第6話 フィリピーナタイムと宗教
ヒルトップのデート以来、僕は頻繁にリンと一緒に食事をするようになった。そして気付くと、毎日彼女と会うようになっていた。
もちろん店にバーファインを払い、彼女を店の外に連れ出してのことだ。
ほとんどはチャコールグリルでたくさんのタラバを食べながら、冗談を言い合って笑った。そのあとはコーヒーショップに場所を移し、時間を忘れて会話に没頭した。
それでも不思議と、二人の間で話題は尽きなかった。そして毎日十一時頃に、僕は彼女をジミーのタクシーに乗せて見送った。
ある日仕事中に、彼女からメッセージが届いた。
「今日はお店に行く必要はない。わたしがホテルのロビーで待っている。何時にホテルに戻る?」
僕は六時までに戻ると返信した。そしてホテルのロビーで待ち合わせをして、いつものように一緒に食事に行った。
食事の最中、僕は店を休んだのかと彼女に訊いた。彼女は色々考えるところがあってと、歯切れの悪い答え方をした。
その翌日も彼女から、何時に戻る? というメッセージが届き、僕はやっぱり六時に戻ると答え、結局そんなことが三日間続いた。
三日目、僕たちはチャコールグリルに行った。
僕は彼女のことが、少し心配になっていた。
「そんなに店を休んで大丈夫なの?」
彼女は食事の手を止めて、意外そうな顔を僕に向ける。
「店は辞めたのよ。言わなかったかしら」
「え?」僕の食事をする手も思わず止まった。「初めて聞いたと思う。でもどうして?」
「だってわたしたちがこうして一緒に食事をするのに、あなたは毎日店にバーファインを払う必要があるのよ。それって何か、変な気がしたのよ」
僕は動揺しているのを悟られないように、タラバを殻から外しながら訊いた。
「つまり、ということは、僕のために店を辞めたの?」
「そうねえ……」彼女は宙を見て、考える仕草をした。
「もちろん理由は、それだけじゃないの。他の女の客なんだけど、あるアメリカ人がわたしを紹介しろってうるさいの。元々オーナーの知り合いみたいで、彼に直談判したみたい。だってわたしはいつもあなたと外に出て、店にはいないでしょう? オーナーが断り切れなくなって打診してきたのよ」
彼女も新しいタラバを数個、自分の皿に移した。僕はその動作を眺めながら、彼女にとってそれは、いい話しになのだろうかと考えた。
「それでどうしたの?」
「もちろん断ったわよ。そういうのって大体、契約愛人にならないかって話しなの」
僕は複雑な心持ちで「なるほど」と言った。確かに契約愛人という言葉の響きは、あまりよくない。
「オーナーはいい人よ。それを分かって断ってくれていたんだし。今回も、もしわたしが良ければってことで訊いてきただけなの、お金にはなるって。でもそんなことがあると、店では働きづらくなるでしょう? 他の女の客なんだから。そのアメリカ人だって、いつ店にやって来てわたしを指名するか分からない。店の中の指名はさすがに断れないわよ」
僕が「人気があるのも考えものだね」と言うと、「ほんとにそうよ」と彼女はおどけて笑う。
「でも、お金の面ではいい話しだよね?」と僕は言ってみた。
「お金だけを考えたらそうね」
「あなたはそのアメリカ人に、会ったことがあるの?」
「あるわよ、店で。話しをしたことはないけれど、どんな人かも聞いてるわ」
「どんな人なの?」
「優しい人みたい。ただ、少しマニアックなところがあるらしいけど」
「マニアック? つまりそれはベッドの上の話し?」
彼女はそうよと答えた。
「あなたたちって、そんなプライベートなことを平気で教え合うの?」
「プライベートと言っても、仕事の上でのことでしょう? それにみんな年季の入ったベテランだから、あまり気にしないみたい。変態プレイを強要された話しを、みんな面白おかしく教えてくれるわよ」
つまり店の中で紳士を気取っても、個室で変身する人は、店中の女にそれがばれるということだ。しかも具体的に、かつ脚色されている可能性さえある。
「それであなたの退職に、僕は責任を感じるべきだろうか?」少し迷いながら僕は言った。
