第2話 ゴーゴーバー

 僕はリンに初めて見たフィリピンの印象を語りながら、実は自分にとって衝撃的だった一つの体験を、その話しの中で意図的に伏せていた。

 それは僕がセブに到着した日、空港に迎えに来てくれた工場マネージャーの篠原さん、そして日本からの出張者直井さんと、一緒に食事をした後に起こった事だった。

 

 ホテルのチェックインを先に済ませ、荷物を部屋に届けるようお願いした後、三人はネイティブフードで有名なレストランに行った。

 レストランの中には、ダークブラウンの木製テーブルと籐を編みこんだ椅子が並び、天井ではいくつもの大きな羽根のついたファンがゆっくり回っていた。店内全体が暖色系の照明に包まれ、大きな魚の入ったいくつかの水槽があり、そこにさりげなくラテン系の音楽が流れている。まさに落ち着いた老舗という感じだった。

 上質な雰囲気に加え、肝心の料理も良かった。海に囲まれている場所柄、シーフードは新鮮だ。それに加えチキンが日本でいう地鶏風で、味と歯ごたえが普通のブロイラーと確実に違う。

「いやあ、料理がなかなか美味いですね。日本のみんなは、フィリピンの料理が不味いと言ってましたよ。俺たちはいつも冷や飯食いだって。話しがぜんぜん違いますね」

「日本人の行くところは、みんなそれなりに美味しいですよ」と篠原さんが怪訝な顔で言う。

「それじゃあ、あれは嘘?」

「地元の人間が利用するローカルレストランは酷いかもしれませんけど、だいたいそんなところ、日本人は行きませんよ。誰がそんなことを言ってました?」

 篠原さんは、不思議そうに眉根を寄せた。そして僕が数名の名前を口にすると、彼は合点がいったようだった。

「ああ、彼らは他の人に、ここの良さを教えたくないんですよ。みんなが嫌がる中、自分たちが進んで泥をかぶってやるという形にして、少しでもここに来たいんだから」

 僕は少し意味を図りかねて、訊きなおした。

「美味しい料理を食べるために?」

 黙って聞いていた直井さんが、ここで口をはさんだ。

「何を言ってるんですか。夜の遊びですよ。夜遊び」

「夜遊び? 何それ?」

 篠原さんも意外だったようで、「ほんとに知らないんですか?」と裏返った声を出す。

 僕が憮然とした調子で「知らない」と言い放つと、二人は目と口をひょっとこのようにして、お互い顔を見合わせた。

「噂でも聞いてない?」と篠原さんが念を押すので、僕は「噂でも」とだめ押しした。

 気のせいかもしれないけれど、篠原さんの顔がそこでわずかににやけ、彼はその顔を直井さんのほうに向けた。

「だったら社会勉強に行きますか」

 篠原さんのそれは僕に訊ねたのではなく、既に決まっていた予定の確認と同意を、あらためて直井さんに取ったというふうだった。

 珍しく直井さんが、はっきり即答した。

「行くしかないでしょう、それは」

 

 レストランから外に出ると、目の前の道路はひどく閑散としていた。

『夜は安易に外を出歩いてはならない。神隠しに遭うから』

 まさに地元の人しか知らない、そんな言い伝えでもあるかのように、人も車も減っていた。あれほど騒がしかった人たちは、一体どこへ消えてしまったのだろう。

 すぐ先に、いくつものネオンがちらちらと見えるけれど、音楽も悲鳴も奇声も、音らしい音は何も聞こえてこない。僕は唐突に、『夜はお静かに』という日本のコンビニ駐車場に掲げられた看板の、言葉と図柄を思い浮かべた。

 僕はネオンの店が、単なる飲食店なのか、若者が集うコーヒーショップなのか、あるいは盛り場なのか、どの類のものか確信を持てずにいた。

 しかしそれがなんであるにせよ、静かな場所でひっそり明滅するネオンは不思議なくらい哀愁を含み、僕の網膜と胸に深く浸透した。


 レストランの駐車場でカンパニーカーが待機していた。フィリピン人ドライバーは、いつ食事が終わるかわからない自分たちを、駐車場でじっと待っていたのだ。篠原さんも直井さんもそれが彼の仕事だと言い、ドライバーにねぎらいの言葉もかけず車に乗り込む。そして当たり前のように、次の行き先をドライバーに告げた。

