第4話 目的のない探索

 リンと出会う前の三週間、既に僕は、セブで色々なことを経験していた。そしてこの期間に感じ取った景色や空気を含むフィリピンの世界は、ある種の固体のようなものに凝縮され、その後ずっと自分の中に存在し続けている。そして僕はリンの事を、そこから生まれた感覚を通して見ていたような気がするのだ。


 フィリピンを訪れてから、平日はいつも六時前に起きていた。そしてコーヒーを飲みながら、七時前に来てくれるカンパニーカーを待つのが日課となっていた。

 ドライバーはいつも同じ人で、約束した時間には車に乗り込めるよう、いつでも早めに来てくれる。前夜いくら遅くてもそれは変わらず、その勤勉さには頭の下がる思いだった。

 一度ドライバーに「いつも朝早くて大変だね」と声をかけると、彼は少し照れながら言った。

「僕はこの仕事がありがたいよ。夜遅いも朝早いも、全部オーバータイム(残業)のお金が出る。オーバータイムないと生活苦しい。寝る時間が一杯でもお金ないのは困るね。子供のアンハッピーは僕もワイフも一番悲しい。だからこうして働けるのは、とても幸せだよ」

 僕はその話しに感心し、話しの中身もよく理解できた。けれど僕は、彼らがお金を稼ぐ仕組みの中に、あるいは生きる世界の中に、人としての尊厳を踏みにじられる何かが潜んでいるのでは、と感じることがあるのだ。

 マクドナルドの入り口で害虫のように追い払われる子供たち、嫌かどうかは関係ないと言い、身体を売るジェニー、いつもひたすら待ち続けて、日本人を目的地に運ぶドライバー。

 確かにそれらは、生きるために必要なことかもしれない。けれどそのための彼らの代償は、日本人と比べて小さくないように見えることが多かった。

 すると僕は、不思議な気持ちになる。どうして世の中は、こうも不公平なのかと。

 資本主義とは、能力や努力が公平に報われる仕組みではなかっただろうか。車の後ろでふんぞり返る日本人と、彼らフィリピン人ドライバーの能力比較を、誰かが公平に行ったのか。少なくともお金を稼ぐという意味では、大会社の看板の陰で安穏とする日本人より、バーの女性やドライバーのほうがよほど貪欲で懸命だ。正しいかどうかは別にして、僕が直感的に感じる不公平とはそのようなことだ。

 実際世の中は、先鞭をつけた人に支配され、弱い人たちは搾取されるという構図になっている。大きく括れば、強弱で二極化していることになる。

 極端に言えば、一部の人の利益のために、戦争まで始まってしまうのだ。そこでたくさんの金が使われ、大勢の人間が犠牲になり、ある人たちが金を儲けてほくそえむ。そういうことが、概ね正義の名の基に行われる。

 世の中の全ての人が裕福になれば、エネルギーや食料が不足することだって、大勢の人が知っている。つまり誰かの幸せは、誰かの犠牲の上に成り立たせなければならない。どこかに山を盛るためにどこかを掘らなければならず、掘る場所は確保しておかなければならないということになる。

 もちろん誰もが必要とする付加価値を生み出せば、それに見合った金が流れ込んでくるだろう。そういった公平性は維持されている。それでも目立ち過ぎると、出過ぎた杭が不当に打たれることは普通にある。それは世界に名だたる大企業同士でもあることで、弱者が這い上がるには厳しい世の中であることも確かだ。

 そして僕は、そういった資本主義の仕組みに組み込まれて生きている。フィリピンに行けば、資本を投下した側の人間として、それだけである種の優位性を保つことができるのだ。そんな自分が偉そうなことを考えるのは、ある種の欺瞞になってしまうのかもしれない。


 工場の仕事はいつもきっかり、午後五時に終わった。日本と違い、就業時間は規則的でかつ徹底されている。よほど緊急の案件がない限り駐在者は残業をせず、出張者も五時に帰宅の途につく。そうなると僕はいつも、闇が街を包み始める六時頃にホテルへ帰り着いた。

 近くのモールで食事を済ませ、ホテルの部屋で一人になると、僕は底なしの退屈に身を焦がした。テレビをつけても言葉が分からず、マッサージも時々行くだけで十分だった。日本から持ち込んだ本はあっという間に読み終わり、そして毎日出張の日当が付く。