彼女はスプーンを持ったまま、「そんなことないわよ」と小さくかぶりを振った。「あなたには関係ない。わたしは元々、あの手の店では働けないの。だって身体を売るのが嫌なんだから。以前も酷いことがあって、三日で店を辞めたの。たったの三日よ。わたしは働きたいけれど、中々上手くいかないの」
彼女はそう言って、また一つタラバを口に放り込む。僕は、以前彼女が別の店で働いていたことに、改めて驚いた。考えてみれば、僕は彼女の過去を何も知らない。
「今の店が初めてじゃなかったの?」
「二つ目よ。前はカラオケだったの。何も知らないで勤め出したから、驚いたわよ。店がオープンする前に、全員が並んでマネージャーとミーティングをするの。そこで何をすると思う?」
「さあ、見当もつかない」と僕は言った。
彼女は周りのテーブルの様子を確認して、心持ち声を潜める。
「持ち物検査をするのよ。そこでハンカチとコンドームを持っていないとペナルティになるの。ハンカチは分かるけど、コンドームよ。店に入るときそんな話しは一つもなかったのに。わたしはひどく驚いたわ」
カラオケの裏情報みたいで、興味深い話しではあった。彼女は更に続けた。
「でもわたしは、三日間で一度もコンドームを持っていかなかったの」
これは一体、どういった話しの展開なのだろうと思いながら、僕は「使わないほうが好きだから?」と言ってみた。
彼女は高笑いして「ボアン(バカ)」と言った。
「それじゃあペナルティになるのに、どうして用意しなかったの?」
彼女はスプーンの先を空に向けるように持って、「当たり前じゃない!」と言った。「そんなものを買うお金がなかったからよ。それに店で知り合った客とそれが必要なことをするなんて、どう考えても無理なの。そしたら用意しても無駄になるだけじゃない」
「まあ、それはそうだ」と僕は同意した。
「それにね、コンドームを買うのはとても恥ずかしいでしょう? お金がなくて、必要がなくて、買うのも恥ずかしいのよ。店の正体を知ってすぐ辞めるつもりだったし、それだけ理由が揃っていてわざわざ用意なんてしないわ」
「確かにそうかもしれない。でもあれはあれで、買っておけば結構役に立つけどね」
彼女は怪訝な顔をした。
「どういうこと?」
「あなたはたくさんの子供を面倒見ている。もし子供が熱を出したら、あれは氷嚢として便利だよ」
彼女は笑ったけれど、それは本当にそんなふうに使えるのだ。
「それで他には?」
「水筒になるし、ボトルの蓋にもなる。それにゴム手袋になるし、携帯電話を入れておけば防水に役立つ。他にも色々使い道があると思うけど、どう? 結構役立つでしょう?」
彼女はますます笑った。どうやら僕が、冗談を言っていると思っているらしい。でも本当にそんな便利な使い方が、世間ではたくさん紹介されている。
「それで? あなたはいつもコンドームを持ち歩いているの? 何かのときのために」
僕は「まさか」と言った。「いくら便利でも、さすがに普段から持ち歩いたりしないよ。それに僕だって、あれを買うのは恥ずかしいし」
「やっぱりあなたでも恥ずかしいの?」
「だってあれを買うってことは、これからやりますって宣言するようなものでしょう?」
そこで彼女の顔に、パッと灯りがさした。
「だったら店員に、ゴム手袋代わりに使いますって言えばいいじゃない」
「それはとっくに試したよ。そしたら店員に、それならゴム手袋を買ったほうが絶対いいですよって言われて、僕は使う予定のないゴム手袋を買って帰ったんだ。最近のコンビニは何でも置いてあるから参ったよ」
彼女は大きな声で笑って、「わたしはあなたの冗談が好きよ」と言った。
僕はこのとき、彼女が仕事を辞めて、そのあとの生活をどうするつもりなのか気になったけれど、結局そのことは訊けずじまいだった。
もともと一日百ペソのサラリー(実際には僕の頼んだドリンクや連れ出しのキックバックがあったはずだけれど)が焼け石に水だったなら、生活には大きな影響がないのかもしれない。それにそんなことを彼女に訊くことは、僕が彼女の生活に踏み込むようなものだ。遠慮したとかプライバシーの侵害を配慮したとかそういうことではなく、僕はその領域に踏み込むのが怖かった。
