夜明け前の夕焼けに

捨石 帰一

第1話 美しき…人々

 夜の静寂。引き返す木霊。

 僕は運転手になりたかったんだ。彼はそう呟く。片手に缶ビールを握り、人もまばらな終電車の通路に足を投げ出す。そう、運転手になりたかったんだ。

 疲れきった瞳に、車窓の明かりが流れていく。くたびれたスーツの上着を脇に置き、ネクタイをこれでもかと引き下ろす。こんなふうになるとは思わなかったな。いいや、こんなもんだとは思っていたけど。こんなふうにはなりたくなかったな。

 彼はビールを一口飲むと、それをそっと床に置く。くそっ、腹が痛くなってきた。酒も飲めないのか。

 各駅停車はほどなく次の駅に停まる。彼は上着を脇に抱えると、床のビールの缶をつまみ上げ、ふらふらとした足取りで降りていく。そして改札手前のトイレに消える。ビールの缶を洗面台の端に置いて。

 

 朝のきらめき。こぼれ出す光。

 彼女は何になりたかったのだろう。傍らに立ち上がっている幼子は、飛び去る風景に夢中。私は何になりたかったのだろう。幸せなお嫁さん。幸せな。

 通り過ぎる上り電車。窓に並ぶ無表情な顔、顔、顔。

 私は何になりたかったのだろう。あの上り電車の中にいるもう一人の私。

 幼子が何か話しかけてくる。うん、うん、とうなずく私。幸せな私。

 私が忘れてきたもの。私が手に入れられなかったもの。私が手にしたもの。私が望んだもの。私が望んだ、幸せ。

 目の前に立つ老人。膝に抱きかかえると、大きな声でむずがる子供。遠慮する老人に作り笑顔で立ち上がれば、抱いたままの幼子はもう飛び去る景色に夢中。

 私がなりたかったもの。それは、幸せな…

 

 真昼の陽炎。押し黙る不機嫌な沈黙。

 彼は座りたかった。期せずして降りかかるダイヤの乱れ。一人旅の荷物は重く、二時間立ち続けの彼の、生まれつき不自由な腕に、その持ち手が深く食い込んでいく。

 誰一人席を譲る者はおろか、その座っている膝に荷物を持とうと手を差し伸べる者すらいない。

 彼は降りたかった。しかし、止まったまま、既に三十分も動かない車両。

 情けは人の為ならず。

 彼は痛みを知る者でありたいと願う。必要とする人があれば、いつでも席を譲りたいと思う。

 幾年か後、彼が不幸にも利き腕を骨折し、吊革につかまるすべもなく、揺れる車内に一人佇んでいるとき、そっと席を譲ってくれたのは、足首にギブスを巻いた青年だった。

 健やかなる者は、病める者の痛みを知らず。

 

 午後の気怠さ。流れ去る希薄な無関心。

 少女は焦っていた。急な欲求に一刻の猶予もなかった。

 次の駅まで待てるか。いや、我慢できない。

我慢できても駅のトイレがどこにあるか分からない。確か、電車の中にもあったはず。でも、どこに。

 彼女は、そろそろと車両を渡る。いつも決まった車両にしか乗らないから、トイレが何両目にあるのか、それに、そもそもどんな形をしているのか知らない。新幹線のなら使ったことがある。車両と車両の間にあった。でも、普通の電車には、そんな場所はない。

 彼女は車内の人をよけながら、後方へ。けれど、もう限界。

 ズボンの裾から足下に広がる水たまり。ドア際に立つ高校生の怪訝そうな顔。恥ずかしさで気が遠くなる。その後、どうやって帰ったのか、今となっては、もう思い出せない。

 

 夕刻の喧騒。零れ落ちる孤独。

 彼は嘆いていた。夕日に照らされるホームのベンチ。誰に気に留められることもなく、通り過ぎる人並みに虚ろな眼差しを投げかけている。

 ほんの数十分前、好きだった女の子にカミングアウト。いろんな思いを込めた身勝手な告白。そして、振られましたとも。意味不明なまでに。

 夕日を背に突然泣き始めた彼女。告白の回答としてあまりに意味不明なまでに。

 僕はフライイングにフライイングを重ねてしまったのだろうか。そうだ、フライイング。

 そう思えば、あまりダメージもない。そう、明日があるかもしれない。

 秋の夕暮れは、思いのほか足早に陰っていく。輪をかけて足早な乗降客は振り向きもせず行き交い、目の前から消えていく。意味のない今日が過ぎ、また意味不明の明日が来る。


 黄昏時。逢魔が時。道行く人は陰の中。

 駅前広場の移ろいは、目の端をよぎるコマ送り。

 待ち人来たらず。

 彼女はスマホの画面をひたすら覗き込む。

 送られてくるラインの嵐。フォローするツイートの山。画面を埋め尽くす泡、泡、泡。

 吹き過ぎる風が素足を下から突き刺していく。寒くない、寒くない、寒くない…

 既読スルーは許せないけど、既読にならないもどかしさ。飛ばしまくる泡の砲撃。

 待ち人からの返信はなく、たわいないツイートだけが「なう「なう」「なう」。

 駅前ぼっちなう…

 あたりはすっかり宵闇に暮れ、駅の周りは光の渦。待ち人来たらず、待ち人来て…

 つかない既読、つかない既読。既読!

 彼女に寄りそう人影一つ。

 駅前到着なう。

 

 夜更けの微睡。流れゆく車窓。

 頭にネズミの耳を付け、眠りこける幼子二人。その横で大きなリュックを膝に抱えたまま、不自然なまでに丸くなって熟睡する母。

 三人の前にはこれまたリックを背負い、お土産の大きな袋を二つ持って吊革につかまり佇む父。疲れ切った横顔の父。

 周りの通勤客は、皆、難しい顔をして無言。

 平日の遅い夜。あたりに漂う押し殺したような疲労。疲労。

 誰一人、その家族に目をやるものはいない。

 心の中に聞きたくもない言葉が沸き上がってこないように。

 一瞬、父親の膝がかくっと折れる。手から落ちかけたお土産の袋がガサっと大きな音を立てる。けれど、やはり誰一人、父親に目を向ける者はない。

 立っている父親の背が少し丸くなる。やり場のない気持ちが、夜の車窓に映る。

 

 朝もやの階段。駆け降りる靴音。

 乗車率二百パーセント。神業で閉じる扉。身を固くする自分。ありえない空間。ありえない毎日。揺られ揺られて過ぎてゆく「夢」。行く場知らずの無為な夢。

 押しつぶされる寸前、彼は高く高く腕を上げる。両の腕を肩より高く。誰よりも高く。

 私は何もしていない、ほら、私は何もできませんよ。

 荷物は運よく網棚の上。けれども最早、手が届きそうで届かない。

 彼は何も考えていない。何一つ考えられない。

 その時ふっと彼の顔を笑みがよぎる。頭の中であの曲がリフレインを始めたから。あの誰しもが聞き覚えのある、あの映画の…

 彼はその列車の中、ただ一人の勝者。

 そう、彼は闘うチャンピオン。誰の挑戦も受けはしないのだけれど。

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