 つまりいつでも自分の目の前に、時間とお金が熨斗のついた状態で揃っているのだ。しかも僕は、この街に刺激的な場所があることを知っていた。そしてそれは、簡単に手の届くところにある。そこへ行くには、知識も教養も学歴も地位も要らない。時間と金さえあれば資格は十分だ。

 これだけ条件が整っているのは、まるで馬の鼻先に人参がぶら下がっているようなものだった。僕は自然と、ゴーゴーバーに足を運ぶようになった。

 もちろん最初は夜の単独行動に緊張したけれど、タクシーの一人乗りに慣れてしまうと、出かけることが苦にならなくなった。そのような場所へ行くことの後ろめたさも、周囲の環境が薄めてくれた。

 フィリピンは、タクシードライバーが「自分はいいところを知っている」と頻繁に誘ってくる所だ。客を紹介すると彼らにキックバックが入るらしく、ドライバーはまめに真剣に声をかけてくる。

 そうなると、タクシードライバーにゴーゴーバーを行き先として告げることなど、何でもないような気になった。これだけ大っぴらになっているなら、バーに女を求めに行くことなど、スーパーに野菜や肉を買いに行くのと同じくらい堂々としていればいいという具合に。

 環境が人の行動を変えるという法則は、確かに存在したのだ。セブには自分を変貌させる環境が、十分整っていた。


 僕は用心し、タクシードライバーの誘いに乗らず、いつも行き先を自分で決めた。頻繁にタクシーで出歩けば、どこにどんな店があるのか自ずと分かってくる。店や通りの名前は分からなくても、およそどの辺のバーという具合に目的地を告げて、近づいたら見覚えのある場所から具体的に道案内をすればよかった。たとえ勘違いや間違いがあっても、それはそれで適当なネオンの場所でおろしてもらえばいいのだ。

 こうして僕は、次第に要領というものを習得していった。するとますます、僕は自分の順応具合に満足し、そのこと自体に楽しさを感じるようになった。目の前の難関を自力でクリアしたかのような、甚だ勘違いの満足感だった。

 そこに輪をかけるように、敷居の低くなったゴーゴーバーの刺激は、免疫のない僕の神経を麻痺させた。

 最初は何もかもが珍しく、毎回若い女の子に言い寄られることは、テストで一番を取ったかのように気分がよかった。おそらく主導権を握っている強みのようなものが、僕の気分を高揚させていたのだ。

 だから僕の精神状態は、バーの中にいる限り、いつでもゆとりがあった。お金の心配は要らず、課題もスケジュールもなく、好き放題やっても誰かに咎められることはない。レディスドリンクを出すのも、チップをあげるのも、それがいくらかも、そして何時に帰るかも、全て自分の思い通りに決めることができる。

 このゆとりのおかげで僕は、バーの中でいくらでも『いい人』のふりができたし、おそらくそれはふりだけでなく、実際『いい人』になれたのだ。ゆとりを失ったときに本性がばれることなど、恐れてもいなかった。

 僕はこの種の高揚感に浸りながら、身体の中で自分という人間を機能させている歯車が、刻みを少し狂わせる程度に欠けてしまったことを気付かずにいた。そういうことを察知する体内アンテナも、役に立たなくなっていた。

 だからセブの夜の世界は、まるで麻薬のようにいつでも僕を誘惑し、自分はそれに簡単に応じるようになっていった。


 僕は週に数回、セブのゴーゴーバーへ出入りするようになった。

 マンゴアベニューだけでも、その手の店はたくさんあった。セブシティーの夜はひっそりしているようで、実は様々なネオンが乱立している。分散しているから目立たないだけで、知れば知るほど怪しげな街だった。

 ゴーゴーバーの他に、会社の仲間とカラオケにも行った。カラオケは日本のそれと違い、必ず女性が横につく。セブのカラオケの主流は、普通のカラオケボックスのように個室に入る様式だった。部屋に入ると、そのあとずらりと連なった女性たちが現れ、その中から自分の横に座らせる女性を選ぶ。もちろん連れ出し前提の店がほとんどで、必ず本人やグループリーダーからその手のお誘いがある。

 店によってはわざわざ女性を連れ出さなくても、店の中で全てを済ませることができるようになっているから、需要に対する店側の努力もたいしたものだと、僕は度々唸ることになった。


