海の向こう

秋野大地

貧富と盛り場

第1話 塗り壁と宝石

 夕食を済ませホテルの部屋でぼんやりしていると、自分の中に居座る放浪癖がくすぶり始める。

 気が付いたら僕は、ホテル前でタクシーをつかまえ、「マンゴアベニュー」と行き先を告げていた。

 ドライバーは顎から頬にかけて、白髪の混ざる無精髭を生やした浅黒い中年だった。横目でこちらを見るときに、妙に白目の目立つのが、不気味な人だった。

 彼は頷くだけで無口だったけれど、フィリピンでは、無意味に調子よくしゃべる人より、無愛想な人ほど信用できる。

 タクシーの中には、Whitney Houstonの『Heartbreak Hotel』が流れていた。少し前に流行った曲だった。

 車内は寒いくらいエアコンが効いている。音楽の音量もそれなりに大きい。車両は至るところに錆びが浮いて、シートカバーも穴だらけだったけれど、フィリピンタクシーの三大サービス、寒い(効きすぎるエアコン)、大きい(うるさいくらいの音楽)、速い(怖いほど乱暴な運転)のうち二つは完璧だ。どのタクシーをつかまえても、それはいつでも不思議なくらい、完璧なのだ。でもそのドライバーの運転は静かで、速度もそれほど上がらなかった。

 カーステレオからBritney Spearsの『Baby One More Time』が流れだした頃に、稲光が周囲を一瞬明るくした。

「雨が降るかな?」僕はドライバーに尋ねた。

「ふむ、おそらく」

「激しい雨?」

「ここは激しい雨しかないよ、ボス」

 彼は自分の運転と同じで、静かに、必要最低限のことしか答えない。

 マンゴアベニューに入った辺りで、フロントガラスに雨粒が落ち出した。

 異国の夜の街がひっそりと横たわり、自分を取り囲んでいる。加えて見知らぬタクシードライバーとぼろい車。そして本格的に始まろうとする雨。何かが起こりそうな不気味さが、僅かに緊張感を誘う。

「ほらね、降り出した」ドライバーがぼそりと言った。

 土砂降りになる前に行き先を決める必要があると思った。

 車の窓ガラス越しに周囲を見渡すと、たまたま道路脇に、鉄柱で支えられた一つの看板が目に留まる。フィリピン上陸初日、食事を終えたときに見えたネオン看板の一つだ。

「あの看板は何?」

「あれはバーだよ」

 薄暗い車内に彼の浅黒い肌が溶け込み、白目の左右に動く様子が、バックミラー越しに際立つ。

「有名なバー?」

「有名かどうかは分からない。俺たちには縁のない場所だから」

 確かにその通りだ。バーに連れていってくれるドライバーはいくらでもいるけれど、バーで遊んでいるドライバーは見たことがない。既に車は、看板の場所を通り過ぎていた。

「悪いけど、あの看板のところに戻ってくれるかな」

「ノープロブレム、ボス」

 彼はじっくり周囲を確認し、車をユーターンさせた。

 ネオン看板の下に車が停まると、店は道路から奥まったところに見えた。看板と店の間は、バスケットコート二面分はありそうな、アスファルト敷きの広いスペースとなっている。店の前に、ショットガンを持つガードマンが立っていた。

 車を店の前につけてもらい、チップと料金を支払ったあと、信用できそうなそのドライバーと電話番号を交換した。彼はそのとき、自分をジミーと名乗った。


 ガードマンのチェックを受けて店に入ると、そこはこれまで行ったことのあるバーと、随分雰囲気が異なっていた。

 店の中が明るく、カウンター席が長方形のステージを囲むように、店のフロアの真ん中に居座っているのだ。だから客は、ステージのある内側を向いて、四辺のいずれか一辺に座ることになる。バーカウンターは長辺が十席、短辺がその半分といったところだろうか。それだけでも十分な広さがある。

 ステージがあるということは、きっとそこはゴーゴーバーだろうけれど、その上で踊っている女性は一人もいない。だからそれは、気の抜けた大きなビリヤード台を客で囲むようなものだった。

 それでもそれは、斬新なデザインと言えた。店もまだ新しく清潔だ。もし店内が薄暗くステージに照明が集まっていれば、それはクラブのお立ち台のようになり、とても先鋭的な配置と言えそうだ。もちろん脇の部屋にはテーブル席もあったけれど、そこは何かの抜け殻みたいにがらんとしていた。

