第5話 ヒルトップとチャコールグリル
僕はリンと出会ってから、たびたび彼女の店に通うようになった。同時にそれまで頻繁に行った不特定多数の店には、全く足が向かなくなった。別段そのことに深い意味や意図はなく、自然にそうなったということだ。そして僕は、見知らぬセブの街に自分の居場所を見つけたような気がした。
店に行くと、最初に彼女が話した通り、彼女はいつでもそこにいた。そしていつも二人でたわいもない話しをした。この会話を通して僕は、二人の間にある隙間が、そこにゼリーのようなものをじわりと充填するように、密度よくきっちり埋まっていくのを感じることになった。
その隙間は、おそらく文化の違いや言葉の障壁のようなものを含んでいたはずだ。でもその中で一番大きく重要なことは、お互いがそれぞれの人間性に同意できるかということだった。
お互いの育った国や扱う言葉、身体に染み付いている文化は違っても、人間関係とは、結局その部分に帰着するということに少し意外性を感じながら、自分はその再発見をとても新鮮に捉えた。つまり僕は、異国人との間には、最初から相容れ難い何かが存在すると思い込んでいたのだ。しかし、人種や国の貧富や職業やそんなものの違いは、人と人の関係において、あまり大きな意味を持たないということのようだ。
それから僕は毎朝の出勤時、カンパニーカーの外の景色を眺めながら、ときどきリンのことを考えるようになった。
夜の仕事をする彼女は、まだ寝ているのだろうか。それとも既に起きて、兄の子供たちの朝食を準備しているのだろうか。そうだとすれば、彼女は一体どんなメニューを用意するのだろう。もしかしたら、今眺めている景色の中に、彼女の家があるかもしれない。そんな偶然がもしあるなら出勤をキャンセルし、彼女の家に立ち寄ってみたいものだ。
もちろんそんな偶然は、起こりようもない。僕は車窓の外を流れる景色を眺めて、何かの決まりきった荷物みたいに、毎日淡々と工場へ運ばれる。それが僕の変え難い運命だと言わんばかりに。
朝の街の景色は、様子が夜と一変した。
乱雑に生い茂った大小の木々が抱える緑を背景に、街並みにはバラック家屋や個人商店の寂れた建物、木造平屋の学校、そして重厚な教会や小規模ビジネスビルが混在している。斜めから射し込む光が至るところに影を作り、その明暗が、淡い朝の光を実際以上に眩しげに見せる。
そんな情景は埃くささと清々しさが共存し、様々な色の絵具がパレット上で、不規則に入り乱れているようだった。
看護師やデパート販売員の制服を着た女性、大きな風呂敷包みを背負う老若男女の物売り、道路脇の簡易露天商、そして上半身裸の男たち。立派な服装の人を見かけることは皆無で、代わりに痩せた野良犬を多く見る。
出勤の出で立ちは二十代から三十代の女性に多く、男性は家の前のテーブルで、仲間と一緒にカードをさばく姿が目につく。道路にはたくさんのジプニーやトライシケルが走り、制服姿の小学生や中学生がそれらに乗って移動していた。
多くの人が動き回り、どこもかしこも朝市のような健全な活気がみなぎっていた。夜の怪しげな雰囲気とは真逆の風景だ。
それは行政の手が十分入らず、カオスを残しながら、人間の生命力だけが勢いよく前面に押し出された世界だった。まるで昭和初期の日本の様子を、テレビか映画を通して観ているようなのだ。昔の日本も同じだったのだろうと思わせるせいか、そこには妙な懐かしさを感じさせる何かがある。けれどやはりそれは、自分の住む世界と異質だった。
一方で僕はリンと一緒にいるとき、彼女が自分と違う世界の住人には思えなかった。会話で感じる波長のようなものは小気味よく一致したし、彼女にある種の賢さやセンスも感じた。しかし彼女は、紛れもなくそこから見える世界の住人で、そこに融和して生きているのだ。
これは一体どういうことだろうかと、僕はいつも、この背反性を持つ二つの事実に不思議さを覚えた。ひとたび彼女に会って話しをすると、彼女がそこの住人だという前提は一瞬で消し飛ぶのだから、本当に不思議だった。僕はその疑問に解を見出せず、自分はおそらく何か大切なことを見落としているのだろうと、自身を納得させるしかなかった。
そして工場に到着すると、僕はまた不思議な感覚にとらわれる。
工場前では、大勢の従業員が工場正面右端の従業員専用入り口に並び、身分証と鞄の中味をチェックされる。並んでいるのは、まだ幼さの残る若い女性がほとんどだ。何百という数の人だから、単に工場へ入るだけで一仕事という感じだった。
けれど日本人はそこに並ばず、車が到着すると電動の大きな正門ゲートがゆっくりと開き、そこから敷地の中へ入る。こちらは車の中にゆったり座り、長蛇の列を横目で眺めて入場するのだ。だからそこで、自分が突然、まるで特権階級を手に入れたみたいだと思った。
そして僕は再び気付く。日本人とフィリピン人の間に、実際に大きなギャップが存在することを。
僕はいつでも、フィリピン人との間に感じるギャップが、現れたり無くなったりすることに翻弄された。特に困ることでもなかったけれど、そこにはいつでも不思議な感覚が付きまとう。
ある日僕は昼休みに外へ抜け出し、その列に並んでみた。三交代制で二十四時間稼動の工場だから、昼でも出勤や退勤する従業員がたくさんいる。加えて昼食のために出入りする人も大勢いるから、その行列は圧巻というべきものだった。
ガードマンは、フィリピン人従業員に混じって並ぶ自分に気付いて、少し戸惑ったようだった。彼らは、あなたは並ぶ必要などないから、前にいる人をパスしてこちらへいらっしゃいと、笑いながら僕を手招きした。僕は頭を左右に振り、自分の立っている場所を指差して、このまま並ぶと意思表示した。そのことでガードマンは、欠けている前歯を隠しもせず、ますます天真爛漫な笑いを僕に投げた。
