ラスプーチンと女性
増田朋美
ラスプーチンと女性
ラスプーチンと女性
春が来たというのに、雨が降っていて、寒い日だった。そんな日はなかなか外へ出ることもないけれど、最近の若い人は、そうでもないようで、雨でも晴れでも関係なく、外に出ている。
そんな中で、久しぶりに休みが出来た小杉道子は、なぜか水穂さんのことが気になって、製鉄所を、来訪して見ることにした。別に水穂さんと血縁関係がある訳ではないけれど、水穂さんのことが何故か気になってしまうのだ。
道子が製鉄所を訪れると、水穂さんは、布団に座っていた。隣には、今西由紀子がそばについていたが、どうも彼女では頼りなさすぎると、道子は、思ってしまうのであった。もっと有能な看護人を雇えないものか、と、道子は熟思う。
「由紀子さん、この人を起こしておくのはやめて、できるだけ安静にさせてあげて。」
道子はそんなことを言いながら、二人の会話に割って入った。
「あ、ああ、すみません。」
と水穂さんは行ったが、由紀子は帝大さんこと沖田先生が、できるだけ起こしていた方がいいといったと、反論した。
「そんなものは昔の人の言うことよ。昔の人の発言なんていまは間違えている事が多いの。だから、早く横になって安静にして頂戴。」
道子は得意になってそう言うと、隣で水穂さんが激しく咳き込んだ。ほらやっぱり!と道子は身構える。由紀子が、水穂さんの背中を叩いて、だすものを出しやすくしてるけど、道子はもっといい方法があると知っていた。
「すぐに吸引器取ってきて。そのほうが、はやく出せるから。」
それを言うと由紀子はそんな、という顔をした。
「早くして!そのほうが早く楽になるのよ!」
押入れの中に痰取り機はあった。由紀子がそれをだすと、道子はそれをすぐに受け取って、手早くチューブを繋いでしまった。
「水穂さん、今から肺に溜まった血をとるから、もうちょっと辛抱してね。」
道子は、急いでチューブを水穂さんの口に押し込んだ。そして、痰取り機の電源をいれる。ウイーンと鈍いモーター音と同時に、チューブを血が上がっていく。同時に水穂さんのうめき声も聞こえる。由紀子は、とても可哀想な気がして、顔を両手で塞いでしまっていた。
「水穂さん、終わったわよ。」
道子は抱きかかえたままの水穂さんに話しかける。由紀子も、やっとふさいでいた手をほどいて、今起きていることを見ることができた。水穂さんは、今、道子さんの腕に抱かれていた。そのわきには、大量の血がたまっている、痰取り機があった。
「水穂さん。」
由紀子も声をかけてみたが、水穂さんは答えない。静かに息をしているだけである。
「水穂さんどうしたの?」
由紀子が声をかけても、水穂さんは答えない。
「水穂さん。」
思わず由紀子が、水穂さんの肩に手をやると、
「大丈夫よ。とれるだけのものは取ったわ。今、疲れて眠っているだけのこと。目を覚ますまで、そっとしておいてあげましょう。」
道子は医者らしく、にこやかに言った。
「そうなんですね。」
由紀子は、水穂さんが、道子にそっと布団に横たえてもらっているのを、呆然として眺めながら、それだけしか口にできないでいた。
道子が、かけ布団をかけてやって、痰取り機を消毒してこなくっちゃ、というと、車いすの音がして、杉ちゃんの声がした。
「おーい、ご飯だよ。今日は、取れたばかりの山菜がいっぱい入っているよ。さあ、たっぷり食べろ。」
杉ちゃんが、車いすの上に置いたトレーに、山菜入りのおかゆが入った行平鍋をもって、やってきたのである。
「杉ちゃんごめんなさい。今やっと眠ってくれたところなのよ。ご飯を食べさせるなら後にして。」
道子がそういうと、杉ちゃんはいやな顔をする。
「せめて、出すもんは自分で出させるくらいの、度胸はつけさせたほうがいいと思うんだがな。」
杉ちゃんは、そういうことを言った。
「しょうがないでしょう。自分で吐かせるよりも、吸引機で効率よく出してあげたほうが、その分、こっちだって楽になるじゃないの。」
「だけどねえ、ご飯前に眠られちゃ困るんだよ。せっかくさ、ご飯を作って食べさせようとおもったのによ。これでは、また一食抜くことになっちまう。せっかく栄養をつけようと思ったのにさ。痰取り機でどうのこうのするんだったら、ご飯の後にやってくれないかな。」
「何を言っているの。ご飯も何も関係ないの。それよりも、肺の中に血液がたまってたら、それが炎症の原因になることだってあるの。だから、機械で除去してあげたんじゃないの。」