 フロア案内の女性に促されて、入り口側のカウンター席に座ると、すぐに十人ほどの女性が寄ってきた。

 集まった女性の様子も、他のバーとは大きく異なっていた。僕を取り囲んだ女性は、全て年齢が高めだったし、化粧だってそのうちひびが入って剥がれ落ちるのではないかと心配になるくらい、みんな塗り壁のようだった。

 僕は少し前にフィリピン工場駐在の日本人と笑い合った、ある話題を思い出した。

「お化け屋敷のようなところも結構あるんですけど、長くここにいると、それがいいって言う人が必ず出てくるんですよ」

 僕は何となく理由の想像がついたけれど、「なぜですか?」と訊いてみた。

「つまりですね、体型の崩れた年増で顔立ちもパッとしない女性が、その世界で生き残るためには、何が必要かってことなんです」

「それはつまり、サービスですか?」

「まあ、色々な要素があると思うんですけどね、バーで横についてもらって、楽しいというんですよ。話しが面白いとか、アクションが珍しいとかね」

「なるほど。それは僕も感じることがありますね。そうでないと、その世界で生き残れない」

「でね、大体は一度そっちの世界に嵌って、直にまた若くて綺麗な女の子のいる世界に戻ってくるんですけど、たまに戻ってこない人がいるんです」

 まるで人さらいに遭って消えた人を、不思議がるような口ぶりだった。

 僕はそこで、妖怪に囚われの身になった人間のことを想像した。

「それは、自分の意志や希望で戻ってこないんですか? それとも、戻りたくても戻ってこれなくなってしまうんですか?」

「さあ、その辺の事情は、きっと色々あるんでしょうけどねえ」

 確かに色々あるのだろう。実際、自分には理解できないことが、フィリピンにはとても多いのだ。


 自分を取り囲んだ女性たちをぐるりと見回した。それにしても、見事なお化け屋敷があったものだ。ここはきっと、楽しくてしょうがない店かもしれない。その証拠に、みんなやかましい。それぞれが一斉に自己アピールするから、誰が何を言っているのかさっぱり聞き取れない。

 この中から一人を選ぶことは、落ちるならどの谷底が浅いかを見極める、きわどい選択になりそうだと思ったときに、僕はふと、一つだけひっそり輝く宝石に気付いた。我も我もと身を乗り出す女性たちに隠れ、最初は全く目立たなかったけれど、彼女はまるで意表をつくように、無言で自分をじっと見ていたのだ。

 僕はそのとき、これほど美しい瞳は見たことがないと思ったほど、驚いた。

 それは、何かの主張のようであった。私を選んでと訴える媚びた目ではなく、自分がそこにいることのみを主張する瞳だ。彼女はきりりと口を結び、どちらかといえば僕を、睨みつけているようでもあったのだ。

 僕は彼女に、あなたはどうしてここにいるの? と訊きたくなった。彼女が、僕のオーダーを取りにきたウエイトレスにも思えたからだ。

 彼女の服装は、他の女性の煌びやかで派手なものと違い、肩の露になった真っ白なニットのオフショルトップスに、落ち着いた濃い色のミニスカートを合わせたものだった。スカートの下からは、男好きする素足が伸び、均整の取れた身体付きをしている。

 彼女は、けばけばしい化粧もしていなかった。客の連れてきた女性が、何かの手違いでそこに紛れ込んでしまったかのように、彼女は僕の判断を混乱させるくらい、中間的な存在だった。

 彼女に「Have a seat please」と、隣に座るように勧めてみた。

 その言葉を引き金に、騒がしい女性たちが、舞台照明を落とされた役者のように控え場へ戻り、綺麗な目を持つ彼女だけがそこに残った。つまり彼女は、本当にそのバーの女性だったのだ。

「はじめまして。リンです」彼女は自分の小さな手を、こちらに差し出した。

 僕は意外性の奥深さに戸惑いながら、差し出された彼女の手をとった。


 彼女は自分を二十三歳だと言った。外見は申告年齢相応か、それより若く見えもしたけれど、僕の横に座った彼女からは、もう少し落ち着いた雰囲気が感じられた。彼女はカウンターの上に置いた左右の指を絡め、余計な言葉を口にせず、じっと僕を見ていたからだ。細い指には一つも指輪がなかったし、短く整えられた爪は、健康的な素の色のままだ。

 印象的なやや厚めの唇には、薄いピンクのルージュが引かれている。眉間からこめかみにかけて伸びる眉毛は緩やかな逆八の字で、ブルックシールズを思わせる冷ややかな鋭さを感じさせた。それは細いながらもきりりとした男性的な印象を放ち、美しく深い輝きを持つ彼女の瞳に、力強さを添えているようだった。