 篠原さんにドライバーへの気遣いがまったくないことや、まだ彼に車を運転させようとすることに、僕は少し驚いた。二人とも人並み以上に善良な人だけれど、それが気遣いの得意な日本人の態度でなかったことが意外だった。

 

 フィリピン人ドライバーは、僕たちを古びた小屋の前に運んでくれた。建物の前には拳銃を持つガードマンが立ち、彼の頭上にネオン看板が光っている。

 わずかに低音のくぐもった音が外に漏れているけれど、それは、どのような類の音楽か判別できないほど、小さな音だった。辺りに響く虫の音のほうが、よほど大きく聞こえている。薄暗くてよく見えないけれど、どうやら草むらに囲まれているようだ。

 こうした人気も街灯もない場所に古びた小屋のある風情は、妙に怪しげな雰囲気を漂わせている。それはもし一人であれば、身の危険を感じる様相だった。


 入口で、持ち物検査をされた。ガードマンは銃器とカメラをチェックしているようだ。篠原さんと直井さんが慣れた足取りで、先に店の中に入る。彼らのためにガードマンがドアを開けた途端、大音量の激しい音が漏れ出した。古い建物の割に、防音がしっかりしているようだ。

 二人から離れまいと入り口に歩を進めたけれど、僕は既に、二人から大きく出遅れていた。

 ドアのすぐ裏側に、行く手を遮る厚手の黒カーテンがあった。慌ててそれをくぐり抜けた途端、僕は自分の目に飛び込んだ店内の様子に怖気づき、腰が引けて立ち止まってしまった。

 まるで地下組織のアジトのような薄暗い店内には、騒音に近いダンスミュージックが渦巻いていた。音楽に同期するように、フラッシュの混ざったカラフルな照明が、店内をぐるぐる回っている。

 入口から入ってすぐ右手に、ステージがあった。そこに照明が集まっているせいで、ステージはまるで宙に浮いているように見えた。

 その上で、露出度の高いビキニ姿の女性十五人ほどが、腰まで伸びる長い髪を揺らして踊っている。ほとんどが二十歳前後のスレンダーで、彼女たちの身に付ける白のビキニとロングブーツは、全員お揃いだ。ビキニとロングブーツの組み合わせは、何も知らない僕にも、そこが異様な場所だということを感じさせた。

 ステージの前面にバーカウンターがあり、大きな体躯のアメリカ人二人が、その奥側に陣取っていた。

 カウンター席と反対の壁側にステージを見渡せるボックス席があり、一層薄暗い店の奥は、ビリヤード台の置かれた三十畳ほどの広いスペースになっている。

 自分にはまるで場違いの店だ。アルコールが苦手な僕は、普段から盛り場に出入りしないのだ。年に数回の付き合いで、居酒屋とスナックに行くくらいだ。

 僕の足は、入り口から少し入ったところで、完全に止まった。できることなら、その場からすぐに引き返したいというのが本音だった。

 僕が戸惑っている間、篠原さんと直井さんの二人は、ボックス席に自分たちの場所を確保する。そしてすぐに、二人の両隣に女性が一人ずつついた。その一連の流れには、熟練工が妖艶な手さばきで一つの製品を仕上げていくような、軽やかさと正確さが感じられた。

 どうやら二人は、敢えて僕を置き去りにしたようだ。二人は、そのほうが僕が楽しめるはずだと勘違いしているのかもしれない。あるいは僕は、彼らに愛の試練を与えられたのかもしれない。ライオンが、可愛い我が子をあえて崖から突き落とすように。


 入口で茫然とする僕に、片言の日本語を操る年配の太ったママが寄ってきて、僕は彼女に引きずられるようにカウンター席へと誘導された。

 全てが篠原さんの采配のように感じられた。カウンターの中にいたバーテンダー姿の若い女性が、すかさず無言でメニューを滑らせてきた。とりあえず僕は、好きでもないビールを頼んだ。

