第3話 ラツキーというライブハウス
ジミーに言われたがんばらなければならない次の機会は、初めてリンと会ったほんの三日後に訪れた。昼食後彼女に、今日店に行きたいとメッセージを送ったのだ。彼女からすぐに、待っていると返事をもらえた。
僕はジミーに連絡を取り、前と同じように、リンの店に運んでもらった。その夜、ホテルから店までの十五分間でジミーが語ったのは、「今日は雨は来ないよ」と「今日こそはがんばりな」だけだった。
そのバーの入り口をくぐるのは二度目のせいか、今度はどの女性も寄ってこなかった。バーの女性たちは自分の客の顔だけではなく、誰が誰の客であるかをよく覚えているようだ。
まだ八時と時間が早いせいか、店の中にいた客はアメリカ人が一人だけだった。多くの女性が、暇を持て余すように隅のテーブルでたむろしている。けれど、そこにリンの姿はなかった。フロア案内の女性に尋ねると、しばらくしてリンは、階段下の扉から姿を現した。
その日の彼女は、ノースリーブで丈が短めのワンピース姿だった。全体がベージュの生地で、脇に沿って黒のサイドラインが入っている。それはくびれたウエストラインが強調されて、彼女にとてもよく似合っていた。
僕が見とれていると、彼女が隣に座って言った。
「どうしたの? この服は変?」
「よく似合ってる。ほんとうに」
彼女は微笑んで、ありがとうと言った。
「どうしてあなたは、他の人と服が違うの?」
他の女性は、もっと派手な服を着ている。バーのホステスを強く感じさせる服装だ。
「もっとセクシーな服がいいの?」
「いや、そういう意味じゃない。僕はあなたの服装がとても好きだよ。単に他の女性と雰囲気が違うから、不思議に思っただけ。あなたはこのバーで特別な女性なの?」
「ある意味特別かもしれない。わたしはこのバーで、唯一ダンスをしない女だから。その代わり、日給は他の女性の半分で一日百ペソ(当時二百円)だけなの。それにこの店のオーナーは、服装について細かい注文をつけない」
「一日百ペソ? ダブルでも二百ペソ?」
彼女のサラリーの安さに、驚かずにはいられなかった。バーの女性のサラリーが安いことは知っていたけれど、具体的な金額は初めて知ったのだ。
僕は思い切って、気になっていたことを彼女に尋ねた。心臓の鼓動が少し早まるのを自覚しながら。
「それだけサラリーが安いと、あなたも客の部屋に行ってチップを稼ぐの?」
彼女はその質問に眉根を寄せた渋い顔を作り、それを、僕の肌状態を検分するかのようにこちらに寄せた。
「え? なに?」
たじろぐ僕に、彼女は少し間を置いて、随分ゆっくりとした口調で「ノー」と言った。
「わたしはセクシーな格好をして、客の視線を浴びながらダンスをするのが嫌なの。それでも客とホテルに行くくらいなら、まだダンスをとってサラリーを倍にしてもらうわ」
「そうなんだ」僕は素直に納得した。彼女が誰とでもそのような行為に及ぶことを、僕はどうしても想像できなかったからだ。それは話し方やその内容、服装、化粧を含む、彼女がまとう雰囲気から感じられることだった。
僕が「気分を害した?」と訊くと、彼女は「べつに」と言ったあと、あからさまな作り笑いをこちらに向けた。
「あなたが女を連れて帰りたいなら、誰か紹介するわよ。あなたならきっと、みんな喜んでついていくわ」
彼女は隅のテーブルにたむろする女性たちに一瞬視線を向けて、そう言った。僕は、塗り壁は遠慮するよと言いそうになり、辛うじてその冗談を飲み込む。彼女の言葉に、剣呑とした雰囲気を感じたからだ。
「いや、そんなつもりはない。ところであなた、やっぱり怒ってる?」
彼女は再び、低いトーンで「ノー」と言った。間延びしたその言い方は、彼女の言葉とは裏腹に、何かの恨みがこもっているように聞こえる。
「怒ってないわよ。これはまじめな提案。だってかわいそうでしょう、ここに来る目的がそれなのに、連れて帰れないなんて」
「なるほど。その心配だったら要らない。僕の目的はそれじゃないから」
「だったら目的は何?」
僕は彼女の興味深々な様子にわざともったいをつけ、無言で彼女を数秒見つめてから言った。
「ただの暇つぶし」
彼女は表情を固定したまま、大きな瞳を数回瞬きさせた。彼女は驚いたり分からないことがあると、その仕草をする癖があるようだ。
「どう? 信じる?」
彼女は今度こそ、こちらの本性をじっくり検分するような、湿った視線を僕に向けた。
僕は思わず唾を飲み込む。しばらく無言が続いた後、彼女が言った。