チェックポイントに到達すると、ガードマンは僕の身体を形だけチェックした。十分か十五分並んだだけなのに、灼熱の炎天下にいたせいで身体はかなり汗ばんでいた。
僕はフィリピン人と同じ扱いを受けて、日本人が恵まれていることを実感した。最初から全てにおいて、雲泥の差が設定されているのだ。もらっている給料だって、何十倍もの差がある。
僕は知っていた。若い独身女性従業員は、その少ない給料の全てと言ってよい額を、両親を含む家族のためだけに使っている。そして彼女たちは、普段残業をできるだけこなし、休日になれば実家に帰って家の畑仕事を手伝うのだ。休む暇がなくても、彼女たちはそのことに愚痴一つ言わず、働けることに幸せを感じているようでさえあった。
僕はそのことに感服しながら、恵まれすぎて恵まれていることに気付かない日本人と、懸命に働き食いつなぐ生き方が当たり前なフィリピン人との違いに、思いを巡らせた。
大半の日本人は、この格差を当然と思っている節があるけれど、僕はずっと、心の中に芽生えたその種のつっかえを取り除けずにいた。
それは本当に当然のことで、そうだとすればなぜなのかと。
フィリピンでの仕事は慣れないことが多くあった割に、すっかり軌道に乗っていた。
それは自分の能力や立ち回り方が良かったというよりも、明るく細かなことを気にしない、人懐こいフィリピン人スタッフのおかげだった。
働いたフィリピン工場の全体は広大で、敷地内には同じ規格の建屋が何棟もある。細かい地図があったら便利だと、本当に思うくらいだった。
各建屋では全く違う製品を扱っていたけれど、まるで軍艦の司令塔を思わせる仰々しい生産管理室を始め、生産ライン配置、資材調達や在庫、生産数、品質、輸出入の管理方法はどの建屋も一様で、工場全体が無機質なシステムで覆われているようなものだった。
もちろん、工場がシスティマティックに運営されることを、僕は当然のごとく理解していた。そうでなければ、仕事を上手く回せないのは明らかなのだ。なにせ一つの部門に、千差万別の能力や性格を持つ、千人ものローカル従業員がいるのだから。
結果的に大勢の従業員を統制するヒエラルキーがあり、その頂点に日本人駐在者がつき、それと同類とみなされる日本人出張者も、ヒエラルキーの中で自然と高いポジションになるという具合だ。
僕が仕事をする現場のマネージャーは、篠原さんだった。篠原さんの下に生産管理系スタッフが二十名ほどいて、さらにその下にワーカーが千人ほどいるという構図になる。中間にラインリーダーがいて、更にそのリーダーたちを取りまとめるリーダー長がいる。彼女たちがかぶる帽子はまるでナースのそれのように、ラインの数や色で普通のワーカーと識別できるようになっていた。他に、生産を技術的にサポートするエンジニアスタッフが十五名ほどいる。
僕はそこで、新しく流し始めた製品の品質検討をしていた。難しい初めての製品だったこともあり、不良率が芳しくなかったのだ。もちろん改善業務には、フィリピン人スタッフの全面的な協力が必要となるけれど、幸い彼らはその期待に十分応えてくれた。彼らはいつでも気さくで、僕は彼らと一緒に楽しんで仕事を進めることができた。
仕事の進捗把握は、数値で表すべきアイテムを抽出し、その変化をグラフでモニタリングし、その中で成果や問題点を掴みながら計画を軌道修正する方法を取った。一見面倒な手法のようで、これが現地スタッフに仕事の内容やターゲットを伝え易く、彼らが自発的に動く動機付けが容易になるのだ。
自ずと現地スタッフから、相談や報告が増える。自分の責任範囲が明確になると、彼らは自分が自信の持てない箇所に不安を感じるからだ。
その日も、技術スタッフのサムという男性が報告してきた。
「また二百五十番でパタイが出ました」
二百五十番とは工程番号で、五十番飛びに番号を付けている。パタイとはフィリピン言語の死んだという意味で、彼らは不良品をそう呼んだ。僕は不良品を死亡品と言い換える、彼らの感性も好きだった。
「ふうむ、そうか。あそこはどうも調子が悪いね。とりあえずパタイの症状と原因調査を始めてくれないかな。その前の調整工程を見直す必要があると思う。僕もあとで合流する」
こんなやり取りを挟みながら、夕方にモニタリングしているデータの収集、パソコンへの入力と分析、そして朝一番に、みんなで前日までの結果をレビューする。そのあとは日本へ報告を済ませ、自分も現場に合流するのが大まかな日課だった。合間に調べものをしたり、日本と技術的なやり取りをする。そして現地スタッフとのミーティングや会話。
日本で仕事をするのと違い、余計な割り込みが入らず、仕事に集中出来るのが出張の大きな利点だった。
こんな仕事ぶりに明け暮れる中、ある日仕事中に、リンから不意のメッセージをもらった。彼女と出会って二週間が経とうとした頃だ。
「日曜の午後、もしあなたがよければ、一緒に映画を観に行かない?」
意外な誘いだった。自分がバーに行った際、勢いや流れで言われるなら理解しやすい。しかし、平日の仕事中にもらったメッセージは、如何にも唐突な印象だった。
これは純粋なデートの誘いなのだろうか、それともチップ目当ての仕事まがいか。猜疑と妄信の交錯。そして自分の中に点灯するワーニング。僕はいささか戸惑った。
加えてその日曜日、あいにく僕には、ラインリーダーたちとピクニックに行く約束があった。彼女たちに誘われて、行くことを既に了承していたのだ。
僕は少し思案して、結局「いいよ、一緒にランチを食べて、それから映画を観に行こう」と返信した。
僕はこのやり取りで、自分の中に芽生えている彼女への好意が、それほど軽薄なものではないことを自覚した。しかしそれがどこまで進展するのか、あるいはどこまで進展させていいのか、それは僕にもよく分からなかった。