もちろん僕には、彼女が生活のサポートを必要とすることが分かっていた。彼女が僕に、それを期待していたという意味ではない。いずれにしても彼女は、そういうことが必要だということを、知っていたということだ。
そこで僕が詳しい事情を知って、それが何になるだろう。どちらかといえば僕は、どこか見えるところに線を引いておきたかったのだから。この線からそちら側は、僕に一切の関わりや責任はないというふうに。それは自分の金銭的負担を考慮してのことではなく、単に彼女に深入りするのを躊躇ったのだ。
だから僕は、こうして彼女と一緒に食事をし、会話を楽しんで、友だちのような付き合いに終始するのを悪くないと思っていた。
もし彼女に恋人ができればたまには三人で一緒に食事をし、結婚すればそれを祝福し、子供が生まれたらささやかなお祝いを持って駆けつけるような、そんな関係だ。そのままで僕は十分楽しかったし、関係の糸がどこかでプツリと切れても、それはそれで致し方ないことだと諦めることができた。
休日も、二人は行動を共にした。ホテル近くのカオナグリルという屋外レストランで落ち合い、そこでどこに行くかを相談し、マッサージや映画やショッピングに出かけるのが恒例となった。
外での待ち合わせの際、約束の時間として、昼や午後といった曖昧な表現は一切避けた。ヒルトップへ行った日のことで学習したのだ。だから僕はいつでも、彼女に具体的な時間を指定した。
それでも彼女は、待ち合わせ場所に約束通り現れることはなかった。一番最初は四時間も待たされた。外で四時間の待機は、さすがにきつかった。
もちろん僕は彼女に文句を言った。そのあとモールで女性用の腕時計を買って、その場でそれを彼女にプレゼントした。
彼女は「これでも遅刻が治らなかったら、今度は何が必要かしら?」と憎まれ口をききながら、棚ぼたの腕時計にとても気をよくした。
そして次第に、彼女の遅れは三時間になり二時間に短縮され、最後は大体、一時間以内に収まるようになった。
おかげで僕は、いつでも日本語の小説を持ち歩く習慣が身についた。何もすることがなく一時間や二時間も茫然自失となるよりは、読み終わった小説でもそれを再読するほうが、数十倍も気楽だったからだ。
僕はある日、僕のあげた腕時計の時間が狂っていることに気付いた。待ち合わせたカオナグリルで彼女がグラスを持ち上げたとき、彼女の腕にはまる時計が目にとまったのだ。
「あれ? その時計、三十分早いよ」僕は自分の腕時計を確認して、そう言った。
「知ってるわ。わざとだから気にしないで」
そう言われても、僕は自分の時計の秒針が、テレビやラジオの時報と一致しないと、それだけで落ち着かない性分なのだ。そんな自分に、時計の狂いを気にするなというほうが無理というものだ。
「わざと? 何のために?」
「時間を守るためよ。時計を進めておけば、何でもことが早めに済むでしょう?」
「なるほど、几帳面なんだね……というかさあ、それでもあなたが時間に遅れるのを理解できない僕は、少し頭が悪いのかなあ?」
少々回りくどく皮肉を込めたその言葉に彼女は、「時計を進めておかないと、もっと遅れることになるのよ」と平然と言った。
もちろん僕は開いた口が塞がらず、言葉を失う。
彼女は追い討ちをかけるように、「これをフィリピーナタイムというの。覚えておいたほうがいいわよ」と言って楽しそうに笑った。
彼女はついでに、フィリピン人文化の色々を語ってくれた。
女性は働き者だけれど、総じて男性は怠け者であること。それがフィリピンの国力を押し上げる上で、大きな障壁になっていること。家族の絆がとても強いこと。南国気質で細かいことは気にしないこと。一度結婚したら離婚が難しい法律になっていること。その結果、法律婚ではない夫婦がたくさんいること。昼寝を好むこと。子供の数が多いこと。フィリピーナは一度愛した男性に、盲目と言われるほどつくすこと。キリスト教徒がほとんどなこと。嫉妬深いこと。嫉妬が元で人殺しまですること、云々。
そんな話しを聞くと、僕は思わず確認せずにはいられない。
「ちょっと気になるんだけど、嫉妬で人殺しってどういうこと?」
「そのままの意味よ。逆上して刺し殺しちゃうの。人間だもの、そんなこともあるでしょう?」
彼女はそういったことさえ平然と言う。そんなの普通じゃないと言いたげだ。