 カラオケで連れ出しを断ったときに、ある女性がこんなことを言った。

「店内サービスもあるわよ」

「それって何?」

「ほら、あそこで」

 彼女の指さした先に小部屋があった。扉の上下に大きな隙間があって、最初はそこをトイレだと思っていた。

「あそこでやるの?」

「ばかねえ、あそこでできるわけないじゃない。あなたが良ければ、私は気にしないけど」

 彼女はわざとらしく作った色目を向けた。そんな彼女に、僕は頭を左右に振りながら言った。

「自分にそんな度胸はないけど、じゃあ、あそこで何をするの?」

「あなたにハッピーをあげるのよ、ここで」

 彼女は少し突き出した唇を、自分の人さし指で軽く触れた。僕は思わずかぶりを振った。

「いやいや、それも無理。それをお願いする客が実際にいるの?」

「結構いるわよ」

 僕は平然を装っていたけれど、内心では天と地が逆さになったかのような驚きを感じた。

「結構? 他に連れがいても?」

「大丈夫よ、外からは簡単に見えないから」

 彼女は、ちょっと席を離れるだけだから、そんなのは近所へ散歩に出掛けるようなものだと言う。

「でも、覗こうとすれば見えるんでしょう?」

「そうかもねえ。でもそれが嫌なら、別の個室も用意できるわよ」

 ちょっと遠出する? と誘われているみたいだった。

「だからそれも無理だよ。仲間と一緒に来てるんだから」脇の下に汗を感じながら、再び僕はかぶりを振った。

 

 こんなふうに、いかなる場所にも多様なサービスが用意されていた。お金を払えば何でも有りという具合に。

 店内ステージでトップレスショーをしている店もあるし、ガラス窓のついた部屋に集合した女性を外から見て、選んだ女性を横につける店もある。店で一緒に座らなくても、そのままホテルへ連れて帰っていいという店もあった。

 どの店もこんな感じだから、お決まりのように連れ出しを勧められせがまれる。

 こんなフィリピンの夜の世界を知るほど、アジアで冷や飯を食わされていると言った仲間の言葉が、ほとんど嘘であることを知った。

 バーでは多くの日本人を見かけ、日本人に限らず、客がバーの女性をホテルへ連れ帰る場面にも頻繁に出くわす。

 僕には、ホテルへ女性を連れ込む姿を、ホテル客や従業員に目撃されたら恥ずかしいという感覚があったけれど、それが当たり前のように横行する現状を目にしながら、その感覚が麻痺するのを自覚できた。

 それでも僕は、バーの女性たちとベッドインしようという願望が希薄だった。

 そのことは、ジェニーのときに味わった苦い思いが影響していたのかもしれない。

 事の最中、じっと終わりを待つかのような彼女の表情。そして終わったあと、汚いものを洗い流すようなシャワーの音。それらは僕にある種のダメージを与え、嫌悪感を残した。

 相手がベッドインを望み、情事を楽しんで結果的にお金を受け取って帰るのであれば、それはそれでいい。けれど、お金のために嫌々身体を差し出されることは、自分の中の何かに抵触していた。

 まして僕は、人と人の付き合いとして 、一方通行のやり取りはつまらない。相手が楽しんでこそ自分も楽しい、そして相手が嬉しいと感じて自分も嬉しくなる。

 こちらは遊びで相手は仕事であるところに、お互いの隙間を埋める難しさがあることは理解するけれど、いざとなれば生身の人間として、そんな感情が自分の中に目覚めてしまう。金さえ払えばどうにでもなる世界だからこそ、こうした感覚は自分に強く付きまとった。

 しかし、外に連れ出さなければ、バーで働く女性に見入りがない。そんな客に付きまとわれるのは彼女たちにとって迷惑だろうことを、僕も理解できるようになっていた。だから店で遊んだあとは、女性へのチップをケチらなかった。

 そもそも当時、店で飲むだけなら安いのだ。店の支払いは、毎日の日当の五分の一程度だった。だから、飲み代以上のチップを女性に渡しても全く平気だった。

 たまには女性を食事やライブハウスへ誘った。ホテル同行はなしという条件でチップの金額を決め、同意が取れたら一緒に店から出る。

 実際にそうしてみると、そのスタイルのほうが、よほど女性たちと心を通わせることができる気がした。

 もちろんそこには、自分の勘違いも含まれていたはずだ。夜の世界には素直で美しい蝶もいるし、自分など太刀打ちできないしたたかな女性もいる。相手に悪気はなくとも、魔性を持つ女性は、石を投げたら当たるほどいるのだ。