 僕は簡単に自己紹介をし、仕事で初めてフィリピンに来ていることを彼女に告げた。

「あなたは日本人でしょう?」

 これが彼女の最初の質問だった。

「そうだけど、どうしてそう思うの?」

 彼女は自分の二つの指で両目を吊り上げ「これがK国人」、次に横に引っ張り「これがC国人」、そして最後にたれ下げて「これが日本人」と言った。

「なるほど、よく分かる」

「ここの女は初めてのお客を、そうやって判断するの。あなたはラッキーよ」

 僕は意味を飲み込めず、どうして? と彼女に訊いた。

「日本人にはみんなが寄っていくの。さっきたくさんの女に囲まれたでしょう?」

「それは囲む女性にもよると思う。さっきは少し怖かった。ある意味アンラッキーと言えるかもしれない」

 彼女は笑って、それはバッドジョークだと言った。

「もしお客が日本人じゃなかったら?」と僕は訊いてみる。

「それは女とそのときの状況次第。近づきたくなくても、生活が苦しいときは寄っていくし、お腹が一杯のときには避けることもある」

 僕はさっき彼女がしたように、自分の目を指で吊り上げて訊いてみた。

「もし僕がK国人だったら、あなたは?」

「K国人には悪いけど、わたしは近寄らない」

「つまりあなたは今、お腹が空いていない」

「違うわよ。わたしはいつだってお腹を空かせてるわ。でもK国人は怖いの。彼らはときどき強引だから」

「でもK国人は、若くてかっこいい人が多い。僕もたくさん見ているし、他の店の女の子もそう言ってる」

「それは女次第よ」

「なるほど。それじゃあ、なぜ日本人にはみんな寄っていくの?」

「それは簡単。お金を持っていて、お金払いもよくて優しいから」

 C国人についてはどうかと訊いてみた。

「できるだけ少ないお金で、できるだけたくさん楽しみたい人たち。彼らは支払いに対して、常に効率を求めるの」

「なるほど面白い。そんなトレンドがあるんだ」

「もちろん傾向であって全部じゃないわ」

「分かってる。けれどC国人が来たら、あなたは今度、C国人を褒める。あなたたちほど効率よく遊ぶことのできる人種は、世界中を見渡しても他にいないって」

 彼女は皮肉を含んだ僕の問いに、抑揚をつけた低い声でノーと言った。

「それじゃあ、客の気分が悪くなるじゃない。でもそれも女次第。わたしの考えは誰が相手でも変わらない。もちろん直接本人に悪いことは言わないけれど」

「そしてあなたは、できるだけ嫌な相手を避ける」

「そう、避ける。わたしはできるだけリスクを取らないの」

 なぜかと訊ねると、彼女はこう言った。

「わたしには、わたしの大切にしているものがあるからよ」

「なるほど、大切なもの」

 僕はリスクと大切なものの関係について考えてみた。

 壁には、アメリカナイズされた赤と青のネオンサインが掛かっている。それをじっと見ていると、自分がアメリカのバーに迷い込んだ気分になった。店内に流れている曲もアメリカの曲だ。こちらは客に干渉しないから、どうぞ勝手に楽しんでくれと言いたげな開放的雰囲気も、アメリカのバーによく似ている。

「つまり、大切なものを失うリスクがあれば、あなたはそれに近寄らない」

 彼女は軽く微笑んで「そうよ」と肯定した。

「あなたのその大切なものって何かな?」

 彼女はゆったりと優雅な動作で、オレンジジュースを一口飲んだ。

「それは、あなたと知り合ったばかりだから教えられない。でも、秘密って意味ではないの。わたしが言葉でそれを言っても、あなたにはよく伝わらないってこと。それはわたしの価値観そのものだから」