 最悪の場所に座ったと気付いたのは、そのすぐ後だった。

 何気に顔を上げると、目の前のステージで踊る女性たち全てが、自分を見下ろしていたのだ。しかも僕が顔を上げたせいで、彼女たちは顎をしゃくったりそこにウィンクを織り交ぜたり、とてもあからさまな態度を取る。

 カウンターの隅に座るアメリカ人は、既に冷やかしであることを見切られ相手にされていない。それ以外、その並びにいるのは数えるまでもなく、自分一人だ。ボックス席側は連れの篠原さんと直井さんの二人だけで、既に女性がついている。

 つまり広い店内で、獲物は自分だけのようだ。僕は腹を空かせたライオンの群れに放たれた、インパラの子供のようなものだった。

 女性たちは音楽に合わせて身体を動かしながら、その視線を僕に固定している。ロックオン状態のたくさんの視線が、痛いほど突き刺さった。僕は何度も唾を飲み込み、同時に苦手なビールを口に運んだ。

 ダンスタイムが終了すると、ステージにいた女性たちが一斉に降りてきて、僕を取り囲んだ。何が起こるのか分からず恐々とする僕に向かって、何十本という腕が伸びてくる。まるで珍しい見世物のように背中や肩や顔を触られて、もはや僕は、自分が飲めない酒で酔っているのか別の理由で酔っているのか分からなくなった。

 もうギブアップ寸前というところへ、さっきの太ったママが登場した。

「あなたが一人を選ぶまで、この子たちは離れないわよ」

 たった一人を選ぶだけでこの状況から救われるなら、そのほうがいい。

 仕方なく一人を選んだ。じっくり見定めて選んだ女性ではなかった。差し向けた指の先にたまたまその女性がいた、という感じだ。

 途端にそれまでデレデレとまとわりついていた女性たちが、蜘蛛の子を散らすようにいなくなった。自分の周りに十分な空間が現れ、僕は自分の吸うべき酸素をようやく取り戻した。

 そこに一人残った女性は、ジェニーという二十歳の子だった。赤の頬紅がきつく、さらに唇も艶のある真っ赤な色に染まっている。一見華やかで綺麗そうな子だったけれど、よく見ると鼻が低く、ややバランスを欠く顔立ちの女性だ。

「僕はこういう場所があまり得意じゃない。だから上手く話しができないかもしれない。僕の言うことが分かる?」

 横に座ったジェニーに、あらかじめ伝えた。

 彼女はその第一声を、僕の口に耳を近づけて注意深く聞いた。店内の騒音のせいで、会話がよく聞き取れないのだ。

「オーケー、分かる。問題ない」

 そして彼女から、簡単な質問が矢継ぎ早に飛んでくる。名前は何というか、フィリピンは何回目か、いつフィリピンに来たのか、渡比の目的は、いつ日本に帰るか、日本に奥さんはいるか、フィリピンに恋人はいるか、どこのホテルに泊まっているのか。

 僕はバーで働くための面接を受けているような気分になったけれど、一応それぞれの質問に正直に答えた。

「あなたたちのように、人前で踊るほどダンスは得意じゃない」という余計なことも、僕は付け加えてしまう。彼女はそれらに満足したのか、表情が和らぎ、僕の緊張も幾分ほぐれた。

 しかし、会話のネタはすぐに底を尽いた。僕は少し気まずくなったけれど、焦るほどどうしてよいか分からず、必死で会話のきっかけを探した。あとで思えば、客である僕が白けたムードに焦る必要は全くなかったのだ。