 たまにこんな自分を、癪に障る女性がいた。何を格好つけてるのよということかもしれない。あるいは、手っ取り早く稼がせなさいということかもしれなかった。

「ねえ、どうしてあなたは、わたしをホテルに連れていかないの? わたしが嫌い? それともわたしは汚い?」

「嫌いじゃないよ。嫌いだったら店に来ない。汚いなんてとんでもない。家族のために働くことを、僕は尊重するよ。嘘じゃない。日本ではそうやって懸命に働くことを、美徳と考えるんだ。僕があなたをホテルに連れていかないのは、自分がノーパワーだからだよ」

「ノーパワー?」

「そっ、ノーパワー」

 ノーパワーという言い訳が、不思議とどこでも通じるのは一つの発見だった。これをフィリピンの女性たちは、なぜか笑って許してくれるのだ。

 するとノーパワーへの同情か、それとも友情の芽生えか知らないけれど、女性たちはときどき本音を覗かせてくれるようになった。

「実はわたしね、小さな子供がいるのよ」

「そうか」

「驚かないのね」

「まあ、よく聞く話しだから」

「あなた、ベテランだわね」

「いろんなバーに行くよ。で? 子供の父親には逃げられた?」

 そういった話しは、どこのバーの女性にも聞かされるから、僕はいちいち意に介さなくなっていた。

「そう、フィリピンの男はだめ。みんな逃げる」

「追いかけて、責任を取らせればいいじゃない」

「そんな男を追いかけてどうなるの。将来の苦労が増えるだけじゃない」

 彼女たちは、結構現実を直視している。

「ほう、よく分かってるね。で、どうするの?」

「だからわたし、ここでお金を貯めてビジネスを始めるの。だっていつまでもできる仕事じゃないでしょう? ここは」

「って言いながら、もう何年も同じ仕事をしていない?」

 そんなことは、女性に染み付いた匂いのようなもので、分かるのだ。

「それ、言わないでよ。いい男がなかなか現れないからでしょう」

「あれ? お金を貯めてビジネスするんじゃなかった?」

「そうなんだけど、夢はなかなか叶わないから夢なの」

「いい男が現れるのも叶わない?」

「そう、叶わない。叶いそうで叶わない」

 彼女は飲み干したテキーラのグラスを、手のひらでもて遊んでいる。

「いいところまでいくこともあるの?」

「だいたいわたしの勘違い。所詮はお金の関係なのよ。でもね、わたし今、すごいチャンスが来ているの」

 消えかけた蝋燭の炎が勢いを取り戻すかのように、近づいた彼女の顔に明るさが灯った。

「それはいい話しだ」

「なに言ってるの、あなたのことよ。ねえ、今夜はどう? お金は要らないわよ」

 彼女は勢いよく僕の肩を引っぱたいたかと思うと、その肩に両手を乗せて甘える仕草をした。

 話しはいつも、だいたいその辺に落ち着く。お金は要らないというのが、どこまで本気かは分からない。そもそもこちらに、その気が起こらない。だから僕は、いつもこの手の誘いに、どうにか着地点を見つける努力を強いられるのだ。

「ただは高い」

「はあ? それ、なんの意味よ」

「つまり、あなたはお金は要らない。ただでいい。でもそのあと、僕があなたの生活の面倒をみる?」

「当たり前でしょう?」

「ほら、そのほうがずっと高くつく」

 彼女は「それはそうかもしれないわねえ」と言ってごまかし笑いをする。

「だいいち僕はノーパワーだって」

「ノーパワーでもいいわよ。わたしがなんとかしてあげる。ふふふ」

「その笑い方、少し怖いよ。止めたほうがいいと思う」

「なに話し逸らしてるの。わたしの話し、真面目に聞きなさいよ」

 彼女は今にも、両手で僕の首を絞めそうな勢いだ。

「ちょっと酔ってるんじゃないの?」

「今日は最後まで面倒みなさいよ。たまにはいいじゃない」

「子供が家で待ってるでしょう?」

「もう寝てるわよ。それに、母親が面倒見てるから大丈夫。だから連れて行きなさい」

 くだを巻く姿とは裏腹に、そこに彼女たちの不安や寂しさが見えることがある。不安定な現実と夢との狭間で、彼女たちはいつも苦悩しているのだ。けれど、フィリピーナという人種は不思議と立ち直りが早く、問題を引きずらない。落ち込んだ気持ちを前面に出しながら、次の瞬間には、まるで違うことにケラケラ笑ったりする。僕はそのことに何度も面食らったけれど、僕は次第にそれを、貴重な骨董品でも見定めるように、冷静に眺めることができるようになった。