自分の中で点灯したワーニングは、何かしらの防衛本能から発せられたものだけれど、自分が何を憂いているのか、それもいくぶん複雑だった。
もちろん彼女の誘いがあからさまな金目当てであれば、リンを友人のように思っている自分は落胆し、せっかくセブに見つけた自分の居場所を失うかもしれない。
しかし、むしろ僕が心の奥底に抱えていた恐怖の対象は、勤め人として致命傷となるスキャンダルだった。バーで遊ぶことには寛容な会社も、スキャンダルは見逃さない。表面上は笑ってやり過ごしても、実際はしっかり減点される。あるいは将来の芽を摘む、二度と消えない汚点となる。
人材が豊富な大企業は、人を振るいにかけるための材料を、常に探しているものなのだ。なぜなら、一般的に幹部候補を絞り込むときの理由付けが難しいからだ。となれば、スキャンダルのように分かりやすい減点対象は、欠陥を持つ人事評価制度にとって都合がよい。短絡的ではあるけれど、明確かつ合理的だ。
僕のジレンマは、まさにここにあった。
軽薄なお金の関係はつまらないけれど、心の通う充実した付き合いは、内容が濃くなるほど危険を伴なう。何処かで線引きすべきことは分かっていても、色恋沙汰は論理的にマネージできるほど単純ではない。そして相手が出張先のバーで知り合ったフィリピン人女性となれば、いくら自由恋愛を主張しても、秘密のノートブック上で僕の名前にバツが付くかもしれない。実際、現地で恋人を作り嵌り込んだ(ように見える)人には、顔をしかめる日本人が多いのだ。
正しい選択肢は、危険なものには必要以上に近寄らない。明快だ。
けれど僕は、フィリピンで過ごすようになってから、そんな自分の持つものさしに対し、疑いを持ち始めていた。
僕は自分の考えや意思を持ち、いつも息をしている生身の人間だ。しかし気付けば自分はいつでも、ルールや得たいの知れない強迫観念を追従するように行動を決めている。
『自分はいつの間にか、自ら自分自身を否定して生きているのではないだろうか』
そんな疑いが、水平線上に立つ入道雲のように、頭をもたげ始めていた。そうなると僕の周囲には、いつの間にか多くの枠があることに気付く。
日本人としての枠、社会人としての枠、企業人としての枠、世間体という枠、常識という枠、モラルという枠。
もちろん普遍的意味や価値を持つ枠もある。しかし、全てがそうではない。
その枠はいつでも僕を取り囲み、真綿で首を絞めるようにやんわりと自分を死に導いていた。それは僕に気付かれないようじわりと実行されているけれど、仮に気付かれても全く構わないという横柄さや絶対性がある。お前が枠を気に食わないなら、お前に別の死を与えるとでも言わんばかりに。
僕はフィリピンで、少年の反抗期みたいに、理由なくそれに抗いたくなったのかもしれない。あるいはもっと単純に、枠を外して自由を手に入れたくなったのかもしれない。
会いたければ会えばいいだろう。知りたければ知ればいい。それで何かが進むこともある。もちろん何かが後退することもあるかもしれない。
リンからすぐに、「ありがとう」とメッセージが返ってきた。
当日の日曜日、朝起きて部屋のカーテンを引くと、窓の外に見事な青空が広がっていた。真っ青で広大な空に、白い小さな雲が点在している。青と白のコントラストが美しく、夏に相応しい、心が晴れる空だ。けれどそれは、その日一日がとても暑くなることを意味している。もちろんそんな日のアウトドアイベントは、間違いなく心身共に疲弊するのだ。
僕は涼しいホテルの部屋で、ピクニックに参加表明したことを少し後悔しながら、その空を恨めしく眺めた。
待ち合わせは、九時半にスーパーマーケット前だった。そこで、ピクニックに必要なものを仕入れてから公園に行くらしい。
定刻通りそこに行くと、参加すると聞いていた他の日本人は誰一人いなかった。八名のラインリーダーは、既に全員集まっている。時間を節約したい僕は日本人を待たず、女性たちを伴い、開店直後のスーパーに入った。
僕の見ている前で彼女たちが手に取る物は、スナック菓子やジュースが中心だった。如何にもピクニックに必要な物ばかりだ。けれどレジでお金を払う段になると、不思議な商品の入ったバスケットが、レジカウンターの上にいくつも並んだ。
それは例えば、歯磨き粉やシャンプーや台所洗剤や米などの、日用品や食料品だ。
もともとその日の買い出し品を割り勘にしようなどと、野暮なことは言うなという雰囲気があった。言われるまでもなく、そのくらいは日本人が払ってやるべきとの考えもこちらにあった。しかし彼女たちはどうやら、便乗買い物を狙って日本人をピクニックに誘ったようだ。もしかしたら他の日本人は、それを知っていて来なかったのかもしれない。結局彼らは、約束をすっぽかした。
僕は、ピクニックには余計なものが満載のバスケットを指して言った。
「なに、これ? ピクニックで使うの?」
ラインリーダーたちは職歴が長く、家庭を持つ三十を少し過ぎた女性ばかりだ。そのせいか、図々しさも堂に入っている。
一番親しいフィーが、元気よく口を開いた。
「公園で何があるか分からないでしょう? だから色々揃えていくのよ」
フィーはラインリーダー長で、仕事上一番話しをする機会の多い女性だ。彼女は頭のキレがよく、いつでも物事をはっきり言う。夫が弁護士で本来生活には困らない身分だけれど、お互いの家族をサポートするため仕事を続けていると聞いていた。
もちろん僕は、「歯ブラシとか歯磨き粉も?」と反撃を試みた。
「そうよ。食べたあと、歯を磨く必要があるかもしれないじゃない」
にやけている彼女の顔は、それ以上細かいことを追求するなという事らしい。そうなると、もう少し抵抗したくなるのが人情というものだ。
「例えば、突然キスしたくなったときに?」