 僕もビールに口をつけながら考えた。彼女の言うことが、最終的に何を意味するのかについて。

「ということは、僕がそれを知りたければ、僕はあなたをよく知らなければならない?」

「そうかもしれない」

「つまり僕は、この場所に何度か通って、あなたと話しをする」

「そう、あなたがここに来れば、わたしに会って話しができるかもしれない」

「かもしれない? 必ず会えるわけではない?」

 彼女は「必ずではない」と、念を押すように言った。

「つまりあなたは、いつでもここにいるわけじゃない」

「少し違う。基本的にわたしはいつでもここにいるけれど、いつまでもここにいるわけじゃない。それはわたしにも分からないの」

 今度僕は、彼女がここにいられなくなる理由について考えてみた。

 首になる、もっと高給の店に移る、いい男をつかまえて仕事を辞める、宝くじが当たる、遺産が手に入る、医者から余命を宣告されている……。

 最後に思いついた理由を口にしてみた。

「もしかして、あなたが逃げ回っている男にこの場所を突き止められたら、店を変える?」

「そうかもね」彼女はにこりと笑った。

 僕は明らかにはぐらかされた。いや、彼女は本当に、答えを持っていないのかもしれない。

 でもこの会話は嫌いじゃない。彼女の会話に対する態度は、とても真摯だ。

 彼女は僕の話しを聞くときに、いつでも美しい瞳をまっすぐこちらに向けてくる。それは、彼女が僕に話しかけるときも同様だった。僕はときどき、精巧な作り物のように、美しい弧を描いてせり出す彼女のまつ毛に見とれてしまった。


 彼女は、日本という国に興味があると言った。

「わたしは日本に行ったことがないけれど、日本に仕事で行った女性から色々なことを聞くの。例えば日本は、街がとても綺麗で便利で安全で、たくさんの美味しいレストランがあって道路がすごくよくて、男性もみんなお金持ちで優しいって。みんな何かを読んでいるように、同じことを言うの。それって本当なの?」

「それは、日本の観光ガイドに書かれている内容だよ」

 彼女はかん高い声で笑い、真面目に訊いているのよと言った。

「本当に、そんなことが書かれている本を見たんだよ、フィリピンで。それが観光ガイドになるのかは疑わしいけれど、面白いことは確かだ」

「それじゃあ、やっぱり本当なの?」

「ふうむ、どう答えればいいのか、それは難しい」

「イエスかノーでいいのよ」

 この場合、もちろん僕は日本人としてイエスと言いたいけれど、それでは答えとして不完全だ。バーでの会話に完全を求める必要はなくても、僕は少しまじめに考えた。

「分かった、正直に言う。僕はフィリピンを見るまで、日本を普通の国だと思っていた。特別綺麗とも安全とも思っていなかった。でもここを見たら、日本は綺麗だし安全だと思うようになった。道路だっていいよ。動いている車の中で、カップラーメンを食べることができる。つまりそれだけ道路がフラットだ。ここは動く車の中で、コーヒーを飲むのも大変だ。もちろんフィリピン人を見たら、日本人がお金持ちに見えることも納得できる。バーでどこかの国の人が暴れているのを見れば、日本人はとても紳士だと思う」

「やっぱりそうなんだ」

「もちろん傾向として」と僕は付け加えた。彼女も「それは分かる。全部じゃない」と相槌を打つ。

「だから僕はここに来た当初、日本人というのは幸せなんだと思った。仕事はあるし、バーで遊ぶお金も持っている。会社にしがみついていれば、それほど困ることはない。会社の金で、世界中を見て回ることもできる。でもね、それはフィリピンとの比較でそう感じるようになっただけで、僕はここを見るまで、それほど強くそれを感じていなかった」

 僕は自分でそう言いながら、一体自分は何を言いたいのかに釈然としないものを感じ、そこで言葉を切った。

 彼女は不思議そうに首を傾げて「それで?」と訊いてきた。

「つまり、何というか、日本人は幸せだけれど、実はそれほどでもないのかもしれない。日本人として日本で働いて暮らしていると、とても疲れることがあるから。あなたがこの話しを理解するのは、難しいかもしれない」

 彼女は僕の言葉の裏まで読み取るように、その話しにじっと耳を傾けていた。そして小さな子供を諭すように、優しく静かに言った。

「そんなふうに考えることができるあなたは、十分恵まれているのよ」

 僕は当時、日本人の働き方は少しおかしいと思っていた。神経をすり減らし、プライベートな時間を随分犠牲にして働くことは、楽ではないのだ。人生を無駄に消耗している感さえあった。

 それでも僕は、彼女の意見に対して、それは違うと言えなかった。フィリピンで埃まみれで日銭を稼ぐ若い男性や、身体を売ることで家族を養う女性をたくさん見た僕は、「そうかもしれない」と言うしかなかった。


 リンは、日本という豊かな国からやってきた僕の目に、フィリピンがどう映っているのかもっと詳しく知りたいと言った。

 正直に言えば、初めてフィリピンに上陸した日、僕はとても奇妙な世界を見たような気分だった。しかし僕は、どこまでそのことを言うべきか迷った。そこには、彼女を傷つける内容が含まれているかもしれないのだ。