 彼女もまた、僕に何かを話しかけてくる。でも、それを僕が上手く聞き取れない。騒音と彼女のなまりの強い英語が、僕の聞き取りを妨げるのだ。

 僕が彼女の話しを理解できず、「なに?」と訊き返すことを繰り返すと、彼女は判で押すように「なんでもない、気にしないで」と、自らの話しを簡単に打ち切るようになった。

 仕方なく僕も彼女との会話を諦め、ステージの上で踊る女性を、呆けた人のように眺める。

 何とも虚しい時間を過ごしているように思えてきたとき、突然事態が進展した。

「今夜私を、あなたの部屋に連れていってくれない?」

「はあ?」

 彼女は今度、何でもないと言わなかった。

「今夜、私を、あなたの部屋に、連れていって」

 念を押し、区切るようゆっくり繰り返す彼女の言葉を、僕は理解した。本当は初めから、彼女が何を話したのかを僕は理解していた。言葉は理解できたけれど、それが何を意味するのかを理解できないのだ。

「なんであなたは、僕の部屋に行きたいの?」

 彼女はそれには答えず、無言で僕の顔を見つめる。

 僕の背中にネジ回しがついていたら、きっと彼女に「それを少し回してくれないか」と頼んだに違いない。ぜんまいが緩くて、頭が上手く回らないからと。

 もちろん僕は、それなりに懸命に考えた。

 こんな若い女の子が、深夜に初対面の男の部屋に行きたい。僕の何かが珍しいのだろうか。それとも、日本人が泊まるホテルを覗いてみたいということだろうか。

 色々な疑問があった。けれど問題をうまく整理できない僕は、「明日は朝が早いから無理だ」と答えた。

 彼女は真剣な表情で、手を胸の前で合わせ「お願い」と食い下がる。

「分かった。まず、なぜ僕の部屋に行きたいのか、その理由を教えて欲しい」

「連れていって欲しいだけよ」

 上手く会話が噛み合わない。

 そこに百戦錬磨のママが加わり、ジェニーに加勢した。離れていても、二人が何を話しているのか分かるらしい。あるいは、客に気付かれないような、何かの合図があるのかもしれない。『今、押しているところ。助け舟を出して、もう一押しだから』という秘密の合図だ。

 それを疑いたくなるのは、ママがいきなりこう言ったからだ。

「この子は優しい子よ。お店で一番気立てがいいの。それにとってもセクシーでしょう? だから私からもお願い。彼女を連れていって」

 いつの間にか、ママは僕の肩に手を置いていた。それはまるで、嫌だと駄々をこねる子供をなだめるような仕草と口調だった。

 それでも理解できない。理解できるはずがないのだ。僕はゴーゴーバーのシステムを知らないのだから。

 困惑する僕を、ママはしつこく説得した。

 意味不明で気味の悪いところはあるけれど、ママもジェニーも悪い人ではなさそうだ。根負けした僕は、渋々二人のお願いを了解した。

 その途端、ジェニーはスツールから降りて、店の奥へと姿を消した。そして十分後、彼女はTシャツに白のジーンズという普段着に変身して戻ってきた。

 彼女は肩から白い小さなポーチを下げていた。ぴたりとフィットしたジーンズのシルエットが、彼女の身体の半分もありそうな長い足を強調している。

 先ほどから傍観していたと思われる篠原さんと直井さんが、そのタイミングで僕のところへやってきた。

「ええ? 今日、連れて帰るの?」と驚く篠原さんの声に、直井さんが「やりますねえ、今日着いたばかりで。ほんとにセブは初めてですか?」と冷静な口調でかぶせる。

 彼らの反応を変に思ったけれど、上ずっている僕は細かい話しを横に置き、「どうしても連れていけと言うから」と彼らに答えた。

 店の支払いは、篠原さんが全てを立て替えてくれた。ついでに彼は、現地通貨のペソを持っていない僕に、その場でキャッシュを貸してくれる。


 外に出ると、そこには静かでひっそりとした夜の空間が、店に入る前と何一つ変わらずにあった。

 僕には店のたった一枚のドアが、まるで真逆の二つの世界を結ぶ、秘密の扉のように思えた。扉の外側には人間の世界があり、内側には恐ろしい妖怪の世界があるというふうに。

 ようやく人間の世界に戻ってこれた僕は、久しぶりに、身体と精神の強張りから開放された気分だった。

 時間は既に二十三時になろうとしていたけれど、相変わらずカンパニーカーは店の外で待っていた。ドライバーは、女性が一人増えたことを気にも留めず、車を発進させる。そして宿泊ホテルに到着後、車は何事もなかったように、篠原さんと直井さんを乗せて走り去った。


