は「ふーん」と言って少し何かを考えた。それから彼女は僕越しにリンを見て、「彼女はあなたの恋人なの?」と訊いた。

「たぶん違うと思う」

「たぶんって何よ?」と彼女は笑った。

 確かに奇妙な答え方かもしれない。僕はもう少し詳しい状況を含めて、彼女に説明した。

「僕たちは毎日会って一緒に食事をするし、いつもたくさんの会話をして笑い合ってる。でもベッドは一緒しない。キスもしないし手も繋がない。こんな状況の男女を、フィリピンでは恋人同士と言うの?」

 彼女はふふふと軽く笑った。

「あなた面白いわねえ。それだけなら普通は違うけれど、あなたと彼女は恋人同士じゃないかしら。でも、本当に二人はソクソクをしないの?」

「しないよ。それが彼女の希望であって、僕もそれでいいと納得している。それでもあなたは、二人が恋人だと思う?」

「そうよ」とビビはきっぱり言った。

「なぜそう思うの?」

「二人の雰囲気よ。そう見えるもの。女の第六勘。あなたは彼女を愛しているの?」

「分からない。普通の友達より特別な感情があると思う。そうでなければ、毎日会って一緒に食事をするなんて、自分には耐えられないから。今のところ僕は彼女との付き合いをとても楽しんでいるし、彼女も僕と同じだと願っているよ」

「何か不思議な関係ね」

「そうかもしれない。でもね、僕はそういうのが好きなんだ。全てが明確になると、人生がつまらなくなるでしょう? 謎や不確実性が希望を生んで、人を人生に前向きにさせる。だから曖昧さを残しておくことも、たまには必要なんだよ、きっと」

 彼女はくすくすと笑った。「あなたはやっぱり面白いわ。全てが明確になると、人生がつまらなくなる」彼女は僕の真似をしてそう言ってから、また笑った。僕は少し恥ずかしくなった。

「ねえ、決して馬鹿にしているわけじゃないの。あなたの言うことがその通りだから、本当に面白いと思ったのよ。だからみんなぼろぼろになっても生きていけるんだ。それが分かった気がする。ところであなたは、英語が上手ね」とビビが言った。

「そうでもないと思うけど」

「でもここに来る日本人は、みんな英語を話せないわよ」

 僕は、こんな場所に日本人が来ることが意外だった。

「だったら英語の話せない人は、ここで何をするの?」

「何もしない。ただぼんやりしているだけ。もっともそれはそれで、仕事が楽でいいけど」

 僕はその様子を、具体的に想像できなかった。

「二時間も三時間もぼんやりしているだけ?」

 彼女は「そうよ」と言う。

 こんな場末のバーで、ステージのショーなど眺めるものもなく、カラオケで唄うでもなくひたすらぼんやりする。僕にはその人が、まるで生きる屍みたいに思えてくる。

「きっとその人は、時間をつぶすことが趣味なんだよ」と僕は言った。

 彼女はやっぱり笑った。

「そしたら多くの日本人の趣味は、時間つぶしということになるの? わたしはますますお金持ちの考えることが分からなくなるわ」

「如何に上手に時間つぶしができるか、これは意外に重要なんだよ。僕だって彼女との待ち合わせで、いつもたくさん待たされる。そのとき上手く暇つぶしができないと、それは拷問のように辛い。だから僕は彼女に時計をあげて、時間を守るようにお願いしたけれど、一向によくならない。一応彼女は時計の針を進めて、時間を守るように努力しているらしいけど」

 ビビは嬉しそうな顔で頭を縦に振り、「そうそう」と言った。「フィリピーナは普通、時計を進めるのよ。わたしもそうだけど、なぜかしらね。それで安心できるのよ」

 彼女は僕の顔の前に腕を差し出し、自分の時計を見せてくれた。安っぽいファッション時計は、やっぱり二十分くらい進んでいた。

 リンが突然、「話しが盛り上がっているわね。何の話し?」と割り込んできた。僕は「フィリピーナタイムの話し」と答えた。ビビがリンに、「この人面白いわね」と僕越しに言った。リンは「ただの変人よ」と言って、みんなが笑った。