 それでも、その場で伝えるべき場面を選択し、一つの話しに再構成することは難しかった。僕が初めてフィリピンを見たときの心境は、それほど複雑だったのだ。

 だから僕は、ほぼありのままを言うことにした。

「僕は三週間前に、ここに着いたんだ。日本は今冬だから、凍りついた早朝の街を通って日本の空港に行き、夕方に真夏のようなフィリピンに着いた。まるでサーマルショックだと思ったよ。でも空港からホテルまでの道すがら、セブの街を見たときには、もっとすごいショックを受けた。まるでスピルバーグの、新しい考え方を取り入れた映画を観ているように引き込まれた」

「何にそんな驚くことがあるのかしら」と、彼女は興味深そうに目を輝かせた。

「それは一言で言い表せない。何もかもが驚きだったんだから。僕はそれまで、セブという地名は知っていた。日本の旅行会社の前に、セブと大きく書かれた旅行パンフレットがたくさん並んでいるんだ。それは鮮やかなブルーの海と白い砂のビーチが表紙を飾っていて、セブが如何に素晴らしいリゾートであるかを強調しているんだよ。けれど、セブとフィリピンが僕の中で結びついたのは、この旅がきっかけだったんだ」

 彼女は素早い瞬きをしながら「あなたはセブがフィリピンにあるって知らなかったの?」と、彼女にしては珍しく大きな声で言った。

「そう、知らなかった。それだけじゃない。東南アジアも初めてだった僕は、フィリピンがどんな国であるかもまったく知らなかった。もちろんセブのリゾートがマクタン島にあって、セブシティーという街が別の場所にあることも含めて。マクタン島からセブの本島へ渡るときに通った大きく立派な橋には驚いたけれど、それに日本の国旗が描かれていたのを発見したときには、自分がそれまで如何に小さな世界に閉じこもって生きてきたのかを思い知らされた気分だったよ。だって、僕が会社の実験室でちまちま機械いじりをしている間に、日本はフィリピンで一大事業を完成させていたんだから」

 僕は、空港からホテルに行くときに、車中から見た光景を思い出しながら語った。


 マクタン国際空港のあるマクタン島と、セブ本島を繋ぐ大きな橋を渡り終えると、最初にマンダウエシティに入る。それが、セブシティの隣の市となっている。

 比較的すっきり整備されたマクタン島からマンダウエシティに入ると、とたんに景色が変わった。そこはおもちゃ箱をひっくり返したような、煩雑な街並みだった。

 僕は、日本の通勤ラッシュより酷い道路の混み具合に驚いた。フィリピンに、それほど車が普及しているとは思っていなかったのだ。現地の人は、おおかた自転車やバイクを利用していると想像していた。

「わたしはバイクも自転車もないわよ。もちろん車も。車やバイクを持つことのできる人は、ここではお金持ちだけ」

「そうかもしれないけれど、そのお金持ちがそれだけたくさんいるってことだよね。僕はここを、そんなふうに考えていなかったんだ」

「どんなふうに思っていたの?」

 僕は、自分が事前に想像していたフィリピンのことを正直に伝えた。

「笑わないで聞いて欲しいけれど、ここの人は普段裸でジャングルの中を駈けずり回っていて、友だちの家に遊びにいったら、バナナ食べる? なんて言われて目の前に一本のバナナを差し出されるような暮らし」

 彼女は「それはわたしたちが生まれる前の、大昔の話しでしょう?」と言って、とても楽しそうに笑った。

「僕は、フィリピンという国をまるで誤解していたことに気付いたんだ」

 僕は話しを続けた。 

 僕はフィリピンに、ビルも車も信号機も何もないと思っていた。飛行機が間違ってアフリカのサバンナに降りて、ここがフィリピンですよといわれたほうが、ずっと驚かなかったかもしれない。それだけ僕は、東南アジア、特にフィリピンを辺境な地域だと思っていた。

 車が渋滞から逃げるように大通りから細い道に入ると、道の両脇のあらゆる所に、オレンジ色の薄暗い裸電球が吊るされていた。暗闇の中、その電球の光が照らす範囲に、テーブルに乗った料理と酒を取り囲んだ上半身裸の男たちが大勢浮かび上がっている。その褐色の肌が電球の光を反射し、まるで黒光りしているように見えた。

 光量が足りずはっきり見えなかったせいで、彼らが宴会をしているのか、それとも食べ物を売っているのか、あるいはそれがファミリーの夕食風景なのか、僕にはまるで判別できなかった。歩道にも小さなわき道にも、そして大きな道路とその通りが交わる高架下にも、そんな光景が絶え間なく出現した。