杉ちゃんと道子がこんな言い合いをしていると、
「ねえ、杉ちゃんも道子先生も、少し黙ってあげてください。あれだけ苦しんでやっと眠ってくれたんだから、今は静かに寝かせてあげてください。」
由紀子が、そういったため、二人ともごめんと言って、黙った。
「でも、変な薬や、痰取り機を使うんだから、やっぱりラスプーチンだな。そういう、一般人にはわからない治療をするからな。」
杉ちゃんが、あーあとため息をついた。道子は、杉ちゃんにそういうことを言われて、ちょっと悔しそうな顔をした。
翌日、道子はいつも通り病院に出勤した。午前中の診察を終えて、病院の食堂で食事をしていると、隣に座っていた、中村庸子という看護師が話しかけてきた。
「道子先生、今日はどうされたんですか?患者さんたちが道子先生は、いつも不愛想だけど、今日はもっと仏頂面をしているって、さんざん話していましたよ。」
「まあ、そんなこと言って、あたしはいつもこの顔よ。」
道子は、庸子にちょっと対抗するように言った。
「なにを言っているんですか。医者は患者さんに対して、もうちょっと優しくならなきゃいけないって、院長先生のお話もあったでしょう。先生、今日は何か機嫌が悪いですよ。何かあったんですか?」
庸子にそんなことを言われて、道子は、昨日あったこと、つまり杉ちゃんや由紀子にいわれたことを、庸子に話した。
「まあ、そういうことですか。でも確かに、道子先生みたいな医者には簡単なことであっても、あたしたちには、ものすごくかわいそうに見えてしまうことは、いくらでもありますよ。」
と、庸子は、にこやかに言った。
「道子先生は、患者さんに対して言葉がけが足りないんですよ。だから、そういう風に、言われちゃうんじゃないですか。」
「そんなこと言ったって、あたしはどうしたらよかったのよ。あの時の急な発作に対応するためだったら、そういうことをするのは、当たり前でしょ、医者として。」
道子は、コーヒーのスプーンをぐるぐるとまわしながら、そういうことを言った。
「そうなんだけど、昨日は、今から吸入すると、一言いえば、言い合いにはならなかったかもね。」
と、庸子が言う。そんなこと、どうやって身に着けられるのかと、道子が言うと、
「うーん、人が優しくなれるのはねえ、恋しかないわよね。道子先生も、好きな人でもできたら、きっと、優しくなれますよ。」
庸子がそういうことを言うので、道子は、ええ?と困った顔をした。まあ、道子先生も、誰か好きな日人でも早く作りなさいな、と、庸子さんは、中年のおばさんらしく、そういうことを言って、食堂を出ていった。
道子の勤めていた病院は、文字通り大規模な病院だった。それははっきりしている。だから、医者も看護師も大勢いた。基本的に、女医というものは、一般的に少ないのであるが、この病院では、女性の医師も多くいた。道子もその一人であるが、やっぱり女性医師は、病院に雇ってもらっている、という感じがしてしまうのである。やっぱりまだまだ、女性医師の立場が低いなあと、道子もほかの女性医師たちも、そういう愚痴を漏らしていたことがある。
その、女性医師の中で、ひときわ患者さんたちの間で、人気のある医者がこの病院にいた。名前を、入船陽子といった。道子におせっかいをした、中村庸子も入船陽子の下で働いている看護師である。
道子と、入船は、所属している科が違うので、道子は基本的に顔を合わすことはなかったが、その日、入船先生が呼んでいると、道子は、庸子に呼び出され、会議室に行った。
「どうしたんですか。入船先生。急に私を呼び出して。」
と、道子は、彼女に聞いてみる。道子は、この女性医師が、自分より女性らしくて、色っぽい一面を持っていると、言うのを感じ取った。
「あの、私が担当している、加藤さんのことなんですけど。」
「加藤さん?加藤さんという患者さんは、いっぱいいるじゃないですか?」
と、道子は、一瞬とぼけてしまった。
「ええ、あの加藤さんです。20代の女性の方の。今まで内科医の私が見ていたんだけど、ちょっと様子が変わってきたから、加藤さんの診察をお願いしたいの。」
20代の女性の加藤さんと言われても、そんな患者はたくさんいるじゃないか、と、道子は思った。
「加藤さんは、関節リウマチの疑いがあるんです。お願いできませんか?」
もう一回、陽子にそういわれて、道子は、ああ、わかったわよ、と、生返事をした。