「信じることにする、今のところ」
静粛と緊張の中で判決文の朗読が始まり、無罪という言葉が聞こえたときは、まさにこんな感じなのかもしれない。別に汗が出ていたわけではないけれど、それでも僕は、手の甲で額を拭いたくなった。
「ありがとう。僕もあなたのスタンスはよく分かった。その上での質問だけれど、この店には、客の要求に応じなければならないというルールはないの? 他の店にはあるみたいだけど」
彼女はすぐに答えた。
「それはね、この店のオーナーがそれを許してくれるということなの。だからわたしはここで働ける」
「たとえ一日百ペソでも?」
「ゼロよりましだと思わない?」
「確かにゼロより百がいい。でも百より五百がいいし、五百より千や二千がいい」
「もちろんそうよ。でも実際には百しかもらえない」
ゼロよりは、何かしらの収入があったほうがましなことは確かだ。しかし自分の中に、本当にそうだろうかという漠然とした疑問が残っていた。
仮に自分が収入を必要とし、一日二百円や三百円の仕事があった場合、僕はそれをするだろうか。もちろん単純に比較できないことであり、他に仕事がなく生活が追い詰められていたらあり得るかもしれない。
先日彼女に、『あなたは恵まれている』と言われたことが脳裏をかすめる。恵まれている自分には、考えても分からないことなのだろうか。
「失礼かもしれないけど、あなたにとって百ペソは大きいの?」と訊いてみた。彼女は余裕の態度で「ゼロよりは大きいけど五百よりは小さい」と即答した。
「確かにその通りだ。あなたはいつでも正解を言うんだね」
僕は本当に感心したのだ。正解不正解や正確さは別にして、彼女の受け答えのスマートさに。
「あなたの質問が簡単なだけよ。わたしは天才でも辞書でもなくて、普通の女」
「いや、簡単なことに簡単に応じることは、実は簡単ではないことが多い」
少しジョークの雰囲気をにじませて言ったつもりだったけれど、それを言うときの僕の頭と舌は少し混乱気味だった。それでも彼女は「何よ、それ」と笑ってくれた。
僕はもう一つの気になったことを、彼女に投げてみる。
「もし僕があなたを店から連れ出したいと言ったら、あなたは応じる?」
少し困らせるつもりの問いに、彼女はやっぱり即答した。
「ノーソクソクならね」
彼女はセックスという言葉を、地元の言語でソクソクと言った。バーに出入りする男ならば、外人であってもその言葉が通じることを、彼女は知っているのだ。
「条件付きならいいんだ。もちろんただの暇つぶしにソクソクは要らない」
「誤解しないで。わたしは条件付きかつ信用できそうな人だけ応じるの」
「つまり僕は信用されている」
「それも誤解しないで。わたしは信用できそうな人と言ったの。信用しているとは言っていない」
言葉はきついけれど、その口調はいつでも冷静で穏やかだ。だから僕はついつい、素直にハイと返事をしてしまいそうになる。
「なるほど、あなたは物事の明確化が上手いね。僕の唯一の要望は、行き先をあなたに決めて欲しいということだけだよ」
「セブは初めてなんでしょう? お奨めの場所はいくらでもあるわ」
「よし、決まりだ。店に外へ出ることを話してくれる?」
彼女はそのことを店のオーナーに伝えにいく途中、突然振り返り、店中に聞こえる声で「ノーソクソクよ。オーケー?」と言った。こちらも大声で「オーケー」と返した。
店の隅にたむろする女性たちから、僕はくすくすと笑われた。
ジミーは僕とリンの姿を見て何か言うと思ったけれど、無言だった。
仕方なく、僕のほうから口を開いた。
「今日はどうにか一人連れてきた」
少しは褒めてもらえるかと思ったら、リンは「誤解しないでね」と言い、ジミーは「行き先はホテルかい? ボス」と言った。リンがその言葉に素早く反応し、「ラツキーに行って」と言うと、ジミーはただ頷いて車を発進させた。
僕に入り込む隙を与えない短い会話だったけれど、三人の中で状況と方向性は明確に共有できた。
車は閑散とした見慣れた道を通り、宿泊ホテルの裏手にあたる大きなモールの、更にその裏手の場所に停まった。
立派なエントランスだ。半円状の大きな階段があり、そこに十組くらいの若い男女が、肩を寄せ合って座わり込んでいた。灯台下暗しで、僕は夕食の際いつもその手前まで足を運んでいたけれど、その奥にこんな場所があることを知らなかった。
僕はジミーに「十二時ころ、ここに迎えに来てもらえる? またメッセージを送る」とお願いした。彼は「オーケー、ボス」と言ったきり、相変わらず余計なことを一切言わずに走り去った。