フィーは僕の言葉に目を丸くして、彼女の口が止った。
僕とフィーを囲む女性たちから笑いが出た。
「それならコンドームも必要になるかもしれない。それも買おう」とたたみ掛けると、ラインリーダーたちの笑いが悲鳴に近い奇声に変わった。フィーが薄っすらとした気味の悪い笑みを見せて、上目使いで僕のことを睨む。
「とにかく分かった。僕がお金を出す係りでいいよ。その代わり、今日のピクニックは昼前に抜け出させてもらいたい。それでいいならこれは僕が払う」
女性たちは、フィーがどう答えるのかをじっと伺っている。
「あなたの都合だから、もちろん構わないわよ」とフィーが言った。
「ありがとう。用事ができたので申し訳ない」僕がポケットから財布を取り出すと、かたずを飲んで見守っていた女性たちから拍手が起こった。
支払いを終えると財布から、リンとデートのために用意しておいた現金があらかた消えた。また補充しなければならない。フィリピーナとは、定職を持っている彼女たちでさえ抜け目なくて逞しいと、僕はほとほと感心した。
公園に到着すると、そこはヤギや猿や馬がいる、小さな動物園が併設された広大なファミリーパークだった。陽は上りきっていなかったけれど、僕たちは木陰を選んでレジャーシートを敷いた。
大勢の人が、サッカー場が数個入りそうな広い芝生の上で子供を遊ばせている。僕たちは、そんな長閑な光景を眺めながら、スナック菓子をつまんでのんびりした。
その場の何気な会話は盛り上がった。予想外に笑いが絶えない。もっとも、下品な笑いを絶やさないのはラインリーダーたちで、何がそれほど可笑しいのか理解不足の自分は、彼女たちから周回遅れのような心境でいた。それでも工場にいる日本人のことで質問されれば僕は正直に答え、それを聞いたラインリーダーたちはまた、悪いキノコでも食べたように腹を抱えて笑い出す。僕は会話の内容より、その様子を見ているほうが愉快だった。
そんな盛り上がりのせいで、十一時半に公園を出たいと話していたのに、いざその時間になっても、彼女たちは僕を解放してくれない。約束があると言っても「少しくらい遅れても大丈夫よ」という具合で、僕は十二時を過ぎてから慌ててタクシーを捕まえ、汗だくでホテルへ戻ることになった。
幸いリンは、まだホテルに到着していなかった。僕は身体にまとわりついた汗をシャワーで洗い流し、バスルームから出ると、真っ先に携帯電話を覗き込んだ。
時間は既に一時を過ぎているのに、携帯には着信もメッセージもなかった。
お腹も空き始めていたけれど、リンに一緒に昼食を取ろうとメッセージを入れた手前、食事を我慢してコーヒーを淹れる。ついでに本を取って読み始めた。しかしリンの連絡が気になり、内容が頭に入らない。
気付くと時間は二時を過ぎていた。公園から必死に戻った努力が、水の泡になった気がした。そして三時になると僕は、まだ現れないリンに、約束をすっぽかされたのではないかと疑い始めた。
もう一度、既に何度も読み直した彼女のメッセージをみる。
「日曜日の午後、もしあなたに時間があれば、一緒に映画を観にいかない?」
何度見ても、そこには日曜日の午後と書いてある。僕は思い切って、「待っているけれど、何時にホテルへ来るの?」とリンにメッセージを送ってみると、すぐに返事がきた。
「今準備している。もう少し待って」
それで彼女が本当に来るらしいことは分かったけれど、実際に彼女がホテルにやってきたのは、四時を少し過ぎた辺りだった。
連絡をもらいロビーへ下りると、リンは白いシャツとブルージーンズという清楚な格好で、ラウンジのソファーに背筋を伸ばして座っていた。
彼女のシャツはいつもと同じオフショルで、肉付きの少ない彼女の肩や肩甲骨が、色気を伴いあらわになっている。
僕は彼女に近づいて言った。
「約束をすっぽかされたと思った」
「あら、午後って言わなかった?」と彼女は言った。
「確かにメッセージには午後と書いてあった。フィリピンで午後というのは何時なの?」
彼女が素早く瞬きした。
「フィリピンで午後は午後だけど、日本の午後は時間が決まっているの?」
そう言われた僕は、「いや、日本でも午後は午後だよ」と答えるしかない。
「そうでしょう? それで今は、午後じゃないの? それとも日本はもう夜になるの?」
こちらは腕時計を確認するふりをして、「今は夜じゃない」と言うのが精一杯だった。
「それじゃあ、あなたはどうして約束をすっぽかされたと思ったの?」
どうやら彼女は、本当に不思議に思っているようだ。
そんなふうに言われると、リンは昼頃に来ると勝手に思い込んだ自分が悪いような気がしてくる。というより明らかに、想像力豊かに思い込んだ自分が悪いのだ。もちろん約束の時間として、午後という漠然とした取り決めがあり得るだろうかという疑問は、自分の中で着地できずに彷徨っていたけれど。
そういえば僕は、とても腹が空いていた。
「話しの続きは何か食べながらにしたい。腹が減った」
彼女は「もちろんいいわよ」と言った。
ホテルのプール脇のレストランに場所を移し、僕は二人分のコーヒーとサンドイッチを頼んでから切り出した。
「さっきの話しだけれど」
しかし彼女は、プールを見つめ上の空だった。僕の声が彼女に届いていない。彼女の視線の先には、奇声を上げて無邪気に水遊びを楽しむ子供たちの姿がある。
プールサイドには、白いマットが敷かれたパラソル付きのサマーベッドが並び、水着やバスローブ姿の人たちがその上で本を読んだり、サングラス越しにプールを眺めてくつろいでいた。暑い中、きちんと蝶ネクタイをつけたボーイが、フルーツや花で飾り付けされたグラスの乗るトレーを片手に持ち、プールサイドを機敏に動き回っている。
僕は「どうしたの?」と彼女に訊いた。
彼女は我に返ったように、ごめんなさいと取り繕った。