 

 閉店まで店にいると、ときどき彼女たちの夜食に誘われた。

 最初はスポンサーとして誘われているのかと思ったけれど、彼女たちはそのケースで、こちらにお金を払わせることはなかった。もっとも彼女たちの行くところは、十人分の飲食代をまとめて払っても、たかが知れているところばかりだったけれど。

 おそらく僕についた女性が、自分の渡したチップの中からみんなに奢っていたのではないだろうか。彼女たちは決まってそんな小さな幸せを、仲間内で分け合っていたような気がする。僕はそんな席に呼ばれることを、とても楽しんだ。

 自分はこうして、フィリピンの人たちの生活を、少しずつ知っていった。気付けば馴染めそうにないと思ったそちら側の世界に、しっかり浸っている自分がいたのだ。

 バーの世界だけではなく、フィリピン全体の居心地が良かった。フィリピンという国土が良かったのではなく、フィリピン人と接していることが良かったということも、明確に自覚するようになった。

 僕はフィリピン人と接しながら、自分がそれまで日本社会で築き上げた価値観を、少しずつ否定され壊されていったのだ。そしてその否定や破壊は、意外に心地よかった。それは、それまで自分が疑問に思うしこりのようなものが解消し、そこにできた空間に別の何かがすっきり納まるような感じだった。

 日本という国は素晴らしいと思うけれど、随分と神経を擦り減らす場所であることも確かだった。しかしフィリピン人の言動には、人が人らしく生きるためにどうあるべきかのヒントが見え隠れし、それが自分の生き方や考え方に、再考を促してくるのである。

 それは夜の世界に限ったことではなく、昼でも夜でも、様々な生き方をしているフィリピン人と接する中において同じだった。

 乗ってはいけないと言われたトライシケルやジプニーに乗って、行ってはいけないと言われたダウンタウンに行き、ホテル従業員と友だちになり、そして夜な夜なバーに通うという体験を重ねながら、僕はフィリピンという国が抱える事情を少しずつ肌感覚で捉えることになった。彼らの生き方を、まざまざと見せつけられたのだ。

 フィリピンとは、勇気を出し自分に与えられたエリアから少しはみ出てみると、必ずそんな刺激的なことにでくわす場所だった。


 休日の昼過ぎ、あてもなく周辺散策をしているときだった。道端にトライシケルが停まっていた。

 トライシケルとは、サイドカー付きバイクタクシーだ。ただしサイドカーは、雨や直射日光を避けるためボックス形状になっていて、天井が覆われている。

 ドライバーが外国人の自分を物珍しそうに見ていた。目と目が合う。僕は衝動的に、彼に声をかけた。

「ちょっとそこまで乗せてくれない?」

 待ち構えていたかのように、彼は「オーケー、オーケー」と言った。どこまで行くかなどと、細かいことは確認してこない。

 僕は狭いサイドカーに乗り込んで、「あの角のところまでお願いできる?」と、ほんの数百メートル先を指さした。目的が少しだけ乗ってみたいということだったから、全く乗る意味のない距離だ。文句を言われるかもしれないと思ったけれど、ドライバーは二つ返事で了承した。

 トライシケルが走り出す。路面の悪さに伴って、サイドカーの留め金が今にも外れそうなきしみ音を出し始める。しかし乗り心地はそれほど悪くない。

 そんなふうにトライシケルを吟味している最中、指定した場所に一分もかからず到着した。当たり前だけれど、停止するまでがあまりにあっけなくて、僕はトライシケルから降りるのを躊躇った。

 ドライバーがバイクにまたがったまま、心配そうな面持ちでこちらを見ている。

「他に行きたいところがあるの?」

「ふうむ、正直言ってない。というより分からない」

「時間はあるの?」

「ある。暇、退屈」

「よかったらどこか案内するよ」

 ガイドの申し出だ。しかし安易に話しにのっていいものだろうか。

「ガイド料はいくら?」

 あなた次第という回答を予想したら、これが外れた。彼は人さし指を、僕の前でピンと立てる。

「ワンハンドレッドでどう?」

 その指の向こう側に、彼の人懐こい満面の笑顔があった。

 二百円で、この退屈を解消できる冒険旅行ができる。彼は悪い人ではなさそうだ。ずる賢いことを考える人間の笑みは、どこか卑下ている。どこがどうと説明するのは難しいけれど、なに人だって顔や態度に性格や人柄のようなものが滲み出るのだ。フィリピンでは調子のよさそうな人間を大勢見かけたけれど、彼のそれは信用できそうだ。信用しようとしている自分を完全に信用できないのが少々問題だけれど、僕はこれを買いだと判断した。

