バカンス
中学生のRがコーヒーを飲んでいると胸のあたりが痛む感じがした。そのことをRが父親にうちあけると
「それ、胃じゃないか」
と教えられた。
「おれも前胃潰瘍になったとき胸っていうか食道のあたりが痛む感じがした」
Rは流しに嘔吐した。
実家にいたときのRは、父親が毎朝コーヒーをドリップしていたので、そのおこぼれを頂戴していたのだが、この部屋に住むようになってからはインスタントコーヒーばかりだ。
植え込みに嘔吐すると真っ黒い液体が出て、Rはこれが自分の胃液の色なのかと思ったのだが、それは朝に飲んだコーヒーの色だった。
目が覚めると病院にいて、看護師から
「ここがどこだかわかりますか」
と聞かれた。
「病院」
「なんでここにいるかわかりますか」
「薬をたくさん飲んだから」
看護師たちはRの返答を聞いてうんうんうなずきあっていた。
「トイレに行きたいんですけど」
というと看護師はRのために尿瓶を持ってきた。看護師は尿瓶のことを尿器と呼んでいた。Rは尿器の上に覆いかぶさるように寝てしまう。
母親がRを迎えに来た。大学には連絡してあるから、と言った。タクシーに乗ったRは実家に送り返されるものだと思っていたが、ついたのは大学に通うために借りたいつものアパートだった。
「緊急事態宣言が出たの知ってる?」
とRは母親に聞かれた。
「うん」
「あんまり移動できないから、お母さんもこの部屋に泊めて」
中学生のとき、コーヒーを飲んで流しに嘔吐したときも、Rは母と一緒にタクシーに乗った。Rはタクシーの中でも嘔吐してしまい、Rの母がバッグでそれを受け止めた。その匂いにつられてRの母も少しえずいていた。病院で、医者は
「胃がちょっと荒れているみたいですが、まあこの時期は受験とかでストレスもありますし、そんなに心配しなくていいですよ」
とRに告げた。
病院から帰るタクシーの中でRの母はRの父に電話していた。Rが電話をかわると、
「お前を無理に実家に連れ戻す気はないから。まあ、お前は実際論文っていう成果も出してるし今の研究が向いてると思うんだよ。だから続けられるだけ続けてみたら」
とRの父は言った。
研究に向いてる人は研究中に自殺未遂しないだろう、とRは思った。
Rの父はRが中学でいじめられて不登校になった時期、
「お前はいじめられて不登校になったとかじゃないと俺は思ってるから」
と不意にRに告げたことがある。Rはその意図をはかりかねていた。
「要するに学校が合わないんだよ。学校なんて無理に行かなくていいし」
とRの父は言った。
中学生のRがたばこを吸ってると、Rの父は
「お前ずいぶん俺のたばこくすねるな」
と笑った。
Rの母は
「お母さんは基本たばこには反対だから」
と言った。
Rが初めて吸ったたばこは女バス(女バスは女子バスケットボール部の略だ)にもらった。吸えよ、と言われて無理やり吸わされた。それ以来たばこの味が舌に焼き付いてしまい、ときどきふとその味をはっきりと確認したくなるようになった。
Rは部屋に帰るとまず換気扇の下でたばこを一本吸った。それからトイレにいくと自分が紙おむつをあてられていることに気づき、脱いで捨てた。それからRは、大学には連絡したかもしれないけど、研究室の先生には自分からちゃんと電話しておくと母親に向かって宣言した。
Rはまだ意識がもうろうとしていたのだろうか、
「薬を飲みすぎまして」
とうっかり先生に本当のことを話してしまったが、先生はうんうんうなずきながら聞き、
「いまはちょうど大学休みだから、特に手続きとか必要ないからまあゆっくり休みなさい」
と言った。
Rが子どものころRの父は毎朝のように二日酔いで流しに胃液を吐いていた。Rはそのゲーゲーいう音をただうるさいなと思って聞いていた。同情なんかしたことなかった。
薬を大量に飲んで以来、Rは頻繁に吐き気を催すようになった。医者は薬の副作用で嘔吐はあまり考えられないから、精神的な理由だろうといった。
Rとその母親の共同生活はRにとって窮屈なものだった。Rはいつもほんのささいな思いつきも取り逃がしたくなくて、とっちらかった本やノート、つけっぱなしのコンピューターの画面に囲まれて暮らすのを好んでいたのだが、Rの母親はコンピューターの画面の指紋、ほこりをかぶった机の上の本と汚い字で走り書きされたノートを見て、
「その都度かたづけないとものがわからなくなっちゃうよ」
といい、毎日の掃除を促した。Rはそのたびに自分の思考が中断されることにパニックを起こしそうになりながら申し訳程度に机の回りのものを動かすのだった。
しかし、Rは母親のいうことならなんでも聞こうと決めていた。Rは自分が父のようになるのだけは避けたかった。仕事一本槍で家事や育児に関心を示さない父親に、自分はなりたくなかった。
中学生のときRは、お父さんが仕事にだけいってお金だけ稼いできて、小さな家に母親と自分の二人だけで暮らして、自分の好きな数学の勉強だけして過ごせたらどんなにいいだろうと思っていた。学校も友達も必要ないとRは思った。
Rとの共同生活の中で、毎夜遅くまで呪文めいた数学の研究を続け、毎朝起きるなりたばこを吸ってコーヒーを飲み流しに胃液を吐くRの後ろ姿を見て、Rの母はRが若いころのお父さんにそっくりだと思った。そしてゲーゲーいう音がうるさいな、と思った。
今、Rはこうして母親と二人、自分の好きな数学だけやって暮らしている。
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