エントランスを抜けたところは、円形のホールになっていた。放射状に三つのレストランが入っている。リンはその一つに向かった。
その入り口で、二人分のエントランスフィーを払った。中でバンドが演奏をしているようだ。
「ここはライブハウス?」チケットを受け取りながら訊くと、リンは「ライブバンドハウス」と言い直す。
店の中は、僕がそれまで入ったライブハウスより、格段に明るく綺麗で広い。テーブルが、ゆうに二百を超えそうだ。その九割程度が客で埋まっている。どうやら結構流行っている店のようだ。
僕が物珍しそうに辺りに視線を走らせる様子は、リンを満足させたようだった。
「どう? 素敵な場所でしょう?」
「うん、悪くない。薄暗い部屋でソクソクするよりずっといい」
それまで何を言っても動揺の色を見せない彼女が、珍しく人目を気にしながら「ボアン」と言った。それはセブの言葉で、「バカ!」という意味だ。
二人はそこで、ピザとフライドチキンを頼んでしばらく過ごした。
彼女はマンゴジュースをオーダーした。そう言えば彼女は、バーでもアルコールを飲まない。僕は周りの雰囲気に合わせて、ビールをゆっくり飲んでいた。
店内は、女性連れの欧米人で賑わっている。彼らのほとんどは恰幅がよく、白髪で五十後半から六十過ぎといったところだ。アロハシャツやTシャツ姿で、ビールとサラダのような軽いつまみを前に歓談している。
奥さんと見られる連れは六~七割が三十代のフィリピーナで、街で見かける人たちよりもずっと身なりがよく落ち着いている。全てが細身で、肌の色は白から黒まで様々だ。
生活が安定していると、まとう雰囲気も違ってくるのだろう。彼女たちは、絶えず口を開いておしゃべりする欧米人パートナーに合わせ、自然な態度で男性との間に心地よい空気を作っている。そんなテーブルは、コーヒーとクリームが混ざり合うようにその場に溶け込み、羨ましいくらい絵になっていた。
ステージのバンドが変わり一曲終わったときに、男性ボーカルがトークを入れた。
彼はステージの上から僕のほうを見て、「今日は珍しく、日本人のお客さんがいる」と言った。そしてマイクを通して「こんばんわー」と日本語で僕に呼び掛けた。こちらもテーブルから「マアヨンガビィ」(セブの言葉でこんばんわ)と返す。本人がのけぞって驚き、客席から笑いが起こった。
「どうして僕が日本語で訊いてあなたがビサヤ(セブの言葉)で答えるの? 僕だって日本語はもっと知ってるよ、あじのもと!」
最後のあじのもとだけが日本語だった。このトークに、ステージ上のバンドメンバーと客席がわいた。
そんな僕の姿を見たリンは、少し驚いたようだった。
「あなたはビサヤが分かるの?」
「知ってるのは挨拶と少しの単語だけだよ。オフィスやホテルのスタッフがいつも教えてくれるから。あなたがさっき言ったボアンも知ってるよ」
「わたし、そんなこと言った?」
「さっき僕がこの場所のことを褒めたときに言った」
彼女は「あー」とかん高い声で笑った。
バンドが乗りのいい演奏を始めると、ステージ前に人が集まった。年配の欧米人も、テーブルの脇に立って踊り出した。
リンをダンスに誘うと、彼女は少し渋りながら、一曲だけ付き合ってくれた。
彼女は店でなくても、あまり踊りたくないようだった。
「ごめんなさい。わたし、感情を表に出すことが苦手なの。ダンスって一種の表現でしょう? 恥ずかしさもあるけど、自分の気分を上手にコントロールすることができないの。だから全然楽しめなくて。暗い性格みたい」と、彼女は申し訳なさそうに言う。
「いいよ、嫌なことは無理に付き合わなくても。だったらもっと静かな店に移ろうか?」
彼女は「静かな場所よりここがいい」と言った。「隣のテーブルの声が聞こえないんだから、こっちの話しも相手に聞こえない。会話はうるさい場所のほうが向いていることも多いのよ」
リンはその場所を気に入っているようだ。だから彼女に、よくここに来るのかと訊いてみた。
「ずっと前に家族と一緒に来たの。今ではわたしの大切な思い出の一つよ。でもそれは、わたしが夢の中で見た世界だったような気がするの」
リンは次の言葉を探すようにそこで言葉を切り、それが上手く見つからなかったのか、そのまま口を結んで再びステージを眺め出した。
僕は知らない土地に、置いてきぼりをくらったような気分になった。僕がだまってリンの顔を見ていると、「わたしは話しを続ける必要がある?」と彼女は言った。