 ホテルに到着しいざ部屋に入るとなれば、僕はジェニーが何かを言うのではないかと思っていた。

 例えば『やっぱり今日はよすわ』と突然怖気ずくとか、『変なことはしないでね』と念を押すとか、『ちょっとだけ部屋を見せてもらったら帰るわね』と予定を伝えるとか。

 でも彼女は、一言も言葉を発せず僕についてくる。僕はそのことが、ますます不可解だった。でも彼女の行動には、何かしら理由があるはずなのだ。

 エレベータの中で見る彼女は、その辺にいる普通の女の子とたいして変わりない。アクセサリーは安っぽいネックレスが一つで、髪と顔の隙間に見える小さな耳や細い腕と指には、何一つ飾るものがついていない。

 狭いエレベータの中に、彼女の放つ、石鹸のような清潔感のある香りが漂う。

 やや濃い目のファンデーションと、天井の照明が映りこむほど光沢のある真っ赤な口紅が、唯一彼女が夜の蝶であることを感じさせるものだった。

 会話のないエレベータの中は、酸素が欠乏しているかのように息苦しい。もしそこに水面というものがあれば、僕はそこから顔を出して息をしたいくらいだった。

 相変わらず彼女は無言で、僕も話すことは何もない。僕は緊張に似た暑苦しさを感じていたけれど、そこで『いやあ、暑いね』と言うわけにもいかなかった。


 僕が部屋のドアを開けると、彼女は躊躇せずに中に入り、まだ整っている大きなベッドの端に腰掛けた。僕は真っ先に、チェックインの際にフロントへ預けた荷物が部屋に届いていることを確認した。

 窓際に、窓を背にして天板がガラス製のビジネスデスクが置かれ、その上には黒いペンのささったペンスタンドに便箋と、フレキシブルアームの先に細長いLEDライトの付いた、近未来的デザインの小ぶりなスタンドが乗っている。大きな窓のもう片端辺りに、ベージュの革を張ったボリュームのある二人掛けソファーがあり、それとは別に、同色の一人用リクライニングソファーも、部屋の奥側に備え付けてあった。床はふわりとした絨毯敷で、大型テレビの横に、要望通りコーヒーメーカーが届けられている。ソファーの前にガラス製の丸テーブルがあり、その上にフルーツの入った籠と、白いクロスで包まれたナイフとフォークの乗る皿があった。一見して、落ち着いた申し分のない部屋だ。

 彼女はそんな部屋をぐるりと見回して、ポーチから取り出した携帯でどこかに短い電話をかけた。地元の言葉を使っているから、彼女の会話の内容は当たりもつけられない。後で分かったのだけれど、彼女はこの電話で、店にホテル名や部屋番号を連絡していたのだ。それは彼女たちの、一種のセキュリティのようだった。

「何か飲む?」

 僕はその部屋に何があるか調べもせず、とりあえず儀礼的にそう訊いてみた。

 彼女は遠慮のない調子で、短く「みず」と答えた。

「みずね、みず、みず」部屋の中を見渡すと、サービスのミネラルウォーターが二本、ミニバーの前に並んでいる。その一つを彼女に手渡してから、僕も椅子の背もたれを抱え込む姿勢で、彼女のほうを向いて座った。

「さて、と。それで、これからどうするの?」

「先にあなたがシャワーをする」

 意表をつくその言葉で、僕の周囲の空間が一瞬いびつに捻れる。 

「シャワー? 僕が先に?」

 彼女は、今度は僕を怪訝そうに見ながら言った。

「そう、先に」

「先に」と、僕もその言葉をオウム返しで繰り返す。そして二人の会話に少しだけ間があく。僕は必死に、歪んだ空間の修復に努めていた。

「先に、ということは、次にあなたもシャワーをする?」

「そう、わたしもシャワーをする」

 なるほど、彼女は僕とベッドインしようと言っているようだ。しかし、その理由が分からない。

 裸でベッドの上に二人が並んだ直後、『俺の女になにしてんのじゃあ』と叫ぶやからが登場するかもしれない。あるいは僕がシャワーを浴びている間、彼女が貴重品を持ち逃げしてしまうかもしれない。