「まあ、ないとは言えないけれど、よくあるの?」
「たまに聞くわよ。でも殺されたほうが、まだ幸せかもしれない」
「それってどういうこと?」
「もっと頻繁に聞くのは、浮気した恋人や夫のあれを、寝てる間に切り取ってしまうのよ。ハサミでチョキンって感じじゃないかしら」彼女は指でジャンケンのチョキを作った。
「ハサミの切れ味が悪かったら、最悪じゃないか」
僕は股間から大量に流血し、悶絶する男を想像し、背中に悪寒が走る。
「大体家にあるハサミは錆だらけで切れ味が悪そうだけど。でも切れ味に関係なく、そんなことが起こったら最悪じゃないかしら」
僕は我に返って、それはもっともだと思う。同時に僕はそれを他人事に思えず、どうしようもない不気味さを覚えた。
「もしそうなることを事前に分かっていたら、男は絶対に浮気なんかしないと思う」
「でもいざとなれば、都合の悪いことを全部忘れるのが男じゃないの? あなたも気を付けたほうがいいわよ」
涼しい顔で涼しいことを言う彼女の顔を、僕は黙って見つめた。彼女は本来、そんな激情タイプの女性かどうかを見定めるように。そして僕は、ある一つの疑問に突き当たる。
「ねえ、フィリピン人はほとんどがキリスト教徒だと言ったよね?」
彼女は「そうよ」と言った。
「僕は宗教について素人だけれど、僕の中でキリスト教の人は、慈悲深く清く正しいというイメージがあるんだ」
彼女はありがとうと言って、穏やかな笑みを見せる。
「でも僕のそんなイメージが、フィリピンでときどき崩れてしまう」
彼女は落ち着き払い、「例えばどんなときに?」と言った。
僕は指折り数えて、思い出す限りをあげてみる。
「タクシー料金をぼったくられたとき、バーの女に騙されたとき、携帯を盗まれたとき、レストランでお釣りが足りなかったとき、モールで押し売りにあったとき、ホテルの部屋に置いたバックから、大切なキーホルダーが消えたとき、外で四時間も待たされたとき。それに清く正しく慈悲深い人がハサミでちょきんって、僕にはどうにも理解不能なんだ」
彼女は軽く笑い、人を四時間も待たせたことなど見事に棚に上げ、「色々苦労してるのね」と言った。
「そうなんだよ……というかさあ、キリスト教の教えを受けているのに、どうしてみんな清く正しくなれないの? 僕はそれを目の当たりにしたとき、宗教とは一体何だろうって分からなくなる」
特にタクシーは、ダッシュボードに神の人形を飾りながら、その神の前で平気で客を騙すのだ。僕は信心と悪行の間に何が起こっているのだろうと、それがとても不思議だった。
しかし彼女は言った。
「悪いことをするのは、それが悪い人だからよ。宗教は悪い人を良い人に変えることはできないの。人を変えるのは、いつでも自分自身なのよ」
それは自分にも理解できるような気がする。
「だったらキリスト教では何を教えてくれるの?」
すると彼女は意外な答えをくれた。
「宗教は何も教えないわよ。もちろん人としての基本を学ぶことはあるけれど」
僕はこの際、次から次へと湧き出る疑問を、率直に彼女に投げた。
「そうであれば、みんなは宗教に何を期待するの?」
「救いを求めるの」と彼女は言った。
「救い?」
「そう、救い。例えば世の中には多くの理不尽があるでしょう? そんな理不尽に出会ったとき、人は悔しかったり悲しかったり後悔したりするわけ。ときどきどうしていいのか分からなくなる。そんなときに教会で祈りを捧げるのよ。何かをお願いするわけじゃないの。ただ捧げるの。分かる?」
僕は少し混乱して、「ごめん、分からない」と正直に言った。
「教会の中では誰もが同じなのよ。誰かが誰かを見下すことはない。みんな神の下で平等になる。理不尽な目に遭った人も幸運な人も、罪を犯した人も、お金持ちも貧乏人も、全て一つのラインの上で並んでいるの。それだけで平穏な心境になれるでしょう? そして余計なことを全て取り払って心を休めるの。それが祈りを捧げるという行為の意味よ」
「するとどうなるの?」
「救われるのよ。つまり少し楽になれるの」
僕はようやく、救いの意味がおぼろげに分かってきた。それは日本人も、ときには求めているものかもしれない。