 気付けば道の両端に、貧しい身なりの老若男女、犬、自転車、バイクが所狭しに往来している。そして路上にひしめく人たちは、ぎらついた目でこちらの様子をうかがっていた。車に手をかけ、スモークで見えにくくなっている車中を、あからさまに覗き込んでくる人もいる。

「もし僕が、そこで車から放り出されたら、一体どうなるだろうと思った。この人たちは一斉に、僕に群がってくるのだろうかって。まさか焼いて食われることはないだろうけれど、金目のものはよってたかって奪われそうな気がしたんだ。でも僕はそのとき、車外の様子から目が離せなくなった。そんな光景が、僕の目にはすごく不思議な世界に映ったんだ」

「わたしたちには普通のことなのに、面白いものね」

「そう、つまり僕とあなたは、まるで違う世界に生きているってことかもしれない」

 彼女は「まるで違う世界」と復唱し、手に持つグラスに視線を落とした。

「悪いことを言ったかな?」

 彼女は小さな笑みを浮かべ、「そんなことない。いいわよ、続けて」と静かに言った。


 道には、見たことのない不思議な乗り物が走っていた。僕は空港で出迎えてくれた、篠原さんという工場のマネージャーに訊いた。「あのサイドカーやミニバスのようなやつは何ですか?」

 彼は「あれはトライシケルやジプニーといって、庶民の安いタクシーやバス代わりですよ」と教えてくれた。なるほど、所が変われば乗り物も色々あるものだと感心しているところに、彼が念押しした。

「でも一人であれに乗らないで下さいね。決して安全ではないですから」

 僕は、安全でないというのが何を意味するのかを確認した。すると、料金ぼったくり、ホールドアップもあるけれど、乗り物ごと交通事故に巻き込まれる危険もあると言われた。特にトライシケルは、一旦アクシデントになれば人は簡単に車外へ放り出され、命を落とすリスクも大きいということだった。

 車は器用に人を避け、対向車を避け、遅いトライシケルやジプニーを追い越し、ときには歩道、ときには反対車線を走る、天下無敵のドライビングを披露しながら進んだ。日本では、まずお目にかかれない運転ぶりだ。確かにこれでは、いつ接触事故が起きてもおかしくない。

 けれどそんな僕たちの車に人も対向車も驚かず、上手に接触を回避する。何もかもがでたらめに見えて、それでいて互いに阿吽の呼吸が存在するようだ。この煩雑さの中にも、それなりの秩序があるようだった。

 このとき僕は、その混雑した雑踏から、フロントガラス越しにまるで場違いな四十階か五十階はありそうな立派なビルを発見した。一キロくらい先になるのだろうか、ビルの側面に窓が整然と並び、どれからも煌々とした明かりが漏れている。日本で見慣れた都会のビジネスビルと同じだ。だから僕は、篠原さんに言った。

「あんな立派なビルがあるんですね」

 彼は少し笑いながら、それが当然であることを強調するように「ありますよ、たくさん」と言った。

 でも僕は、そのビルを実際に見ながら、その現実を理解できなかった。今車で走っている場所には、確かなみすぼらしさが漂っている。それに対して前方に見える近代的ビルが、あまりに対照的な世界に映ったからだ。僕はとても不思議な気分になって、変なことを想像した。

『あのビルの窓から、誰かがこの雑踏にいる下々の生活を監視しているのだろうか。あの一室で誰かが赤い色のボタンを押したら、一瞬で今いるこの街が、地面の下に埋没するのだろうか。あるいは四方八方から鋼鉄製の壁が出現し、ここにいる人々をすぐさま隔離できるようになっているのだろうか』

 まさにそんなことがあり得るような、見事なギャップがそこに存在した。

 僕には、遠方に見えるビルとこちら側で、まるで違う世界が展開されているように思えてしまったのだ。

 もしそうなら、自分がここにいるのは何かの間違いかもしれない。少なくとも僕はこれから、今見えているあのビルの世界に行くのだ。この車はきっと、あちら側に向かっているに違いない。どう考えても自分は、こちら側の世界に馴染めそうにない。

 深い意味はなかったけれど、僕はビルのほうを指して訊いた。

「ねえ、篠原さん、この車はあのビルのほうに向かっているんですか?」

 彼は「ええ、ホテルはあちら側にあります」と答えた。

 彼の『あちら側』という言葉は単に方向を指す意味だったけれど、僕は薄々、ここには実際に二つの世界があることを気付き始めていた。途中で見えたマクドナルドに、それを象徴する出来事が起こっていたからだ。