「あなたがこの前話してくれたように、ここにはわたしのいる世界と全く違う景色があるのね」
彼女が感じたことを、僕は容易に理解できた。社会人になるまで、自分も似たようなものだったからだ。それに僕は、彼女にそこの世界を見せびらかすつもりなど毛頭ない。
「僕だって子供の頃は同じだった。ホテルなんて泊まったことはないし、飛行機も乗ったことがない。初めてステーキを食べたのが二十歳のときで、それまでステーキがどんなものか知らなかった。ナイフとフォークの使い方はホットケーキで学んだ。あなたたちは日本人がみんな金持ちだと思っているみたいだけれど、そんなことは勝手に作られた幻想だよ。実際僕の育った家はとても小さかったし、裕福には程遠い家庭だった」
彼女は少し僕を見つめて小さく笑い、改めて客のまばらなレストランの中を見渡した。
「本当に素敵なところね。さっきの話しだけれど、フィリピンと日本の午後は同じだと分かったから、もういいわよ」
彼女は再びプールを眺めた。
テーブルの中央に置かれた一輪挿しのハイビスカスが、天井ファンの風で微かに揺れていた。ヨハンシュトラウスの『青く美しきドナウ』が、控えめに流れている。
何かを考えている彼女に、僕は余計なことを話すのは止めた。午後の定義など、確かにどうでもよいことなのだ。
食事が済むと、彼女が言った。
「行き先は決めてあるの。タクシーを使うけどいい?」
僕が「もちろん」と言うと、彼女は自分の携帯から誰かにメッセージを送った。そして十分後に着信したメッセージを確認し、彼女は車が到着したことを告げた。
ホテルのエントランス前に止っていたタクシーは、ジミーだった。僕が手をあげて挨拶すると、彼は運転席からいつものように頷いた。
リンは驚く僕を見て微笑みながら言った。
「この前ラツキーからの帰り道、彼の携帯番号を教えてもらったの。あなたは人を見る目があるようね。彼は珍しいくらい善良なドライバーよ」
二人が車に乗り込むと、ジミーは無言で車を発進させた。彼は既に、行き先を知っているようだ。
車は繁華街から遠ざかる方向に向かった。映画を観に行くなら反対ではないだろうか。
僕はリンにどこへ行くのか尋ねたけれど、彼女は「あなたに見せたいところがあるの」と言ったきり、その話しを打ち切った。
少し車が進んだところで、彼女が唐突に口を開いた。
「わたしたちが今向かっているのは、バニラッドの外れになるの。小さな日本食のレストランがあるけど、知ってる?」
僕は普段、その方面に行く機会はない。
「知らない。あなたはそのレストランに入ったことがあるの?」
「ないわよ。日本食レストランは高くて、わたしたちには敷居が高すぎるの」
「なるほど。もし時間があれば、今日の夕食にそこを試してもいいよ」と僕は言った。
「それは次の機会でいいの。それよりそのレストランの先には、丘の上にビバリーヒルズという住宅街があるのよ。お金持ちが住んでいるところ。面白い地名でしょう?」
確かにビバリーヒルズは、全米有数の高級住宅街として有名なところだ。しかし僕は、夕食の誘いを上手にかわされたような気がして、そちらのほうが気になった。
それでも話しを合わせるしかない自分に寂しさを感じながら、仕方なく僕は言った。
「それ、本当の地名?」
「冗談みたいな本当の地名よ。その近くに有名なチャイニーズテンプル(寺院)があるの。あなたがよければ、別の機会にそこも案内するわよ」
「あなたが時間を作ってくれるなら、もちろん僕は喜んでついていく」
車は王様の住む城のような作りのウォーターフロントホテル前を通り、リンが紹介してくれた和食レストランを過ぎ、左手にビバリーヒルズを見ながら、以前は高級ホテルだったアンティポーロホテルの前を通る。そして上り坂の狭い道に差し掛かった。
その辺りまで来ると、僕はその先がどこへ辿り着くのかを知っていた。
僕はジェニーと寝たあと、もう一度彼女に会いに行ったのだ。そのとき予想通り彼女から連れ出しのお願いがあり、僕はどこかへ案内してくれることを条件に、彼女を店から連れ出した。
彼女はその夜、僕をセブの街外れにある小さなライブハウスに案内してくれた。そしてその翌日、セブを観光案内するという彼女の申し出を受けて行ったのが、その狭い上り道の先にある、ヒルトップという場所だったのだ。
そこは、セブシティーからマクタンまで丸ごと一望できる、山の上の素晴らしい場所だったけれど、彼女のガイドは最悪だった。そのときのジェニーは出かける寸前まで行き先を決めず、タクシーの中では行きも帰りも終始寝ていた。目的地に到着してからも、彼女は無言を貫いた。どちらかと言えば彼女の態度は、『この人に付き合うのは面倒でも、お金のためなら仕方ない』というものだった。当然僕の気分も『乗りかかった船で仕方ない』となった。そしてせっかくの素晴らしい景色もさっと舐めるように見て、十分程度でその場を後にしたのだ。
ホテルに帰り着くと、ジェニーはチップを受け取り、僕の夕食の心配もせずにさっさと帰った。
僕はその日、他人に気遣いできない彼女の態度に失望し、同時に彼女と一緒にいるのが辛くなった。お金のためとは言え、嫌々自分に付き合われるのは本意ではないし、僕は意味なく彼女の金づるになるつもりもなかった。
その後僕は、彼女に会いに行くことを一切止めた。
おそらくジェニーの持つ価値観と僕のそれには、大きな乖離があったのだろう。邪推が入るけれど、彼女が考える僕に与えるべき付加価値は、アクセサリーのように僕に付き添うことを含めた身体の提供で、僕が彼女に対して求めていた付加価値は、ある種の交流だったというふうに。
車が上り坂を走るなか、辺りが薄暗くなり始めた。右手に連なる山の尾根が、影となってその輪郭を明瞭にしていく。
「サンセットは山の向こう側になるから、残念だけれどここからは見えないのよ」とリンが教えてくれた。