「そして救われるから、わたしたちは神をフォローするのよ」と彼女は言った。
「すると、いつでも悪いことをする人間は、神にむしのよい救いを求めるだけで、そのあとは自ら反省したり学ばない人ということになるのかな?」
「結局は、そいうことになるのかしら。人を変えるのはいつでも自分自身だから」
「なるほど。救いを求めることは分かったけれど、救いを必要としない人にとっての宗教とは、何になるのだろう?」
「それは分からないわ。わたしたちにとっての宗教は、当たり前に存在するものだから。実際には救いを求めるだけじゃなくて、空気のようにそこにあるのよ」
「その辺りが今一つ分からない。僕たちは常に意識する宗教を持たない民族だから、きちんと理解するのは難しいのかもしれない」
彼女は少し考え込んで、「理解するというより、経験値なのよ」と言った。
「経験値?」
「そう、経験値。これは理屈ではないの」
彼女は、それから少し間をあけて続けた。
「普段あなたは、何も信じないの?」
僕は少し考えて、「そうだね、特には」と答えた。
「でも、日本にはブッタがあるでしょう?」
「そう、うちも誰かが死んだらブッタの僧侶にお願いして、死者を供養してもらう。でも新年にはブッタとは無関係の神にお願いごとをしに行くんだ」
「そのときあなたは、どんな気持ちになるの?」
僕は過去に経験した、葬儀や初詣のことを考えてみた。
「死んだ人を無事に旅立たせることができたとか、一年のお願い事ができてよかったとか、そんなふうだと思う」
彼女はジュースを口に含み、グラスを持ったまま、しばらく宙を見つめた。
「それは納得したり安心するってことじゃないかしら。つまりそれが、救われたことになるんじゃないの?」
少し考えてみて、彼女の言うことに一理あるような気がした。
「確かに納得感や安心感と心の救いは、どこかで繋がるような気がする」
こんなふうに会話をしていると、彼女が自分より一回り以上も離れた歳下であることを、僕はいつもすっかり忘れてしまう。そしてリンの実際の歳を思い出すと、とても不思議な気分になった。彼女と同世代の日本人女性とは、決して同じような会話ができないことを、僕は確信していたからだ。
なぜそれほど若くして、彼女は世代の違う自分と、会話で成り立つ人間関係を築けるのか、僕はその理由をいつもあれこれ考えた。
苦労しているせいなのか、それとも家族構成の問題なのか、あるいは国の教育と関係があるのか、やはり社会環境のせいなのか。
解は簡単に見つからないけれど、その謎が、彼女の魅力の一部を形成しているのかもしれない。
とにかくリンは、ときには歳上のように振る舞い、そこに一欠片も違和感を感じさせない何かを持っていた。
彼女が普段、僕のことを徹底的に鍛えたことも、その一つだった。その鍛え方は、まるでフィリピンで、僕が独り立ちできるのを目指すかのようだった。
例えばレストランに行くと、オーダー内容を決め、オーダーし、頼んだドリンクや料理のフォローアップに至る全般について、それは男性の役割として、全てを自分が取り仕切らなければならなかった。
レストランだけでなく、映画の上映内容、時間、混み具合その他一切合切、確認や予約や交渉事は、全て僕の役目としてやらされた。もちろん映画に限らず、イベント事は全てにおいて。
普段の穏やかな雰囲気と違い、そういうことに彼女はスパルタで、アウェイにおける日本人のハンディなどお構いなく妥協を許さない。おかげで僕はフィリピンで、大概のことを一人でできるようになった。
でもそれらは、決して彼女の我儘によるものではないことを、僕はよく理解していた。彼女が自分でそれらをやろうと思えば簡単にできたし、僕が戸惑えば、手を差し伸べてくれることも厭わなかったからだ。
僕はある時期から、彼女の言う『男性の役割』について、彼女の中に確たる考えがあることを感じるようになった。そしてそれが、アメリカのレディファーストに端を発するものだと気付いたとき、僕はフィリピンが、アメリカ文化の影響を根底から強く受けていることを感じた。彼女の僕に対する要求は、男性は女性に対してこうあるべきという、アメリカにおける暗黙のルールそのものなのだ。