 彼女は、苛立ちを隠さない強めの口調で、僕を催促した。

「あなたが先よ。シャワーして」 

 彼女はシャワールームに人さし指を向けている。僕は観念して、シャワールームに入った。財布がズボンのポケットに入っていることを確認しながら。


 シャワーを終えて部屋に戻ると、彼女が部屋から姿を消しているかもしれないという予想が裏切られた。彼女はさっきとまるで同じ場所で、ベッドに腰掛けている。部屋の中を歩き回った様子もない。僕は自分の予想を一つ一つ外され、次の答えや予測を探してさ迷った。

 そんな僕に構わず、彼女は宣言通り、無言でシャワールームに入った。

 深夜の部屋に、お湯の出る音が漏れてくる。彼女は本当にシャワーを浴びているのだ。

 とても不思議な出来事だった。さっき出会ったばかりの国籍の違う男女が、ホテルの部屋で交互にシャワーを浴びるというのは。

 彼女がシャワーを使う間、僕は何も手に付かなかった。彼女が出てきたときに、物欲しそうに彼女を待つ格好はばつが悪いと思いながら。

 彼女が部屋に戻ると、似合っていた白のジーンズはシャワールームに置き去りにされ、Tシャツの下に、彼女のすらりと伸びた素足が顕になっていた。

 僕がそのことにあっけに取られている間、彼女は無言でベッドの中に潜り込んだ。

「あなたはここで寝るの?」

 彼女は首から上を掛け布団から出して、そんなことはことさら特別なことではないのよと言いたげに、「そうよ」と答える。

「それで僕は、あなたの隣に寝る?」

「そう、あなたはわたしと一緒にここで寝る」

「どうして?」

「灯りを消して」

 肝心なところを、いつも彼女は答えてくれない。

 彼女は自分の隣のスペースに手を置いて、「ここに来て」と僕を促した。

 僕は言われた通り、彼女の隣に身体を滑り込ませる。部屋の灯りも消した。会話はちぐはぐでも、物事だけはしっかり進んでいく。それが男女の関係の、古くからの慣わしであるかのように。

 でも僕は、彼女に背を向けた。そうやって僕は、彼女の様子を背中で探るつもりだった。そのまま彼女が寝てしまうなら、それはそれでよかったのだ。

 でも彼女は、か細い声で僕の背中にささやいた。

「あなたはわたしのこと、きらいなの?」

 そんなことを言われても、僕は好きとも嫌いとも言いようがない。

 僕が答えに躊躇していると、彼女の手が僕の頬に触れた。そして顔の向きを変えられ、キスをされた。そのあとは抱き合っていろいろあって、結局することをした。

 そこに至るまで、僕の考えや予想はことごとく外れたけれど、最後は不思議と、やっぱりそうだったのかと思った。僕はこの顛末を、どこかで予想していたのだ。

 でも一つだけ、気になることがあった。最初のキスが積極的だった彼女の様子は、そのあと終始受身で、事が終わるのをじっと待つかのようだった。もっとあからさまに言えば、彼女は僕が終わるまで、我慢していたという感じだ。僕はそのことで、とても後味が悪かった。

 ジェニーは再びシャワールームに入る。勢いよく出る水の音を聞きながら、僕は彼女が、身体についた汚いものを必死に洗い流しているように思えて仕方なかった。

 