「必要はないけれど、あなたがよければ」
彼女は「別にいいわよ」と言って、ジュースを一口含んだ。
「わたしの家も、以前は少し余裕があったのよ。わたしがハイスクールに通い出すときまでね。まだお父さんが元気で働いていた頃の話し。でもある日お父さんが、体調不良で突然病院に入院したの。診断結果は肺癌だったわ。しかももう手遅れ状態。入院する前の二ヶ月か三ヶ月間、変な咳が続いていたから、もっと早目に病院へ連れて行くべきだったの。悪いことが重なって、しばらくしてわたしもお父さんと同じ病院に入院することになったの。というか、担ぎ込まれたんだけど。わたしも重症で、昏睡状態の中でドクターに、助かる見込みは半々だって言われたらしい。でも私が二日間ベッドの上で昏睡している間にお父さんが死んで、結局わたしは助かった」
自分の話しが、その場の雰囲気を壊すことを恐れるように、彼女は淡々とした口調で語った。
「そこであなたが死んでいたら、僕はあなたに会えなかったわけだ」
「もちろんそうよ。わたしは自分が生きていることが、ときどき不思議になるの。どうしてわたしがまだ存在していて、お父さんが消えたのかって。それって本当に、消えたって感じなの。だってベッドの上で目を覚ましたら、お父さんはもう死んでいたのよ。それってどうなの? 何か酷い仕打ちのようでしょう? それからいろんなことが夢のように消えた。お父さんと一緒に」
僕は返答に窮した。
「確かに、酷い仕打ちのようなものかもしれない」
「それから三日三晩、わたしは泣きっぱなしだったわよ。そしてね、お父さんが自分の命と引き換えに、わたしを助けてくれたんじゃないかと思えて仕方ないの。わたしは今でもそう信じている」
相変わらず僕は困惑しながら、人の生き死にのことは、難しくてよく分からないと言った。
リンは「いいのよ別に。気にしないで」と言い、静かに続けた。
「フィリピンで病気になるということは、とても大変なの。病院代がすごく高いから。お金がなければ、病院は死にそうな人でも受け入れない。門前払いよ。だから貧しい人は、何かあってもドクターに診てもらえずに死んでいく。ここではそれが本当に当たり前なのよ。でもわたしの場合はお母さんが借金をして、わたしとお父さんの入院代を払ってくれた。普通はとても難しい。だから大変だったはずだけれど、お母さんはがんばってくれたわ。そしてそのときの借金が、未だに尾を引いている。だから十分な収入ではないにしても、とにかくわたしは働く必要があるの」
自分はきっと、深刻そうな顔をしていたのだろう。彼女は慌てて付け足した。
「ごめんなさい、暗い話しになってしまって。でも本当に気にしないで。それは巡り合わせであって、帳尻合わせのようなものだから」
一家の稼ぎ手を失い、同時に借金ができたのだから、坂道を転げ落ちるように生活が悪化したことは容易に想像できる。社会保障制度の不備も相まって、フィリピンの一般の人は生活基盤がとても弱い。辛うじて路上生活を免れている人でも、何かあればすぐどん底に転落するという人が、フィリピンには随分いそうだ。
病気、事故、災害などがその何かに該当するのだろうけれど、妊娠、出産も生活を圧迫する要因となる。実際、バーで働く理由として、子供の養育や教育をあげる女性は多い。
「あなたに子供はいないの?」とリンに訊いてみた。
「いないわよ。恋人も旦那もいない。でも兄の子供がたくさんいて、その面倒を見ている。そういえば兄の顔は日本人みたいで、あなたに似ているのよ」
兄の顔の話しが意外だった。
「でもあなたの顔はスペイン系だと思うけど。あなたとお兄さんは似ていないの?」
彼女は「確かにわたしは、兄と全然似ていないわねえ」と少し考えて、「お母さんがどこかで浮気したのかしら」と言って笑った。
彼女はついでに、自分の家族のことを話してくれた。
「兄の子供は六人が女の子で、一番下が唯一の男の子なの。義理の姉は、兄が仕事をしないことに嫌気がさして、家を出て行った。一応愛想を尽かして家出したことになってるけれど、わたしは兄に内緒で連絡を取り合っているの。彼女はマニラで働いて、お金が貯まったら家に戻ると話してる。だって子供はやっぱり可愛いし心配でしょう? でも兄の反省を促すために、それは内緒。秘密もときには必要というのは、こういうことでしょう?」
「そうかもしれない。それにしても大家族だね」
「あら、まだ全部話してないわよ。あとは姉が一人に妹が一人。そして弟が二人いるの」