戦後のアメリカは他国へ自分たちの文化を持ち込み、親米国家を増やしながら、自国の商品をできるだけ売り付けるという戦略を推し進めた。その中で、アメリカ映画やテレビドラマが、十分利用され活躍したはずだ。
親米という点では、日本に対してもこの戦略は成功したけれど、レディファーストや他の文化の浸透は、中途半端に終わったものも多い。
そして米国商品の販売も、日本国内で振るわなかった。日本はアメリカにかぶれ過ぎることなく、アメリカ製品より優れた車や家電製品を、自分たちで作ってしまったからだ。
けれど戦後のフィリピンはこのトラップに見事にはまり、なんでもアメリカの用意したものを購入しながら、気付けば自国の開発能力や生産能力を向上できない体質となった。これはフィリピンが、アメリカ文化を丸ごと受け入れてしまったことの弊害ではないだろうか。
それが、フィリピンが貧国から脱し切れない一つの要因であり、引いては国民へのしわ寄せとなり、リンのような若い女性の苦労へと繋がっている。
にも関わらず彼女は、無意識にアメリカ文化の影響を強く受け、かつ信望しているのだ。
もちろん僕は、そんなことを彼女に吹聴したりはしない。けれど僕はそこに、何か皮肉めいたものを感じずにはいられなかった。
リンとの間にジェネレーションギャップを感じない理由の一つに、彼女が驚くほど、政治に関心を持っていたこともあげられる。彼女は、同世代の日本人女性であれば到底知りえないことを、実によく知っていた。
それらは彼女が自ら話した、『自分は貧しいカテゴリーに属し、いつまでもうだつが上がらない』ことに対する、反骨精神の表れかもしれなかった。それほど彼女の話しは、具体的だったのだ。
「この橋は日本が作ったということを、フィリピンの人はみんな知っているの?」
二人でマクタン島へ行ったときだ。タクシーがセブ島とマクタン島を結ぶ大きな橋に差し掛かった際、僕は何気に彼女へ尋ねた。
「もちろん知っているわ。日本のお金で作られた物がこれだけじゃないことも」
僕は意外に感じ、他に何があるのだろうと訊いた。
「マクタン国際空港は、日本が援助しているわよ。マニラのアキノ国際空港だってそう。他にはマニラのハイウェイやレイテにある大きな橋も有名よ。その全ての建物のどこかに、日本の国旗が看板となって掲げられているはず」
僕はとても驚いた。日本にいてODA (政府開発援助) という言葉は聞くことがあっても、僕はそれを国際援助というひとくくりで捉えるだけで、その詳細は知らなかった。
「よく知ってるね。あなたはどうしてそういうことに詳しいの?」
「政治に関心があれば、自然と知ることになる」と彼女は言った。
「フィリピン人は、みんな政治に関心が深いの?」
「もちろん個人差があると思うけど、わたしたちの生活環境を決めることなのよ。関心のないほうがおかしいでしょう?」
「なるほど、それはその通りだ。フィリピンは、国民の声が政治に届きやすい?」
「中々届かないから関心を持つの。日本は違うの?」
「日本は無関心派が多いと思う。特に若い世代に」
日本は恵まれているからそうなるのよと彼女は言った。
「そうかもしれない。でも日本はそんなに恵まれているのかなあ」
彼女は口を強く結び、眉間にしわを寄せ、ほとほと呆れるわね、という表情を作った。
「あなたは日本の年間国家予算がいくらか知ってる?」
「たぶん年で百兆円くらいだと思う」
次に、人口はどのくらい? と訊かれて、僕は大体一億人と答えた。
国土面積は? という質問には、正直に分からないと言った。
彼女はタクシーの後部座席で僕の横に座りながら、大きな目をまっすぐこちらに向けて、とても熱心な顔つきになった。
「いい? フィリピンの国土面積と人口は日本の九割程度なの。でも、フィリピンの国家予算は年間でおよそ二兆円よ。国土面積や人の数が日本と同じくらいなのに、国家予算だけが日本の五十分の一なの。あなたはそれを知ってた?」
僕は少々気まずさを感じながら、「知らなかった」と言った。
つまり、道路の補修や公共施設や公共サービスの充実、社会保障、国家レベルの研究、国立大学の研究費、その他諸々、日本人が普通や不十分だと思っていることでさえ、日本はフィリピンの五十倍ものお金をかけている。逆に言えば、フィリピンは日本の五十分の一しか国のそういったことにお金をかけていない。いや、かけることができないのだ。