 ジェニーが部屋に戻ったとき、彼女はあのよく似合うジーンズをはいていた。

「泊まっていかないの? ここで寝てもいいよ」

 僕は先ほどの後味の悪さが気になり、このまま彼女を帰したくない気分だった。でもそれは簡単に却下され、僕の気持ちは沈んだ。

「店に戻らないといけないの」

「店に?」

「そう、それがルールよ。ロングにすれば朝までいられるけど」

「ロング? 何それ?」

「ショートステイとロングステイがある。今日はショートステイでしょう?」

 そこまで言われても、僕はこのとき、彼女が何の話しをしているのかさっぱり理解できなかった。

「あなたにお金を払わないといけない?」

「そうよ」

 その短い言葉には、地球上に毎日昼と夜が交代で来るのと同じくらい、当たり前だという響きがあった。

「いくら渡せばいい?」

「あなた次第」

 再び僕の周囲の空間が歪む。

「いくら渡すべきか、本当に分からないんだ」

 それでも彼女は、具体的な金額を口にしない。ただ僕の顔を、じっと見ているだけだ。

 これは一種の駆け引きなのだろうか。

 僕はとりあえず、財布から五百ペソを二枚取り出し、彼女の前に恐る恐る差し出した。同時に僕は、それが日本円でいくらになるのだろうと考える。

 彼女は無言で、そのお金を見下ろしながら手を出さない。つまり、それでは少ないということらしい。あなた次第と言いながら、最低限の希望金額があるようだ。

 僕は五百ペソをもう二枚財布から取り出して、先に出したお札にゆっくり重ねた。まるでポーカーゲームをしているように。

 彼女の前に置かれたお金は、これで二千ペソ。

 お互いお札を目の前にし、沈黙が続く。それが長引くと、こちらが根負けしそうだ。何も知らない僕のほうが、どう考えても不利なのだ。しかし彼女は、もうこれ以上、僕の財布からお金は出てこないと読んだのかもしれない。

「オーケー」

 静けさを蹴飛ばすように彼女はそう言い、ようやくお金を受け取った。そしてお金を受け取れば、僕はもう用済みのようだった。

 ジェニーは下着だけを纏った僕に、簡潔に「ありがとう、バイバイ」と言い、すっと立ち上りドアのほうに歩き出した。

 僕も翌日は仕事がある。早く寝たいし、彼女と対峙するのはけっこう疲れる。

 それでも何か、心の中にわだかまりがあった。

「ちょっと待って」

 帰ろうとするジェニーを、僕は勇気を出して呼び止めた。

「もう少しだけ、僕の話しに付き合ってくれない?」

 ドアの前で振り返ったジェニーは、冷めた視線をこちらに向けながら、どうすべきか思案しているようだった。彼女も早く帰って、リラックスしたいのだ。

 おそらく彼女はドアを開けて、だまって部屋を出ていくだろう。彼女がすぐに帰りたいなら、もちろん自分も引き止めるつもりはない。

 しかし、大方僕の予想は裏切られる。ジェニーはドアの前から部屋の中へときびすを返し、再び僕の前に座った。

「ごめん、もう少し教えて欲しい」と僕は言った。

「何を?」

「あなたのしたことを」

「何のこと?」

 今しがた身体を合わせた仲なのに、その余韻を微塵も感じさせない冷めた口調だった。

 彼女はもともと、喜怒哀楽の表情に乏しい。一度も楽しそうに笑わないし、愛想笑いさえしない。怒っているわけではなさそうだけれど、いつも口をへの字に結んでいる。今もまるで、つまらない話しだったらさっさと帰るわよと言いたげだ。

「あなたがここに来て、僕と寝たこと。僕は今日、あなたに何も嘘は言っていない。今日初めてフィリピンに来て、あなたの店に行った。あんな店に行ったのは、本当に初めてなんだ」

「分かるわよ、あなたを見ていればそんなこと」

「僕は驚いたんだよ」

「何を?」

「その、あなたがお金のためにここに来たことを。それはあなたの仕事なの?」

「そうよ。これがわたしの仕事」

 売春という商売があることはもちろん知っていたけれど、実際にそれをしている女性と、僕は初めて関わったことになる。そんなものはそれまでずっと自分と遠い世界の話しだと思っていたから、その事実は衝撃的だった。