既に僕は、何人家族なのか分からなくなっていた。僕は改めて指折り数え、「家出した母親を除いても、十三人家族?」と驚いて言った。
「十四人じゃないかしら。お母さんもいるから。わたしもきちんと数えたことがないから、ときどき分からなくなるのよ」
「確かに二人くらい増減しても、気付かないかもしれないね」
「何言ってるの。気付くに決まっているじゃない、みんな大切な家族なんだから」彼女はそう言ってから、「でも確かに、ときどき忘れるわね」と言って、子供っぽく笑った。
「それだけの大家族だと、食べるのが大変だね。弟は働いてるの?」
彼女は少し困った顔付きになった。
「それが問題なの。二人の弟は定職を持ってないのよ。つまり我が家の男は全滅。妹は身体に少し問題があって家で療養してる。姉の旦那がポリスで、今は姉夫婦がみんなを食べさせている感じになってるけれど、彼はそのことをよく思ってないの。まあ当然だけれど。姉と義兄は正式に結婚しているわけでもないし」
「何かとても複雑そうだけれど、フィリピンの家庭はみんなそんな感じなの?」
「似たような環境はどこにでもあるわよ。でも不思議とみんな何とかなっているのよ。きっとそんなものなんじゃないかしら。食べ物のパイは決まってるから、家族が五人ならそれを五人で分け合うし、十人なら十人で分け合うだけの違いなの。十人だからといってパイは簡単に増えるものでもないでしょう?」
彼女は簡単そうに言うけれど、僕は理解できそうで、でもよく分からなかった。
「理屈としては、間違っていないと思う。考え方としても素晴らしいかもしれない。つまり何人子供を作っても、ある程度の収入があれば、どうにかなるってことだ」
「実際どうにかなってるわよ」
彼女は如何にもそれが簡単そうに言う。
「ふむ、どうやってどうにかするの?」
「どうやってるのかしらねえ。普段そんなに難しく考えていないから、よく分からないわ」
話しを聞いているだけで、頭が痛くなりそうだった。
「でも将来のレディが六人もいるのよ。セクシーダンスチームを作ったら、きっと生活が楽になるわ」
僕が「それはバッドジョークだ」と言い、彼女はケラケラと笑った。
ステージで演奏するバンドは三十分くらいで入れ替わり、二人が店に入ってから、既に四つ目のバンドが登場していた。どのバンドも演奏するのは、例えばGuns and Rosesの『Sweet Child of Mine』とか、古いものではDeep Purpleの『Smoke on the Water』だったりEaglesの『Hotel California』のような、誰もが知っている、有名バンドの有名な曲ばかりだ。
そんなステージを眺めては、また取り留めのない話しをした。そして十二時になる前にジミーに連絡し、先ほどのエントランス前に来てもらった。
僕は彼女にタクシー代を渡し、ジミーに彼女を送ってくれるようお願いした。彼ならば、深夜に若い女性を託しても安心だ。
僕はタクシーを見送ってから、歩いてホテルに戻った。モール脇の庭の中に、芝生に囲まれた細い歩道がホテルまで繋がっているのだ。二十メートルくらいの間隔で外灯があり、人が少なくても、身の危険を感じるような場所ではない。それでも一度、暗がりに人の気配を感じて驚いたけれど、若い男女が草むらで抱き合っていた。
僕は気を取り直してまた歩き出す。
歩きながら、バーで知り合った他の女性とリンとの違いに考えを巡らせる。彼女は若くて綺麗で頭もよい。お金で苦労していると言いながら、がつがつとした雰囲気もない。彼女はどこまでが自己責任の範疇なのかを、よくわきまえているような気がする。だから彼女は、客に対して余計なチップを要求する素振りがない。そして全てが自然体だ。
しかし生活のために働いていながら、彼女の実際のサラリーがとても安いのも事実だ。バーで働く大半の女性の目的は、バーのサラリーではなく、客に付き合ったときに貰うチップだ。それが実質的な生活費となる。だからバーの女性は、積極的に自分の身体を売ろうとするのだ。それとリンの態度は大きく異なる。そんなふうに考えてみると、彼女は少し、分かりにくい女性かもしれない。
周囲に虫の音が響いていた。涼しい風が、身体をなでていった。
僕は土の香りと静かな夜を堪能しながら、ゆっくりと時間をかけてホテルに戻った。
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