僕はフィリピンの現実を、まざまざと見せ付けられたような気がした。日本が恵まれているということも、まんざら大袈裟ではない。
それにしても、彼女がずいぶん具体的なことを知っていることに、不思議な気がした。
「どうしてあなたは、日本のことにそんなに詳しいの?」
「日本だけじゃないわよ。アメリカも中国のそれも知っているわ。でも日本が一番比較しやすいの。だって人口と国土面積が同じくらいでしょう? だから当面は、日本という国がフィリピンの目標なのよ」
当面は? ゆくゆくは世界制覇でも狙っているような口ぶりに、僕はその思考スケールがとても大きいことに感心する。
「日本が目標だなんて光栄だよ。ところでそれは、誰の目標なの?」
彼女はすばやく瞬きして、平然と言い放った。
「わたしの目標に決まっているじゃない」
僕は驚いて「大統領の目標じゃないんだ」と言うと、彼女は大笑いして「そんなの知るわけないわよ」と言った。
僕はあなたの冗談っぽくない冗談が好きだよと、また言いたくなる。
しかし後で調べると、彼女の言った内容は、概ね正しかった。僕はますます不思議に思う。
自分が技術系の人間のせいか、自然と二人の間でサイエンスやエンジニアリングの話しもよくした。その中で彼女は、地球が太陽の周りを一周する期間が一年だということを知らなかった。月が地球の衛星だということも知らなかった。もちろん潮の満ち干きが、地球と月の間に作用する引力がもたらす現象であることも。そもそも彼女は、引力とは何かを知らないし、引力と重力の違いも分からない。
光にも速度があり、今見ている星の光が何億年も前のものだということも知らなければ、アメリカやイギリスがどこにあるかも知らないようだった。もしかしたら彼女は、アフリカやアメリカやヨーロッパの違いもよく知らないのかもしれない。芸術に関することは絵画や音楽にも無関心で、もちろん異国文化や古代史みたいなものについても、彼女にはまるで関係のないことだった。
けれど彼女は、日本とフィリピンの国家予算の違いを知っている。しかも正しい比較方法をベースにして。
ずいぶん偏りのある教養だ。彼女の興味は蟻の巣のように、とても狭く深く、そして複雑なようだった。
彼女は何かを知らないことに対し、いつでも知らないものは知らないと毅然とした態度を取った。それが、一般常識の範疇に入りそうなものでもだ。僕はそれを、とても立派だと思った。知らないのに知っているふりをしたり、恥ずかしいから知らないことを隠そうとするよりずっと潔ぎよい。一般的にそういう人は、伸びしろを期待できる。
その証拠に、僕が彼女の知らないことを説明しだすと、彼女はいつでも目を輝かせた。
例えばその日の夜の会話を紹介すると、こんな感じだった。
僕たちが屋外テーブルで夕食をとっているときのことだ。空には綺麗な満月が浮かんでいた。
ふとその月を見上げながら、なぜ天体は丸いのだろうとリンが言った。
中々目の付け所の良い質問だ。言われてみれば、立方体や円錐や三角錐の天体は、見たことも聞いたこともない。理由は分からないけれど、実際に月も火星も木星も、そして地球も丸い。その形は、天体が生まれる過程に関係するのだろうか。それとも、最初は角張ったものもあるけれど、年月と共に角が取れるのだろうか。
「確かに不思議だね」と言うと、次に彼女は、地球の下側にいる人がどうして下側に落ちないのかしらと不思議がった。まるで小さな子供の素朴な疑問という感じだ。
僕は、そもそも上や下というのが何かを知る必要があると言った。地球は宇宙の中に存在する。その上で、宇宙の上や下が何処になるのか分かる? と僕は尋ねた。彼女は困惑し、確かに不思議だと言った。
「全ての物体の間には、引き合う力があるんだ。そして重いものほど引く力は大きい。つまり、とても重い地球は僕たちを地球のほうに引っ張っているというわけだ。だから地球は丸いけれど、地球の下側にいる人も、下に落ちたりしないでいつでも地球にへばりついている。つまり、いつでもどこでも誰にとっても、下というのは地球の中心側で、上は地球の外側になる」