 マクドナルドは、小奇麗な服装の人で溢れる店内が、ガラス越しに丸見えだった。僕はフィリピンにマクドナルドがあることを驚いたけれど、客がカウンター前に長い列を作っていることに、妙な違和感を覚えた。その違和感が、ついぞそこに繰り広げられていた、貧困的生活光景とのギャップに由来すると気付くまで、ほんの少し時間がかかった。

 もしかしてここは、日本とさして変わらないのだろうか。

 精神的混乱の中で一瞬芽生えた僕の考えは、すぐに打ち消される。

 制服を着たガードマンが店の入り口に構え、裸同然のぼろを着た子供たちが大勢その周囲をうろついていた。子供たちは、店内から出てくる客にさっと近づき手を差し伸べているけれど、ガードマンがそれを冷酷な動作で追い払っている。渋滞で前に進めない車から、それらの一部始終が見えていた。声は届かずとも、何が起こっているかは一目瞭然だった。

 僕はその異様な光景を一つも漏らすことのないよう、瞬きも忘れて見ていた。やはりここは、普段から自分の知る世界とは異質だ。

 

 宿泊するホテルに到着すると、そこには自分が普段から慣れ親しんだ世界があった。

 入り口にはマクドナルドと同じようなガードマンがいて、丁寧な態度でドアを開けてくれた。入り口のすぐあとには金属探知機ゲートがあり、それをくぐると荷物が検査された。

 建物の中は、靴底の三分の一が沈みこむ絨毯が敷き詰められている。少し奥のほうに進むと、ほのかな外国の匂いがした。初めてのアメリカ旅行の際、空港ビルで感じたものと同じ匂いだった。

 右奥に木目調の壁を背にしたレセプションがあり、左奥にはグランドピアノを置くラウンジがあった。淡い照明に包まれたラウンジには、大きめなベージュのソファーとウッドテーブルが、それぞれ十分な間隔を保って配置されていた。その場を歩いているホテルの客も、みんな僕の知っている世界の人たちだ。レセプションの女性は、薄い化粧の下に上品な笑顔を浮かべ、綺麗な英語で対応してくれる。

 それだけを見れば、そこはサードワールドには程遠い世界に思えた。フィリピンに旅立つ前、僕は散々、仕事仲間にフィリピンの劣悪さを吹き込まれたのだ。それはたかり、ゆすり、特大のごきぶり、食べもののまずさ、臭い、不衛生さ、ホテルの酷い設備、嘘つき、騙し、貧困という類のものだった。あくまでもそれは、初めてフィリピンを訪れる僕に、親心で注意を促す警告だったと思う。

 そんなふうに吹き込まれた内容を連想する光景がついさっきまで目の前に広がっていたのに、僕は自分が慣れ親しんだ世界に入り込んだ途端、すっかりそのことを忘れていた。僕はどこかで、自分がこちら側の人間であることを確認して、安心したのかもしれない。


 バーに流れる曲が、ジャズに変わった。僕の話しに一区切り付けるかのように。

 それがJohn Coltraneの『Lazy Bird』だったから、僕はとても驚いた。

「ゴーゴーバーでジャズがかかるのは珍しいね。ここのオーナーは何人?」

「あなた、音楽に詳しいの?」

「詳しいほどじゃないけれど、パンクロックやジャズやクラシックをよく聴く。これは有名な曲なんだよ。知ってる?」

「わたしにはさっぱり。この店のオーナーはアメリカ人よ。彼はお客さんが少ないと、ときどきこんな曲を流すの。わたしたちにはとても不評だけれど」

 彼女は肩を小さくすくめる。

 リンはジャズを、鼻にもかけてくれない。僕にはとてもリラックスできるミュージックだけれど。

 僕はセブの街で、ピアノ曲やジャズを流す、落ち着いた店を探していたのだ。これが中々見つからないのに、まさかゴーゴーバーでそんな曲に出くわすなど、思ってもみないことだった。店のアメリカ人オーナーが、話し込む二人に気を利かせてくれたのかもしれない。

 リンはジャズよりも、僕の話しに興味があるようだった。

「それであなたは、セブに二つの世界を見たのね」

「その通り。二つか三つか定かではないけれど、とにかくここには、僕の住む世界と比べて異質の光景がある」

「簡単に言えば、貧しいということかしら?」

「最初に僕が思ったのはそうだけれど、今はそんな単純なことではないと思い始めている」

「いいの。慰めはいらないのよ。実際に貧しいのは確かだから。できればわたしだって、もっと普通の場所で働いて普通に暮らしたい。だけど働き口がないの。大学を卒業しても就職できない。運よくその辺のスーパーに入り込めても、サラリーはすごく安くて半年で首。会社は半年契約しかしないから」