僕は頭の中で、セブの地図を思い浮かべた。セブシティーは太陽の昇り沈みが日本の太平洋側と同じになるから、彼女の言う通りサンセットの見える場所は、今いる場所と島の反対側だ。
車の進む道がどんどん狭くなりカーブの連続となったけれど、ジミーは慎重な運転で、コーナーを一つずつ丁寧にクリアしていった。そして山の上に到着した頃には、車のヘッドライトが必要になるくらい、薄暗くなっていた。
車を降りて、人の足で切り開かれた薮の中の道を二分ほど歩くと、突然視界が開けた。
そこから目に飛び込んできたのは、群青色を何重にも塗り重ねたような深みのある空間に、オレンジ色のグラデーションが重なった、立体感のある美しい模様の空だった。左手に連なる山々の輪郭が、その下で影絵のようにくっきり見える。右下に見える街が、先ほどまでいたセブシティーだ。街灯とビルや家庭の発する灯りが明滅し始めている。灯りの密度はまばらだ。それを眺めているうちに、辺りがじわじわと暗くなっていく。
リンが辺りの様子を確認しながら、「たぶん、もう十五分くらいかしら」と言った。
「十五分?」
「そう、十五分でもっと綺麗になる。この場所は初めてでしょう?」
僕の心臓が小さく震えた。そして僕は正直に、昼に一度だけ来たことがあると答えた。
リンが目を見開いて、意外そうな顔を僕に向けたけれど、彼女は無言のまま視線をセブシティーに戻した。
二人でセブシティーを眺めている最中、辺りの闇はますます濃くなり、それに反比例するように、街の灯りの密度が増していく。さっきまで隙間として見えていたところに新しい灯りが埋め込まれ、一枚の光の面が輝きを増して広がった。僕はかつて色々な夜景を見たけれど、夜景が出来上がっていく過程を見たのは初めてだった。
「これは綺麗だ」
僕は思いがけずそう言い、そしてふと、あることに思い当たった。
「もしかして、あなたはここに来るタイミングを計算していた?」
彼女は夜景を見下ろしながら言った。
「ここはこの時間が一番感動できるの。あなたがそれを理解できる人でよかったわ」
そして彼女は僕のほうに振り向いた。
「わたしはあなたに、これを見せたくて誘ったのよ。映画はどうでもいいの」
「どうして僕にこれを?」
「あなたは初めて見たセブを、あまりいい意味ではなく、あなたが住む世界とまるで別の世界だと言ったわよね。だからわたしは、あなたにここの自慢できるものを見せたくなったの」彼女はそう言って、風にたなびく髪をかき上げる。
「なるほど、これは自慢してもおかしくない。とても素晴らしいものを見せてもらった」
「この場所は以前家族と一緒に来たの。そのときお父さんが、ここに来るならこの時間に来るべきだと言って、これと同じ景色を見せてくれたの」そして彼女はクスクスと笑って、「あなたを案内する場所は、家族の思い出の場所ばかりね」と言った。
「そんな場所に案内してもらえるのは光栄だよ。ただ僕は今、フィリピンにもこんなに寒い場所があることに驚いているけど」
標高が高いせいで、風が吹くと、体感温度は日本の晩秋のように低い。
リンは小さく笑って言った。
「確かにそうね。前に来たときも寒かったけれど、随分前のことですっかり忘れていたわ。本当に寒い」
震えて身体を擦り寄せてくる彼女の肩を、僕は遠慮気味に抱いた。肌の触れ合う部分が熱を帯びて、少しだけ暖かくなったような気がした。
素晴らしい夜景はいつまで見ても飽きなかったけれど、僕は山を降りるべき時間のことが気になっていた。
「今日は本当にありがとう。残念だけれど、そろそろ山を降りないと、あなたの仕事の時間になってしまう」
彼女は僕の肩に預けていた頭を回し、例の素早い瞬きをした。
「仕事はないわよ。今日は休んだの。だからこのあと、一緒に映画を観て食事しましょう? 食事の場所も決めてあるのよ」
今度は僕のほうが、目を瞬かせることになった。
「あなたのサプライズは、なかなかいいね」
「あら、そんなに驚いた? でも狙ったつもりはないのよ」
僕が「ああ、そう」と言って笑うと、彼女もつられて僕と一緒に笑った。
僕たちは間もなく山を降りて、宿泊ホテルからすぐ近くのモールに入っている映画館に行った。随分立派な映画館は、上映時間が深夜までだった。いくつシアタールームが入っているのか把握するのが難しいほど規模が大きく、少なくとも十種類くらいの映画を同時上映していそうだ。設備は最新で、日本の最先端の映画館となんら遜色ない。
そこで僕たちは、ミスタービーンの喜劇映画を観た。そのあとリンは僕を、モールから徒歩圏内にあるローカルレストランに案内してくれた。
レストランは、大通りから目立たない小路を入って、百メートルくらい先に進んだ場所にあった。地元以外の人がそこを見つけるのは不可能と思われるくらい、とても辺鄙なところだ。
そこは駐車場のようなスペースに、椅子とテーブルが並んだだけの、屋外ローカルレストランだった。テーブル席の半分には簡単な屋根がかかり、残り半分の席は青天井になっている。僕たちは開放感のある、屋根のないテーブルを選んだ。
看板にチャコールグリルと書かれている通り、炭焼きの香ばしい匂いが辺りに充満していた。客席の照明は、数メートルの間隔で裸の白熱灯がぶら下がる、とても簡素な作りだ。そのせいでテーブル席は薄暗く、弱い光は向かい合って座るリンの顔に陰影を生み、彼女の艶かしい色気が漂った。
前方に食材を並べた調理場があり、そこだけがイカ釣り漁船に見るような強いライトで、一際明るく照らされている。
店員がドリンクのオーダーを取って、テーブルを去った。
「ここはメニューがないの?」
「食べ物のオーダーはあそこでするの」彼女は前方の食材コーナーを指差した。