 僕が「オッケー」と言うと、ドライバーは両肘を少し外側に出すようなスタイルでハンドルを握り直し、今度は力強く発進した。

 透明のアクリルボードを通し、前方の様子がよく見える。エンジンが悲鳴をあげるようにかん高い音を出し速度が上がると、ドアのない入り口から風が勢いよく舞い込んできた。ついでに前の車の排気ガスも、臭いと一緒に入り込む。エンジンが唸る割りに速度はそれほど上がらないけれど、今ここでばらばらになっても不思議のないボロだから、適度な速度が安心だ。

 それにしても、初めて飛行機に乗ったときよりはるかにエキサイティングだ。なにせ正体不明のドライバーが運転し、行き先不明なのだから。

「どこに行くの?」

 行き先についてあまり気にしていなかったけれど、一応訊いてみた。

「はあ?」と彼が言う。

 エンジンの音がうるさくて、自分の声がドライバーに届かないのだ。彼は運転しながら、身体をこちらにぐっと寄せる。僕は少し声を張り上げ、もう一度訊いた。

「どこに、行くの?」

「どこがいい?」とドライバーは訊き返した。

 もともと大した意味のない探索だったのだ。

「適当に街の中を走ってくれる? どこでもいい」

「オーケー」

 彼は再び笑みを浮かべ、力強く親指を立てた。

 トライシケルに乗っていること自体が嬉しかった。僕はここでも、『一人でできた』という満足感や達成感に酔っていた。ついこないだまで右も左も分からなかった日本人の自分が、このローカルな乗り物に誰の助けも借りず乗っているという事実が、妙に誇らしかったのだ。


 最初に向かったのは、ダウンタウンエリアだった。そこは歩道を歩く人がやたらと多く、路上は車やバイクやトライシケルでひどく混雑していた。

 道行く人は、よれよれのジャージに擦り切れたTシャツの人もいれば、清潔なポロシャツにジーンズのスタイルや、真っ黒な麻袋をかぶった人もいる。まさに珠玉混合といった状態だ。

 コロニアル様式の建物がいくつか見えた。あとで分かったのは、それが大学だったり役所だったり教会ということだ。どれも古いけれど、白くて大きな柱の目立つ格式ある建造物であることが、素人の自分にも分かった。威風堂々としたそんな建造物の周囲は、付け焼刃で作ったような、ブロックのつぎはぎ痕が見える建物だらけだ。

 なるほどここが、一人で来てはいけないダウンタウンかと、感慨深くそのエリアを見ながら少し拍子抜けする。傍で見る限り、そこが危険な場所だということが、よく分からなかったのだ。そこを見るまで僕は、ダウンタウンをマフィアの巣窟的な、どす黒い空気の漂う場所だと想像していた。けれどそこは、庶民が溢れかえる普通の場所だった。

 その頃の僕は、多くの庶民が普通に集まる場所だからこそ、スリや置き引きや恐喝などの軽犯罪が発生しやすく、特に外国人が狙われるということを、まるで想像できなかったのだ。もちろん、犯罪者の立場から考える、犯罪効率のよい場所はどんなところか、などという発想もない。まったく自分は、温室育ちの世間知らずな日本人だった。

 トライシケルはそこから大きな公園の脇を通り、住宅の密集する住居エリアを抜けて港へ行った。そこで見た住居は、窓のない穴だらけの壁に、トタン屋根が簡易的に備付けられた家ばかりだった。そこらじゅうに粗末な洗濯物がずらりと干され、質素な生活感がにじみ出ていた。

 港から引き返し大きなモールの横を通り過ぎると、トライシケルはいつの間にか、先日篠原さんたちと一緒に食事をした、ネイティブレストランの通りに出ていた。

 既に一時間近く走っていた。僕はドライバーに、休憩を申し出た。彼は頷いて、間口全てを開放している、木造の古い店の前にトライシケルを停めた。

 そこはローカルのオープンキャンティーンだった。コンクリートの床に、白いプラスチックのテーブルと椅子が並んでいる。店の中では数人のみすぼらしい男たちが、皿に盛られた料理を食べていた。