しかし、なんで、あんなに人気者の女医が、私のところに、診察をお願いしに来たのだろうか。まあたしかに、膠原病の専門ではないことは確かだけど、勝手に担当医を変えてしまうなんて、患者さんは、面白くないはずではと道子は思った。
その翌日、加藤さんという若い女性が、母親と二人で道子のもとへやってきた、確かに、彼女は両ひざがいたそうだ。精密検査をしてみれば、足の炎症の原因がわかる気がする。
「痛みが出たのは、いつ頃ですか?」
道子が聞くと、母親が、
「ええ、一か月くらい前からです。今まで入船先生にシップなどをもらってきましたが、いっこうによくなりませんので。それに、どこかにぶつけたとか、足を打ったとか、そういうことは全くないんです。」
と、答えた。
「では、足のレントゲンと、血液検査をしてみましょうか。そこで、自己抗体が確認できれば、関節リウマチとして、治療を開始できますから。」
道子がそういうと、加藤さんはまだ不安そうだった。確かに、若い女性が、こういう病気にかかるといいうのは、あまり例がないので、不安なのだろう。
「じゃあ、レントゲン室の前で待っててもらえますか。」
と、道子は、加藤さん親子に、レントゲン室の前に行くように促した。加藤さんは、お母さんに肩を貸してもらいながら、レントゲン室まで歩いていく。歩く様子を観察すると、さほど、ひどいリウマチではなさそうだ。なんだ、よかった、と道子は思った。
数時間後、加藤さんのレントゲン撮影と、採血検査は終了した。
「うーんそうね。」
と、道子は、画像を眺めながら言った。
「膝の関節がちょっと変形していますね。自己抗体も少し認められました。あまり重症じゃないけれど、関節リウマチです。」
「では、あたしはどうしたらいいのでしょうか。」
と、加藤さんは不安そうな顔をしていった。
「そうですね、とりあえず、免疫抑制剤を投与してみましょうか。それで、様子を見てみて、痛みが出るようでしたら、また来てください。」
道子がそういうと、加藤さんは、不安でたまらなかったのだろうか?わっと泣き出してしまった。お母さんが、彼女にハンカチを手渡して、ほら、泣かないと言っているが、彼女は泣き続けている。
「加藤さんどうしたんですか?もう診察は済みましたよ。」
と、道子はそういったが、
「だって、入船先生は、とてもやさしい先生だから大丈夫だって言ったのに。こんなぶっきらぼうな先生だとは思わなくて、、、。」
と、加藤さんは言うのである。まだ二十歳前後の若い女性だから、そういうところに敏感になってしまうのだろうか。それとも、入船が、自分のことを変な風に紹介してしまったのか。道子も、加藤さんが泣くので、そう思ってしまった。
「まったく、入船という先生は、どうして、そんなに人気があるのかなあ。」
と、道子は、思ったことを口にしてしまった。
「新しい先生の前で、泣いちゃだめよ。一生懸命やってくれているんだから。お医者さんってのはえらいのよ。」
お母さんはそういうことを言った。道子は、ふっとため息をつく。とりあえず、処方箋を書いて、彼女たちには診察室を出ていってもらった。けど、彼女たちとこれからうまくやっていけるかどうか心配だった。若い女性というものは、同じ女性なのに道子は苦手だった。
「道子先生。」
また、食堂でぼんやりしていると、中村庸子さんが、道子に話しかけた。
「また何か悩んでいるのですか?」
「まあそういうことね。」
と道子は、またため息をつく。
「あの、新しい患者さんのこと?」
道子は、図星よ、とだけいった。
「まあ、しょうがないじゃないの。入船先生が、道子先生なら、必ず任せられるってそういってたわよ。だから、道子先生にお願いしたんじゃないの。」
と、庸子さんは言う。
「だってあたしは、患者さんに、こんなぶっきらぼうな先生はいやだって泣かれちゃったのよ。現実問題。」
「でも、道子先生、道子先生は、道子先生にしかできない治療があるじゃないの。それをちゃんとやって欲しいから、入船先生は、あなたに預けたんじゃないの。」
庸子さんにそういわれて、道子は、ちょっと変な疑問を思った。
「ちょっと待って、あたしにしかできない治療って何なのよ。ただ、科が違うというだけじゃないわね、そういうことを言うんだったら。」
「そうよ、道子先生は女性だからね。それを十分に引き出して、加藤さんの治療にあたって頂戴。」
庸子さんはさらりと言うが、道子は、おかしいと思った。あの、入船だって、女性ではないのか。髪を長く伸ばしているし、ひげもないし、声も自分と変わらない高さだし、、、。