早速オーダーのために食材コーナーを覗くと、敷き詰められた氷の上に数種類の貝、魚、野菜、肉が整然と並んでいる。
「何をどう頼めばいいのかさっぱり分からない」と僕は言った。
「好きなものを頼めばいいのよ。調理方法に指定がなければ、店が勝手にやってくれるから」
指南を受けて僕がチキンやポークを選ぶ間、リンは地元人らしく、ベイクドタホン(チーズ乗せ焼き貝)、ベイクドタラバ(焼き牡蠣)、ベジタブルキニラオ(野菜の酢和え)と矢継ぎ早に頼む。
もちろん僕には、リンの頼んだ料理が一体どんなものなのかさっぱり分からない。自分の想像も及ばない世界を持つ彼女は、やはり僕にとって外人だと再認識する一瞬だった。
食材コーナーの脇や裏を覗くと、よれたTシャツを着た五~六人のフィリピン人が、汗を流して炭の煙に包まれながら、一心不乱に食材を調理していた。
二十くらいありそうなテーブルは、半分が客で埋まっている。自分以外は地元の人間だけれど、ダウンタウンのキャンティーンで見たようなみすぼらしい身なりの客は一人もいない。
テーブルの上に、調味料や薬味の入る缶が並んでいた。
僕は恐る恐る、醤油を指の先につけて舐めてみた。味が濃くてくせがある。缶には、小さく刻んだ青い唐辛子や玉ねぎ、青ねぎ、トマトが入っていた。その脇の小皿に、半分に切ったカラマンシーが盛られている。
「それはスパイス(薬味)。それを小皿にとって醤油をかけるの」
「それにバーベキューをつけて食べるの?」
「そう。もちろん好きに食べていいのよ。でもそうやって食べる人がほとんど」
僕は細切れにされたトマトを数個、スプーンですくった。
「トマトをこうして使うのは珍しいね」
彼女は意外な顔をして「そうなの?」と言った。
「日本ではトマトを、野菜サラダとしてよく食べるけど」
「フィリピンでそれはないわよ。そもそもトマトは野菜じゃないでしょう?」
彼女は妙なことを言った。
「だったらトマトは何になるの?」
「トマトはスパイスよ」
スパイスと言われたらそんな使い方もあるかもしれないけれど、トマトが野菜であることに変わりはないはずだ。
「トマトは野菜だと思うけど」
「トマトはスパイス以外有り得ないわよ」
「スパイスにもなる野菜じゃなくて?」
「スパイスはスパイスで、野菜じゃないの」
僕は「トマトはナスと同じ種類の植物で、野菜だと思う」と主張したけれど、彼女は結局、それを信じてくれなかった。
以前バーで、一日は十二時間よ、ちゃんと時計を見なさいと言って譲らない女性にも出会ったけれど、文化背景ーこれらを文化と呼ぶのは微妙だけれどーの違いを感じる出来事は、あらゆる所に潜んでいる。
テーブルに頼んだ料理が並んでいく。ドリンクやライスに加えて六品のディッシュをオーダーしたから、テーブルの上が順調に狭くなった。
「ところで、食事中に雨が降ったらどうするの?」僕は真っ暗な空を見上げて訊いた。
「傘をさして食べるのよ」と、リンは事もなげに言った。
「傘を?」
彼女が頷いた。僕は屋外のテーブルで、二人が傘をさして食事を取る光景を想像した。するとそれも風変わりで、風情があるような気がしてくる。
「それってなにか、不思議な光景だね。片手で傘を持って、もう一方の手でもくもくと食べる。土砂降りの中で会話もせずに」
彼女は素早い瞬きをして、突然甲高い声で笑い出した。
「ノー、それは普通の傘でしょう? わたしが言っているのは大きなパラソルよ。テーブルにそれを付けるの。あなたの考えていることはとても奇妙よ」
なるほど、それはそうだ。
「フィリピンはやっぱり面白いと思ったけれど、確かに変だよね」僕も自分の勘違いがおかしくなる。彼女は「さすがのフィリピンでもそれはないわよ」と言って、しばらく楽しそうに笑っていた。
テーブルにベイクドタホンとベイクドタラバが届くと、彼女は「これがわたしの好物なの」と言い、本当に美味しそうに食べ始めた。彼女の前に、食べたあとの貝殻が勢いよく積み上がっていく。
僕は上機嫌で料理を食べる彼女を見ながら、その食べっぷりの良さが嬉しかった。
「本当に好きなんだね」
彼女は「ここのタラバ(牡蠣)はとても美味しいのよ。あなたも食べて」と僕を促し、更に牡蠣を二つ、立て続けに食べてから言った。
「このレストランの料理は、日本人に合うかしら?」
「とても美味しいよ」と僕は言った。
新鮮な材料をシンプルに炭焼き調理しているのだから、そもそも不味くなりようがない。牡蠣を食べるのは少し怖かったけれど、臭みもなく、潮の香りを残した新鮮な食材を使っているようで、実際にそれはとても美味しかった。
「ここは料理が美味しいし、雰囲気もいい。店員は気さくに接してくれながら、客のプライバシーも確保されている。食べるスタイルにも気をつかわない。会話に丁度いい静かさがあるけれど、寂しいわけじゃない。一人で気軽に来ることもできそうだ。ここは完璧なレストランだと思うよ。ただ僕は少し気になっているんだけど、タラバを追加注文したほうがいい?」
テーブルにサーブされたタラバは、綺麗に食べ尽くされていた。けれど彼女は、眉間に皴を寄せてノーと言った。
「あなたがここを気に入ったのは嬉しいけれど、お腹は満足。それに、これ以上食べ続けたら危険よ」
僕は意味がよく分からなかった。
「危険? 何が?」
「お店の牡蠣が無くなったら、他の客が怒って暴れ出すの」
彼女は相変わらず眉間に皺を寄せながら、とても深刻そうに言った。
「そうなの? そしたら僕たちは食事を中断して逃げなきゃいけない?」
僕はわざと、周囲の人に話しを聞かれては困るというふうに、声を潜めた。
彼女も、如何にも秘密めいた話しをするように、真剣な顔をこちらに寄せて声を潜める。
「ノー、逃げないわよ。今度は山じゃなくて、二人で海に行くの、牡蠣を採りに。だって暴動を収めるにはそれしかないでしょう?」