 テーブルを挟んで、ドライバーと向かい合わせに座った。直接土間に置かれた扇風機が長い首を振り、定期的にこちらに風を送ってくる。一旦陽射しを避けてしまえば、たとえエアコンがなくてもそれだけで十分涼しい。風が身体をなでると清涼感さえある。

「ここは何を頼めるの?」

「ビールでもコーヒーやジュースでも、なんでもあるよ」

「それじゃあ僕は、アイスコーヒー」

 ドライバーにも好きなものを頼むように勧めると、彼はコーラを注文した。

 他の人が食べている様子を盗み見すると、皿に細長いごはんと魚や肉の料理が一緒に乗っている。現地の人はそれを手でかき混ぜて、起用に指でつまんで口に運んでいた。魚醤系の生臭さい臭いが鼻をかすめる。これが篠原さんが教えてくれた、ローカル食堂のローカルな食べものだ。

「ちょっとお尻が痛い」狭い空間にずっと座っていた僕の尻は、結構くたびれていた。「このあと、どこかのマッサージに連れて行ってくれない? ガイドはそこで終わりにしよう」

「よければホテルまでおくるよ」

「僕がマッサージを受けている間、待ってるの?」

 彼は当たり前のように、そうだと言った。

「いや、それは悪いな。だったら電話番号をくれない? 終わったら電話をする」

 彼は分かったと言い、ズボンのポケットから電話を取り出した。小さな表示窓のついた、傷だらけの四角いシンプルな電話だった。彼の携帯に電話し、お互いの番号と名前を交換する。

 彼はノエルと名乗った。長髪で、よく見れば端正な顔立ちをしていた。肌の色がやや黒くしかも汚れているため、少しふけて見える。しかし実際はまだ若そうだ。

「子供はいるの?」

「二人いるよ。男と女」

「それはいいね。何歳?」

「五歳と二歳」

「可愛い盛りだ。日曜日も仕事で、奥さんや子供に叱られない?」

「家族のために仕事をして、なぜ叱られるの?」彼は怪訝そうな顔をした。

「え? いや、休日だから」

 彼はようやく意味を飲み込めたようで、「ああ」と頷きながら笑った。

「僕らに休日はないよ。毎日働かないと食べるものに困るから。家族は今日も、僕の持って帰るお金や食べものを待っている」

 うっかり僕は、日本人の感覚で彼にそんなことを言ったことに気付き、少し気まずくなった。ここは、日銭で暮らしている人が多いのだ。

「そうか、大変だね。でもあなたの奥さんは幸運だ。旦那がきちんと働いてくれる」

「そんなの当たり前だよ。僕が働かないと、奥さんと子供はどうなる? 食べるものがないよ」

「そうだよね。当たり前だ。僕もそう思う」

 日頃バーで、酷い男の話しばかりを聞かされている僕は、ノエルの話しに少し救われる気がした。全ての女性や子供たちが、不幸なわけではない。ゆとりがなくても、そうやってがんばって生きている人たちもいる。

 考えてみれば、要求に応じて身体を売らなければならない仕事など、事情がなければ誰だってやりたくないはずだ。事情を抱えたバーの女性に悲劇のヒロインが多いのは、当たり前かもしれない。

 一息つくと、時間は既に四時を過ぎていた。

「あなたの家は遠いの?」

「遠くない」

「それじゃあ行き先変更。ケンタッキーに寄ってくれない?」

「オーケー」

 ケンタッキーで、フライドチキンやサラダなどを適当に買った。それからマッサージ店に行き、店の前で彼に言った。

「たぶん二時間かかるから、これを家族に届けて、一緒に食べて」

 まだ十分暖かいケンタッキーを差し出すと、彼は少し驚いて、喜んでそれを受け取った。

「それとここまでの代金を先に払っておくよ」

 僕は彼に二百ペソを渡した。彼は本当に嬉しそうに、それも受け取った。

 こんなケースで遠慮する人はいない。ケンタッキーも素直に受け取るし、最初に百と約束した料金も、多めに渡せば感謝をして受け取る。

 フィリピンの生活を始めた当初、そんなふうにお金や物をあげることで、相手を恐縮させたりバカにしていると誤解されるかもしれないと心配したけれど、それは違った。フィリピンにチップの文化は根付いているし、そのせいでサービス業の人たちは、チップを貰う前提のサラリーしかもらえない。チップがなければ、生活が苦しいのだ。そしてそんな職種は、バーホステスだけの話しではなかった。ホテル従業員もレストランウエイトレスも、どこもかしこも同じだった。