 リンが唐突に、一つの提案を持ち掛けた。

「みんなでテキーラ飲み競争をやらない? 二人の売り上げに貢献したいの」

 僕はいいよと言った。辛くなったら、いち早く抜けてしまえばいいのだ。リンがどれほど飲めるのか全く知らず、僕は気軽にこのゲームを了承した。

「でも、負けた人にペナルティーはないよね」僕は念を押した。もともとお酒が苦手な僕は、負ける確率が高い。

 リンは「ないわよ」と言った。「ただし、ここで頼んだテキーラは、勝敗に関係なくあなたが払う」

 僕は構わないと言って、ビビにテキーラを十二グラス頼んだ。とりあえず、一人三杯分だ。

 テーブルに小さなグラスのテキーラと、半分に切ったカラマンシー(小さなライムのようなもの)の盛られた皿が届く。

「二人の売り上げアップに乾杯」

 女性たちが僕の一声に、手に持つテキーラを一気に飲み干す。仕方なく、僕もそれに倣った。女性たちは二杯目から、飲む前にカラマンシーを手の甲に擦り付け、それを舐めてから飲んだ。僕はそれも真似した。カラマンシーがあると、テキーラが飲み安くなった。

 ゲームはとても早く進行した。一人三杯分のテキーラが、あっという間になくなった。僕は更に、一人三杯分のテキーラを追加注文した。

 二度目はさすがにペースが落ちた。リンの隣にいたアビが戦線離脱した。彼女の客が来店したのだ。勝負の参加者が三人になった。

 ビビが五杯目で根を上げた。「もう無理。これ以上飲んだら危ない」

 僕はリンに、あなたは大丈夫かと確認した。

「わたしはまだ大丈夫。あなたのほうこそ問題ない?」

 僕はアルコールが苦手だけれど、不思議と度数の高いテキーラは何ともなかった。僕は、ウィスキーもそれなりに飲める。その代わり、ビールはまったくだめなのだ。ビールの場合、ジョッキ一杯で酔っ払い、二杯目を空けるとダウンする。きっと、炭酸の入っているアルコールが、体質的に合わないのだろう。

「まだいけそう」と僕は言った。

 追加の十二杯のうち、僕とリンとビビがそれぞれ二杯ずつ飲んだ。残っているグラスは六個。僕とリンは、それを三杯ずつ飲んだ。結局僕とリンは、合計八杯のテキーラを飲んだことになる。

 八杯目を空けて、僕がビビと話しをしていたときだ。ビビが突然話しを中断し、リンのほうを指差した。振り返ると、リンがテーブルに突っ伏していた。

 僕はリンの肩に手を置き、「大丈夫?」と訊いた。彼女は弱々しい声で、「大丈夫、でも、わたしをトイレに連れて行って」と答えた。

 彼女の脇を抱える形で、彼女を立たせた。彼女は足に力が入らず、上体もまるで不安定だ。僕がしっかり力を入れて支えないと、床に倒れ込みそうになる。

 ようやくトイレに辿り着くと、彼女が「店のほうで待っていて」と言った。絞り出すような声が、とても辛そうだ。

 席に戻ると、ビビが心配そうに「大丈夫?」と訊いた。僕はたぶんと言い、先に会計を済ませる。そしてキャッシャーで、タクシーを呼んでもらった。

 リンはしばらく客席に戻ってこなかった。僕はもう一度トイレに行き、ドアをノックしながら大丈夫かと尋ねたけれど、返事がない。アビとビビも客席を離れ、彼女の様子を見にきてくれた。タクシーが到着したと、キャッシャーが告げる。