「なるほど。意外に責任感があるんだね」
「当たり前じゃない。でも牡蠣を採ったあとにお腹が空いたら、その牡蠣を全部食べちゃうかもしれない。我慢する自信は全くないの。フィリピン人はどうしようもないときの諦めがいい代わりに、目の前の人参を食べずに我慢するのはとても苦手なの。これは覚えておいた方がいいわよ」
僕は短い期間、それなりにフィリピン人を観察した。その上で、彼女の言ったことが的を得ているような気がして可笑しくなった。
「つまり本当は、それほど責任感があるわけじゃないのかな?」
「毎日食べるのが精一杯の人に、あなたは責任感とかモラルとか、そんな道徳的なことを期待できると思うの? 普通は何をさておいてもお腹を満たすのが先でしょう? もちろん責任感はあるけれど、それ以上に大切なことがあるのよ」
「確かにそう言われるとそんな気がする。でも僕だったら、食欲と性欲のどちらを優先させるべきか迷うけど」
彼女は大きな声で笑って、「それはあなたが恵まれているからでしょう? でも、わたしはあなたの冗談が好きよ」と言った。僕もあなたの冗談は冗談ぽくなくて好きだと言った。
「いずれにしても、今日のあなたのプランは完璧だった。本当に楽しくて嬉しかった。ありがとう」
彼女は少し前の笑いを引きずるように、嬉しそうな笑みを顔に浮かべた。
「あなたが喜んでくれたら、わたしはそれでいいのよ。それにたくさんご馳走になったし」その直後に彼女は少し慌てて、「ごめんなさい、食事代はあなたが払うということでいいのかしら」と恥ずかしそうに笑った。
「もちろん僕が払うよ。それは問題ないけれど……」
「けれど?」
「一つ聞いて欲しいことがある」
彼女は急に生真面目な顔になり、「なに?」と言った。
それは、僕がどうすべきか迷っていたことだった。
「今日僕はとても楽しかった。こんなふうにデートをしたのは、本当に久しぶりだった」
彼女は「そうならよかった」と満足げに言って、「それで?」と僕を促した。
「今日、あなたは仕事を休んで僕に付き合ってくれたよね。それは嬉しいけれど、僕は今日のあなたのサラリーがなくなったことが気になっているんだ。だからそれを感謝の気持ちとして補填したいけれど、それであなたが気を悪くしたら、それはそれで困る」
「どうしてそんなことを気にするの? 普通のデートはそんなことを考えないでしょう?」
確かにその通りだ。僕はこの際、率直に話すことにした。
「確かに普通のデートだったら考えない」
「だったらどうして?」
「僕がヒルトップに行ったのは、あなたに話した通り、今日が二度目なんだ。前に行ったのは昼だったけれど、あるバーの女性にセブを観光案内すると誘われて、僕はそれにのこのことついていった。そうしたらそれは本当に酷いガイドだった。けれど僕は、彼女にその日のガイド料を払ったんだ。彼女が最初からそれを期待していたことが、僕には分かっていたから」
「それであなたは、わたしにもガイド料が必要だと思ったの?」
冬の湖面のように静かで冷ややかで、決して波風を立てない口調だった。
「あなたが、お金を期待して僕を誘ったとは思っていないよ。そのくらいは僕にも分かる」
「だったらどうして?」
「ここでは習慣的に、そいうことが当たり前かもしれないと思って、自分はどうすべきか迷っていたんだ。でもそんなことがなくても、実際にあなたのサラリーがなくなったんだから、感謝の気持ちくらい渡したいって思うでしょう?」
リンは気に障ったのだろうか、口調はどこまでも穏やかながら、とても真剣な顔をしていた。
「それは、わたしが貧しいから?」
僕は少し考えた。確かにそうかもしれないけれど、本当にそうなのか。
「分からない。あなたの生活が毎日のサラリーと直結していることを、僕は考慮すべきだと思っているのかもしれない」
「それは事実よ。でもわたしは、お金であなたに買われるつもりはないの」
僕は彼女に誤解を与えているかもしれないと思い、少し慌てた。
「それはよく分かっているし、僕にもそんなつもりはない。ただ僕は、あなたに負担をかけたくないだけなんだ」
彼女は少しの間、テーブルに視線を落として沈黙した。
「それであなたは、その女性とたまに会っているの?」
「まったく会っていない。店に行くのもその観光をきっかけに止めた」
「どうして止めたの?」
「僕はその女性と一緒にいて、全然楽しくないからだと思う」
「あなたはわたしと一緒にいて楽しい?」
僕は「とても楽しい」とありのままに言った。
彼女は張り詰めた何かを開放するようにふっと息を吐き、その顔に赤みが戻ったような気がした。
「あなたが楽しいならそれで十分。わたしも楽しかった。お金は要らないわよ。最初からそのつもりはないの。今日のことはわたしが誘ったことだし、仕事を休んだのも自分で決めたことだから」
その言葉を聞いて、何かが勃発してもおかしくない会話が収束しそうなことに、僕は安堵した。
「分かった。それじゃあこうして欲しい。僕は今日のお礼として、あなたに多目のタクシー代を払う。それだけを受け取ってくれたら僕の気が済むし、それでまた次のデートをお願いしやすくなる」
「ありがとう。あなたの気持ちはよく分かった。でも次はあなたから誘ってくれない? こういうことは、やっぱり男性から声をかけるものでしょう?」
「そうかもしれない。がんばってみる」と僕は言った。
夕食の会計は驚くほど安かった。二人で十分満足した内容が、普段行くレストランの一人分程度だ。
僕たちは人気が少なくなった道をゆっくり歩き、牡蠣の採り方について語りながらホテルまで戻った。そしてホテル前へジミーに来てもらい、僕は約束通り、多目のタクシー代を渡し彼女を見送った。
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