 彼と別れて入ったマッサージ店にも、フィリピン事情の縮図が存在した。

 そこはこじんまりとした、普通のマッサージ店だった。受付のすぐ脇に、カーテンで仕切られた個室がいくつか並んでいる。マッサージ室に入ると、隣の部屋との仕切りもカーテンのみで、怪しいことをする前提の作りではない。受付けの応対の声はもちろん筒抜けだ。

 しばらくマッサージは普通に進行した。マッサージをしてくれたのは、三十過ぎの女性だった。どの外国の血も混ざっていない、生粋のフィリピン人女性。浅黒い肌を持ち、小ぶりな顔の中で、少し上を向いた鼻の穴が目につく。

 彼女はマッサージの終わりを告げると、唐突に言った。

「これはどう?」

 彼女は左手の親指と人さし指で輪を作り、右手の人さし指をその輪に出し入れする仕草をした。

「え? ここで?」

 彼女は慌てて唇の前に人差し指を立て、シッと言った。つまり筒抜けだから、大きな声で話すなと言っているのだ。だからこちらも声を潜めた。

「ここでするの?」

 彼女はこくりと頷いた。

「いくら?」

 彼女は、「千でどう? ベイビーのミルクを買わないといけないの」と僕の耳元でささやいた。

 彼女は普段から、そのようなことでお金を稼ぐ女性には見えなかった。特別グラマーでも綺麗でもない、色の黒い普通の女性だ。

 試しに、「いいよ」と言ってみた。

 その返事で、彼女は素早くマッサージの白衣を脱ぎ捨て、ブラを外すため後ろに手を回した。何も躊躇のない様子に、彼女はときどきこんなことをしているのかもしれないと直感し慌てた。彼女がチップ目当てで、適当な嘘を言っているかもしれないと、僕は疑っていたのだ。

「ちょっ、ちょっと待って」

 下着を外そうとする彼女を制した。

「ごめん、今日は時間がなかった。約束があるのを忘れていた」

 明るかった彼女の顔に、突然夕立がやってくるセブの空のように、みるみる暗雲が立ち込める。

「え、でも子供のミルクを買わないといけないの。お願い」

 彼女は眉間に皴を寄せ、両手を合わせてそう言った。下着姿でお願いする彼女の姿は痛々しく、彼女にそんなことをさせている自分は、罪の意識を覚えた。

「ミルク代はチップで払うから」

 僕は財布から千五百ペソを抜いて、彼女に渡した。あくまでもマッサージのチップとして。

 彼女はあげたお金を胸の前で握りしめ、しばし放心のあと、丁寧に腰を折ってお辞儀をした。

 すると今度は、ふと、自分が施しのようなことをしている気がしてきた。その途端、僕は自分の行為を偽善に感じ、奇妙な後ろめたさを覚えることになった。

 僕は急いでその場を離れたくなり、いそいそと着替えた。彼女は慌てるこちらが心配になったのか、僕が店の外に出るまで寄り添い、何度かありがとうと言った。

 外に出てポケットから電話を取り出すと、ノエルが突然目の前に現れた。

「あれ? 待ってたの?」

「さっき来たばかり」

「そう、助かった。中で電話をするつもりだったけど、そうもいかなくなって」

「何かトラブルがあった?」

「いや、トラブルは何もない」

 彼は少し怪訝な顔をしたけれど、それ以上は何も訊いてこなかった。


 バーでもたくさんの苦労話しを聞いたけれど、そんな話しとこうして身近に体験した出来事との間には、他人の噂話と親友の深刻な相談話しのような違いがあった。 

 もちろん僕は、バーの女性の話しを嘘と思っているわけではない。いつも大変だねと言いながら、僕はそれを信じている。ただし僕は、大変だと言いながら、その問題を共有していないのだ。当然、共有すべき理由はない。する必要もないし、共有すればそれはまた別の問題に繋がる。だから僕はそれらを、どこかで受け流していた。でもそれらは実際、重い現実なのだ。

 ただ、その現実の正体とはなんだろうか。それが自分の中で、いつもピントのずれた写真のようにぼやけている。

 確かなことは、世の中の現実は思った以上に苛酷であり、それを目の当たりにしたとき、こちらの気分がとても憂鬱になるということだった。

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