漫談の速記

 はじめてのノートテイクは惨憺たる出来だった。こんな風だ:

  出囃子が鳴る。傘の上を雨が跳ねるようなリズム。ザーッという打楽器。上に骨がきしむような弦楽器の音が重なる。ひょろひょろした隙間風のような笛。意図せずけり飛ばしてしまった石が思いのほかよく転がり、側溝の水にぽちゃんと落ちるように、カンと一回かねが鳴る。拍手。スモークが左右から吹き出す。小太りの男が小走りで出てくる。センターマイクの前に立つ。まずむせる。すいません、これやめてくださいと背中の霧を振り払う。会場からやや笑い。スポットライトが男を照らす。男は眉をひそめる。手で目に影を作る。二、三歩後ずさり、こんなに、こんなに眩しくしないで、という。スポットライトは溶けるように消え、暗くなっていた客席の明かりがもとに戻る。


 このあたりで田中が「目に見えるものは書かなくていいよ笑」と書いたメモを渡してよこした。

 田中は耳があまり聞こえないが、視力はいい。大学の講義のときはボランティアのノートテイカーがラップトップで先生のおしゃべりを書き起こし、田中はそれを見ながらノートをとっていた。

 ぼくと田中は英語の演習の授業で一緒になり、ぼくは田中に学園祭のお笑いライブに誘われた。ぼくは田中ほどお笑いに詳しくないけど、漫談の速記くらいならやってやれないことはないだろうと思った。それで、今回のライブのノートテイクを買って出たわけだけど、これはかんたんじゃない。

 ぼくにとって視覚と聴覚というのは当たり前にシンクロしすぎていて、いざ書き始めてみるとなにを文字に起こし、なにを捨てるべきかなんて判断できず、とにかく押し寄せてくる情報を言葉に変えるのでいっぱいいっぱいになってしまった。

 ぼくは男の話す、耳に入ってくる言葉だけに集中しようとする:

  あのー四色問題って知ってます? 地図に色を塗るんですよ。そんでね。四つの色しか使っちゃいけなくて、隣り合う国どうしは同じ色になっちゃいけないんです。赤、青、オレンジ、それからビリジアンね。男は指を折る。


 ここで田中は「ビリジアンってなに?」とメモに書く。

 ビリジアンは学校の絵の具セットに入っている緑色だ。いや、本当にただの緑色なんだけどなぜか大げさな名前がついていて妙に印象に残る。ぼくはそれだけ答えてノートテイクに戻る:

  小学校のとき変な先生がいましてね。算数の時間なのに、地図書いてこいっていったんですよ。四色だけ使ってそれで地図書いてこいっていう課題を出したんですよ。でね、でも目に見えるものは書かんでええから、っていうんですよ。それで教室ざわざわってなりましてね。ぼくは、これだって思いましたよ。運動もだめ、勉強もだめなぼくが一目置かれるには、こういうチャンスしかない、こういうわけわからん課題のときしかないと思いましてね、考えたんですよ。でも考え始めるとね、これはかんたんじゃないんですよ。なやんでなやんでね。いざ書き始めてみるとアイデアがお互いに衝突して、なにを書いたらいいかなんてわからないんですよ。でね、結局その課題あえて真っ黒に塗りつぶして出したんですよ。四色ぜんぶつかったら真っ黒になってなにも見えませんでした。なにも見えない街の地図だから、みんな勘で歩いてください。って言ったんですよ。そしたらまあクラスのウケはそこそこ取れたんですよ。でも、ひとり気になるやつがおってね、なんか、色が順番に並んでて、矢印が引っ張ってあって、フローチャート? なんかフローチャートみたいの書いてきたんですよ。みんなぽかーんとなりましたよ。ぼくそれがどうも引っかかってね。みんなが帰ってからそのフローチャートの通りに四色の絵の具をまぜあわせたんですよ。そしたらパレットの上にユトリロが描いたみたいな景色がふわーっと広がって、消えて、ぼくその瞬間くやしくてくやしくて、負けたーって思って。そしたら後ろにいつの間にか先生が立っててね。なあ、くやしいやろ。でも大丈夫だよ。はじめてが惨憺たる出来でも書くのをやめなければ。照明が落ちる。


 漫談が終わり田中は「おもしろかった。ありがとう」「けっきょく四色問題ってなんだったの?」とメモに書いた。ぼくは田中に四色問題の説明をするために、ふたたびラップトップのふたを開けた。


 (作中の漫談は街裏ぴんく氏『図工』にヒントを得ています。ありがとうございました。)

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