「店はそのことを、知ってるの?」

 ジェニーの顔に、うっすらと冷ややかな笑みが浮かんだ。

「あなた、本当に何も知らないのね。あなたの友だちは、わたしがここに来るために、店にお金を払ったのよ。店はただで女をホテルに寄こさないわ」

 彼女の行為が店のビジネスだということに、僕は随分驚いた。篠原さんもお金を払っていながら、一言もそのことを話してくれなかった。

「ということは、これはお店のビジネス?」

「そうよ。店はバーファインを取って、女は客からお金をもらうの。これが私の取り分」

 彼女はさっきお金をしまったポーチを、少し持ち上げた。

「バーファイン?」

「あなたの友だちが、店に払ったお金のこと」

「つまり、あなたがホテルの部屋で仕事をして、店が儲かる」

「店だけじゃない。わたしもお金を得る」

 確かにそうかもしれないけれど、何か割り切れない。そんな酷い仕事を若い彼女にやらせ、店の経営者が潤うというのは。

「でも、あなたが実際の仕事をする。どうせするなら、店とは別に、個人でやればいいじゃない」

 自分で言ったことにも関わらず、僕は自分の言葉に違和感を覚えた。僕は自分が本当に言いたいことを、見失ってしまったのだ。

 彼女は、自分の人さし指で咽をかっ切る仕草をしながら、「店で知った客とそれをしたら、わたしはすぐにクビよ」と言った。

「店を通してその仕事をする必要があるの?」

「店がなかったら、わたしはどうやって客を見つけるの?」

 僕はその問いに答えを見つけられなかった。その代わり、ふと感じたまま僕は、「なんか不公平だよね」とつぶやいた。 

「不公平? そんなことを言っていたら、仕事なんかないわよ」

 彼女の口調は、世間を知らない僕に対する、侮蔑の感情か反感を含んでいたかもしれない。少し気に障ったのだろうか。

「どうしてそんな仕事をするの? バーで働くだけじゃだめなの?」

 彼女は僕をじっと見て、すぐに答えてくれない。

 僕は思わず『そんな仕事』と、彼女のしていることを見下す表現を使っていたことに気付いた。

「ごめん、悪いことを言ったかな」

「別にいいわよ。人に自慢できる仕事じゃないくらい、わたしにも分かってる。でもお店だけじゃ、給料が安すぎて生きていけない。それにバーで働くということは、客と一緒にホテルに行くということなの。この世界は、それがメインの仕事よ」

「でも、それじゃあ店は酷すぎる」

「そんなこと、私には関係ない。ここではそれが普通なの。客だってそれが普通だと思ってる。だからそれを目的で店に来る」

「じゃあ僕は、ここでは普通じゃない?」

「分からないけど、多分あなたは普通の人よ。店の女は本当は、そんな普通の人が好き。でもお金にならない客は困る」

「それじゃあ僕は困る客?」

「困らないわよ。あなたは私を指名してくれた。こうしてお金を払ってくれた。だから困らない。助かったわよ、こうして外に出られないと、本当に困るから」

「でもベッドの上で、あなたは嫌だった」

「好きとか嫌なんて気にしていたら、仕事なんてできないわよ。生きていけないと困るから、とても助かった。それだけ」

 生活のために身体を売る。そのことは、ここでは特別なことではないように彼女は言う。僕にはとても、衝撃的な事実だったのに。

 やはり僕は、ここでは普通の人ではないのかもしれない。ここの世界は、僕が思う以上に複雑そうだ。

「分かった、ありがとう。引き止めて悪かった。追加のチップはこれでいい?」

 僕は五百ペソ札を一枚彼女に差し出した。彼女は遠慮せずに、僕の手からそれを受け取る。

「ありがとう。次はいつ店に来る?」

「さあ、分からない。一人で行けるかどうかも分からないし」

「分かった、待ってるわ。おやすみ」

 彼女はさっさと廊下へ出ていった。

 僕は、フィリピンに滞在するなら避けて通れない、洗礼を受けたような気になった。

 部屋に一人取り残されると、頭と胸に金属の塊を詰め込まれたような重苦しさから、僕はすぐに寝付けなくなった。

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