「いや、慰めじゃない。ここには僕にとって、重要で面白いエレメントがあると思っている。ただね、フィリピンにはどうしてこうも貧しい人が多いのか、それも確かに不思議なんだ」

 彼女は「そうね」と言って、こめかみの辺りに人差し指を添えながら少し間を取った。

「きっと政府に戦略がないの。フィリピン独自の技術を高めていく工夫もないし、海外からの企業誘致も中途半端。例えば携帯電話を作る会社もないし、フィリピンオリジナルの自動車もない。そんな産業が盛んになれば、その周りにたくさんの企業ができて雇用が生まれるはずでしょう? そんな発想があるのかないのか分からないけれど、全く進まないのよ」

 彼女の話しには一理ある。しかし僕は、バーの女性、しかも若干二十三歳の彼女が、政府の舵取りの話しや、基幹産業を興すメリットを語ることに驚きを感じた。以前もバーの女性から、働き口がない、それは政府が悪いという愚痴を聞かされたことがある。でもリンの話しは、愚痴の範囲から一歩踏み出した意見だ。だから僕は、なぜフィリピンがそうなるのか、彼女にもう少し訊いてみた。

「政治家や役人や企業オーナーはみんな、自分が潤うことばかりを考えているからよ。そこには理念がないの。普通の官公庁だけじゃない。警察も空港職員もイミグレーションも税務署も、みんなそう。全てがアンダーテーブルで物事が進む。それにここにはあなたが感じたように、少なくとも二つの世界がある。一つは富める者の世界、そしてもう一つは貧しい者の世界。わたしは貧しいほうのカテゴリーに属している。富めるものは役人にお金を握らせ、ビジネスを拡張してますますお金持ちになる。わたしのいる貧しいほうは、いつまでたってもうだつが上がらず苦しいまま。でも毎日ごはんを食べなきゃいけないから、こうして身体を売ったり厳しい労働で、小さな日銭を稼いでいる。それはまるで、誰かの食べ終えた皿の底に残るスープを、懸命にかき集めて口に運んでいるようなものなの。だから普通の人が食べるものを、とても贅沢に感じるチープな暮らしよ。どう? あなたはやっぱり恵まれているでしょう?」

 僕は彼女の言葉に圧倒され、何も言えず、彼女の顔をじっと見つめることになった。彼女は我に返って「ごめんなさい。別にあなたを責めているわけじゃないの」と言った。

 リンは僕に対して 気を遣ってくれたのかもしれない。彼女はその話題を、それ以上掘り下げることはしなかった。

 話題は彼女の主導で、時期の早い木枯しが突然その向きを変えるように、平和的な世間話しへと急転換された。


 せっかくのジャズはほんの少し流れただけで、店内の音楽は、その場に相応しいダンスミュージックに切り替わった。

 客のついていない女性たちが、億劫そうにもそもそと間の抜けたステージに上がり、いい加減なダンスを披露した。ダンスタイムになっても店内の照明は明るく、ショータイムという雰囲気から程遠い。ダンスをする女性たちも悪ふざけをして意味なく笑いながら、照れ隠ししている。僕はそんな彼女たちの苦悩が読み取れないかを試してみたけれど、彼女たちはまるで陽気にしか見えなかった。

 気付いたら、店に入って三時間ほど経っていた。僕はタクシードライバーのジミーに、迎えに来てくれるようお願いのメッセージを送った。その頃になってもバーの客は少なく、奥の部屋には寂しげな空テーブルが、礼儀正しく並んでいた。

 それは珍しいことだったけれど、僕はリンと電話番号を交換して店を後にした。

 最後に彼女は僕に「つまらない話しをたくさんしてごめんなさい」と謝った。僕は「とても興味深い話しを聞くことができて楽しかった」とお礼を言った。

 外に出るとアスファルトはまだ濡れていた。でも雨は上がっていたし、ジミーも到着していた。

 タクシーに乗り込むと、無口なジミーが言った。

「一人なのかい?」

 普段、バーから女性を連れ出す客も多いのだろう。彼の表情からは、自分が一人であることを彼がどう思っているのか読み取れない。

「そう、誰も釣れなかった」と、僕はわざと、落胆したように告げた。

 彼は開けっ広げに笑って、「次はがんばりな、ボス」と言った。

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