彼女は目を瞬かせた。
「確かにそうねえ」彼女は自分の頭を整理するように宙を眺め、突然何かが閃いたように口を開いた。
「重いものほど引っ張る力が強いんでしょう? つまり磁石みたいに引っ張る。だったら太った女性にはたくさんの男が引っ張られるわね」
これは冗談なのかと僕は疑いながら、話しを彼女に合わせた。
「そうなんだ。あなたは目の付け所がとてもいい。女性は太ったほうが得をする」
彼女は楽しそうに笑った。
「ところであなたは、遠心力って知ってる?」
彼女は知ってると言った。
「地球がくるくる回っていることは?」
彼女は、たぶん知っていると言った。
「たぶん? どうしてたぶんなの?」
「話しには聞いたことがあるけれど、実感が湧かないの」
僕はなるほどと言って続けた。
「地球がくるくる回っているということは、その上で暮らしている僕たちに、遠心力が働いているんだ」
僕はポケットに入っていたキーホルダーを指に入れて、くるくる回した。
「つまり地球が回っていることで、こんなふうに僕たちには、上に向かって遠心力が働いている。でもそれとは別に、地球は僕たちを下に引っ張っている。するとどうなるか」
「するとどうなるの?」彼女の顔に、ありありと好奇心が浮かんだ。
「もし地球が僕たちを引っ張ってくれなければ、僕たちは遠心力で、空に向かって放り出される。でも地球が引っ張ってくれるおかげで、僕たちはこうして地面の上を歩けるし、こうしてジュースをテーブルの上に置くこともできる。つまり僕たちには、地球が引っ張る引力と、放り出す遠心力の両方がかかっていて、最終的には、引力から遠心力を引いた力が重力となって、僕たちに作用しているというわけだ」
彼女は目を白黒させて「少し頭が痛くなってきたわ」と言った。
「もし地球の回転が止まって遠心力がなくなれば、僕たちにかかる地球の引力が強すぎて、身体が重くて大変なことになる。みんな立つことができなくなって、地面にへばりつきながら、這って生活をすることになるかもしれない」
「なるほど、そういうことね。でも想像するととても奇妙ね。つまり遠心力がなくなれば、こうしてわたしとあなたがデートをするときも、お互い地面にへばりついて話しをしたり食事をしたりするわけ?」
「想像すると奇妙だけれど、そうなるかもしれない。すると映画館やモールやレストランのサービスは、エアコンをよく効かせることより、地球の引力の影響を減らす装置を導入することが重要になる」
「地球がくるくる回っているということは、とても大切なことなのね」
「そう、とても大切だ。遠心力が無くなれば、人間が地べたにへばりつくのは大袈裟だけど、この遠心力は赤道のほうが強くて北極は小さいという具合に、実際に存在する。だからロケットの打ち上げは、遠心力の大きな赤道に近い所でやるんだ。そのほうが楽に飛ばせるからね。そして重要なことだけれど、太った女性は決してくるくる回ってはいけない。せっかく引っ張られた男性が、遠心力でどこかに飛んでいってしまう」
彼女はまた楽しそうに笑って、「なるほど、覚えておくわ。太ったときのために」と言った。
「それにしてもあなたは、国家予算のことを知っているのに、地球と月の関係を知らない。あなたの知識はずいぶん偏りがあるように見えるね」と僕は言った。
彼女は毅然とした口調で答えた。
「わたしは現実的なことにしか興味がないの」
僕は「地球が太陽の周りを動いていることも、現実だけれど」と言ってみる。
彼女は僕の言葉に笑った。
「わたしが話しているのは、生活に直結する現実のことよ。太陽がどんなふうに動いているとか、いつまで燃えるかなんてことは、あなたのような人が考えてくれたらそれでいいの。そういうことはあなたに任せて、わたしは身の周りのことを考えるの。でも何か面白いことが分かったら、わたしに真っ先に教えてちょうだい」
僕は約束するよと言った。太陽は動いていないということを付け加えて。
彼女は大きな目を、再び素早く瞬かせた。
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