「道子先生、知らないの?それじゃあ、患者さんにぶっきらぼうと言われてもしょうがないか。入船先生は、子供のころから、自分を女だと思っていて、完璧に女にはなれないんですって。もう、この病院で働いている看護師全員知っていることよ。だから、女性でありながら、女性でないってことで、完璧な女性の道子先生には敵わないんじゃないの。」
噂話が大好きな庸子さんは、道子にそういうことを言った。そんなこと。何も知らない。道子は、そんなこと初めて知った。
「だから道子先生、女性らしい目つきで、加藤さんの治療にあたってね。」
と、庸子さんは、にこやかに笑って、道子の肩をたたいた。そうだったのか、あの人気者であるはずの、入船先生が、そういう事情を持っていたのか。それでは、大変な思いをして、生きてきたに違いない。そういう事情を持っている人に対し、日本社会は決してやさしいとは言えないので。
「道子先生。ボケっとしてないで、早く午後の診察に戻ってよ!」
庸子さんに言われて、急いで道子は診察室に戻っていった。その日も、患者たちは、道子先生は、これまで以上にぶっきらぼうで、困ってしまったなあという話をしていた。道子は、いつもと同じように接しているつもりだったのだが、なんでか知らないけれど、患者たちは、そういうことを言い合うのだった。
道子は、患者さんの診察をしながら、やっぱり、膠原病の医者ではあるけれども、加藤さんは、入船先生に見てもらうのが一番ではないか、と、思ってしまった。やっぱり、波乱万丈の人生を生きていた、入船先生のほうが、自分より何十倍の徳を持っているような気がした。
そこで、道子は診察を終えると、こっそり内科の病棟へ行って、入船を探した。入船は、非常に熱心な医者であることは本当であるらしく、患者さんの診察を終えた後も、机に座って、何か書いているのだった。
「先生。」
道子は、入船に声をかける。
「ずいぶん、熱心なんですね。患者さんの記録ですか?あの、お願いなんですけど。」
「はい、なんでしょう。」
入船は、書き物をするてを休め、道子のほうを見た。
「お願いって何でしょうか?」
「ええ、あの加藤さんの診察、やっぱり入船先生が続けていただいたほうがいいのではないかと思まして。」
と、道子は単刀直入に言った。
「どうしてなんですか?」
そういう入船の声は、女性とまるで変わらないけれど、そういうことなんだろうと道子は思った。
「ううん、あたしじゃ、きっと入船先生に追いつけないとおもうんです。加藤さんは、あたしより、ずっと入船先生を信頼してくれていると思います。」
「でも、専門とする科が違うでしょうに。より専門性のあるお医者さんのほうがずっといい。」
と、入船は言うのであるが、道子は彼女のほうが、より大変だったのではないかと、にこやかに笑って言った。
「そうなんだから、入船先生は、入船陽子として、人気があるんじゃありませんか。あたしより、患者さんのことがずっと見えるんじゃないですか。今回は、あたしの負け。あの加藤さんには、あたしじゃ、ぶっきらぼうな、いやな医者に通わせることになるわよ。」
真の女性ではない、と、入船はいつもそれで悩んできたのだろう。そういうわけで、医者という職業に就いたのかもしれなかった。
「ほら、あたしたちは、医者じゃない。同じ医者なんだもの。だから、なんだって治せるわよ。その気持ちでいきましょう。」
そういうことを言われて、入船もそうねという顔をした。二人はにこやかに笑って、お互いの肩をたたきあった。
「あたしも、やっぱり、まだまだ、医者としてダメだわ。もうちょっと、柔らかくならなくちゃ。」
そういうと、ラスプーチンと言われた自分もちょっと恥ずかしくなった。もうちょっと、自分もガサツなところを直して、女性らしくしなければ。道子は、ラスプーチンと言われないように、もうちょっと、彼女から学んでおかなければと思った。
のちに、道子が、看護師に聞いた話によると、入船陽子は幼いころ入船陽と名乗っていたそうだ。彼が、いや彼女が、陽子と名乗るには、紆余屈折あっただろう。改めて、自分も、ラスプーチンではなく、女性と言われければならないと思った。
ラスプーチンと女性 増田朋美 @masubuchi4996
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