 リンに呼びかけを続け、ようやくトイレのロックが外れる音が聞こえた。彼女は相変わらず朦朧とし、トイレに入ったときと何も変わらないように見えた。

 僕は彼女の腕を自分の肩に回し、よろめく身体を支えながらバーを出た。出口までの間、店内のフィリピン人客数名が、妙な視線を僕たちに向けた。まるで僕が、彼女をホテルに連れ込む目的で酔わせ、まんまと成功した酷い奴だと思っているような視線だった。

 タクシードライバーが、意識のないリンを支えながら店を出てきた僕を見て、慌てて運転席から飛び出し手伝ってくれた。

 彼女はタクシーの中で僕の足を枕代わりにし、本格的に寝込んでしまった。僕は彼女の家がどこにあるかを知らない。「家はどこ?」と何度かリンに呼びかけたけれど、彼女は死人のように無反応だった。僕は仕方なく、タクシードライバーに、行き先としてホテル名を告げた。

 ホテルに到着すると、最初にガードマンが驚いた。僕が熟睡している彼女を、両腕で抱きかかえていたからだ。ガードマンに、彼女が泥酔して動けなくなったと説明すると、数名の従業員が慌しく駆けつけ、荷物を持ってくれたり、エレベータのボタンを押してくれた。そのうち一人は部屋までついてきてくれ、部屋のドアを開けてくれた。

 彼女をベッドに横たわらせ、布団をかけてようやく一息つく。僕もテキーラを八杯飲んで酔っていたはずだけれど、その頃にはすっかり醒めていた。

 コーヒーを淹れ、リンの寝顔を見ながら、いつも冷静な彼女が一体どうしたのだろうと思った。結局そんなにアルコールに強いわけではなかったのに、最強のテキーラで飲み競争をするのは、彼女らしくない。こんなふうに正体不明になるほど酔いつぶれ、ホテルの部屋に担ぎ込まれてしまうのは、もっとらしくなかった。今晩彼女が家に帰らなければ、彼女の家族が心配するだろうことも気になった。しかし、どうしようもない。彼女の家の場所も、家族の連絡先も、僕は何も知らないのだ。

 一時を過ぎて、自分も彼女の横で寝た。彼女は隣に僕が来ても、身動き一つせず寝息を立てていた。しばらく彼女の寝顔を近くで眺めていたけれど、僕もいつの間にか眠りに入った。

 眠りについてどのくらい経ったのだろう。誰かに揺さぶられていた。そして寝ぼけた状態で、リンが自分を起こそうとしていることに気付き、僕は突然覚醒した。

「ごめんなさい、気持ちが悪い。トイレに連れていって」

 彼女をベッドから降ろした。しっかり支えてあげないと、相変わらず彼女は満足に歩けない。

 彼女はトイレに入ると便器の前にひざまずき、トイレットボールの中に嘔吐した。僕は彼女の背中をさすり、汚物がつかないように彼女の髪をかき上げる。あらかた腹の中のものを戻し終えると、彼女は再びベッドの上に倒れ込んだ。僕は彼女の半身を起こしミネラルウォーターを飲ませ、再び横になった彼女の顔を、塗らしタオルで拭いた。相変わらず彼女はぐったりし、目を閉じている。

 彼女が落ち着いたのを見計らって自分もベッドに戻ると、突然彼女は抱きつき、僕の胸に顔をうずめて泣き出した。

 まるでその理由が分からず、「どうしたの?」と訊いたけれど、彼女は何も答えず声を出して泣き続けた。あまりの激しい泣き方に途方にくれながら、僕は彼女の背中をさするくらいしかできない。そして彼女は三十分泣き続け、泣き疲れて僕の胸の中で眠った。

 僕は彼女の泣いた理由をさっぱり想像できなかったけれど、彼女は何か、過去にとても辛いことを経験したのではないかという気がした。根拠なく、そんな感じがしたのだ。男の第六勘というべきものだろうか。彼女が自分の胸の上で寝息を立て始めてからも、僕はしばらく、彼女が泣いた理由を考えていた。


 翌日は休日だった。僕が一足早く目覚め、コーヒーを飲みながら本を読んでいると、リンがもぞもぞと動き始めた。

 僕は部屋のカーテンを引いた。部屋の中にまぶしい光が入り込む。リンは半身を起こし、手を目の上にかざしながら言った。

「ここはどこなの?」

 僕は彼女のコーヒーを作り始めていた。

「僕のホテルの部屋だよ。何も覚えていないの?」

 彼女はきつねにつままれたような顔をして、「何も」と言った。まだ頭が十分回っていないようだ。

 コーヒーメーカーのスイッチを入れると、すぐにマシンのお湯を吐き出す音が部屋の中に響き、香ばしいコーヒーの香りが漂い始める。部屋は最上階に近く、外の騒音が一切届かない。この静かさが、この部屋でもっとも気に入っている点だ。

「二人が激しく愛し合ったことも、覚えていないの?」

 彼女は少しあっけにとられて無言になったけれど、我に返って言った。

「ボアン(バカ)。もしそんなことがあったら、わたしは絶対に覚えているわよ。それにわたしはきちんと服を着ているじゃないの」

「自信ある? パンティーもきちんとはいている? 裏返しになっていない?」

「自信あるわよ」と言いながら、彼女は自分のずぼんを触り、それとなく何かを確認しているようだった。

「そう? そしたら昨夜何があったかを、全部言うことができる?」

「いじめないで、本当のことを教えてよ」

「テキーラ飲み競争のことは?」

「覚えている」

「そのあとダウンしたことは?」

「なんとなく」

 その後のことを、彼女は答えることができなかった。僕は出来上がったコーヒーをカップに移し、砂糖とミルクを入れて彼女に差し出した。

「あなたをここまで運ぶのが、とても大変だったよ。ホテルの人も手伝ってくれた」

「本当に?」コーヒーを飲む彼女の顔に、少し赤みがさした。

「一旦あなたをここに寝かせて、僕もあなたの隣に寝かせてもらった。そしたら夜中に、あなたは僕をたたき起こして、トイレに連れていけと言ったんだ。そしてトイレに嘔吐した。そのあとあなたはベッドに入ってすぐ寝たと思ったら、今度は僕に抱きついて、すごい勢いで泣き出した。泣いている理由がさっぱりで、大変だったよ」

「ごめんなさい」彼女は陽気に笑った。「わたし、お酒を飲むと泣く癖があるみたいなの」

 彼女に号泣したときの苦しい雰囲気は、微塵も残っていない。

「ところで、あなたの家族が心配していない? 僕はそれが気がかりだったけれど、どうにも連絡を取ることができなくて。できるだけ早く連絡してあげたほうがいいと思う」

「そうね。きっと心配してる。今日は一度家に帰って、またあとで来るわ。着替えもしたいし」彼女は一旦言葉を切ってから、「それで、二人は本当に何もなかったわよね」と言った。

「たぶん何もなかったと思う。なにぶん僕も酔っぱらっていたから、あまりよく覚えていないんだ」

「ボアン。あなたは昨夜のことをよく覚えているじゃないの。本当にいじわるね」

「そんなに嫌なの? 僕とするのが」

「酔っぱらってそんなことをして何も覚えていないなんて、最低じゃないの」

「だったら酔っぱらっていないときに、もう一度やり直せば済むことじゃない?」

 彼女はそれには答えず「コーヒーごちそうさま」と言って、シャワールームで自分の顔を整えた。そして部屋に戻って「わたし、本当に泣いたのね。目が腫れている」と言った。

「三十分も号泣してたよ」

「本当に? 恥ずかしい。また後で連絡するわ」

 彼女はいそいそと、部屋を出ていった。

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