3
カミラが事前に眼鏡を外しておいて、本当によかった。床でひとしきり悶絶した後で、彼は突然動かなくなる。予想以上のダイナミックな動きに、正直全員が怯んでいた。言葉もなく見守っていると、テーブルの上へと這い出して来た。だいぶ顔色が悪い。ケルベロスが駆け寄って、懸命に顔を舐めようとする。
「ここはどこ? 僕は誰? 子犬の顔が三つに?」
どうやら脳も混乱している。眼鏡がないのに気がついたランドールは、おぼつかない様子でテーブル上の眼鏡を探り当て……たところで力尽きた。テーブルに顔を打ちつけてしまい、伏せたまま低く唸る。戦いで流れてしまった血までは元に戻せないため、十分でない状態だ。体が上手く動かないのだろう。
「僕はもう駄目だ。子犬の顔が三つに見える」
「大丈夫よ~。この子、最初から顔三つだから」
老婆となったカミラが、ランドールの前に来て屈む。彼は緩慢な動きで眼鏡をかけ、瞬きをして、外して、またかける。そして一言。
「誰だ?」
「カミラよ。サキュバスの情報屋カミラ。あんたの傷を治すために、こ~んなにお婆ちゃんになったのよ。責任取って、後できっちり使った分払いに来なさいよね~」
「払うって、何をだい? 治療代金?」
誰もすぐには答えられなかった。乙女の手前、口に出す単語を選ぶ必要があるからだ。ランドールは目に見えて狼狽え出した。恐らくは、大体予想はついてるがそれはちょっと困るな、というやつだ。
「えっ、ちょっと、何でみんな黙ってるのかな。何を?! ねえ!」
「サキュバスと言ったら、ほら……」
「生命力的な……?」
スーラントとドミニクは、好き勝手にふんわりとした事を言う。ニアは何とも言えない顔をして、遠くを眺めていた。
「そんなだっ、大事な事が関わる取引をさ、本人抜きで勝手に進めるのは、どどどどうかと思うよ!?」
こいつ童貞か? スーラントは言わないでおいた。多くの有性生殖生物にとって、その辺は非常にデリケートな話だと知っているからだ。それに、彼の言い分も一理ある。緊急事態だから仕方なかった。反省はしていない。
「そこの猫、哀れみの目を向けるのはやめたまえ! 僕はそれが一番嫌いなんだ!」
「も~そんなに喚かないで。頭痛くなっちゃう。いいわよお金で。足りない分はスーちゃんに請求するから」
カミラは渋い顔をして、眉間を押さえた。スーラントは滑舌よく即答する。
「嫌だ」
「すっごく不味いけど、食べられない訳じゃないしね~」
「やだああぁ」
思わず頭を抱えるスーラントだが、治療を頼んだ張本人なので強く抗議できない。このままではモグリの探偵ではなく、カミラ専属マッサージ椅子が本業になってしまう。スーラントには知性派スライムとしての誇りがある。椅子は嫌だ。カミラは涼しい顔で、放心状態のスーラントを手摺扱いしながら立ち上がった。
「あ~疲れちゃった。お婆ちゃんもう休むわ。あんた達、駄弁るならリビングにしてちょうだい。冷蔵箱の中身も食べたかったら食べていいわよ、いい子にしてるなら。シャワー室でも調理台でも貸すから、仲良く順番に使いなさいね~」
カミラは一方的に喋り続けながら、ゆっくりと後退し、カーテンで仕切られた店の奥へ消えていった。なぜだか、誰も口を挟めなかった。カミラが行ってしまったので、視線は流れて何となくドミニクへ。彼は気まずそうに視線をそらした。
「あっ、そろそろ我が輩、キトナ殿の所に行かねば」
用事を思い出したらしい。
『マジかーやったー。頑張れぎゃわあ!』
なぜか嬉しそうなローズの言葉は、途中で叫び声に変わる。棚から華麗に飛び降りた猫に捕まったのだ。また口で胴体をくわえられている。
「お主も行くんだが? むしろお主が重要なのだが?」
ローズは半泣きでニアを呼んでいたが、お嬢様は微笑むばかりで全然一大事とは思っていない。まあローズ以外は全員、全然一大事と思っていない。十中八九、公園へ戻って突入班の手伝いをする仕事だ。妖精情報網を使って、中央公園地下への入り口を探すとか。ニアは最終的に、頑張ってください、などと呑気に手を振る始末だ。かくして無情なドミニクによって、ローズは外へと連れ去られた。
騒々しい音が消え、残されているのはニアとランドール、ケルベロスだ。結局視線はスーラントに集まる。しつこくがっかりし続けている場合ではない。脱力感で溶けそうになっていたスーラントは、完璧な人間形態を何とか維持した。
「悪いがお嬢さんとケルベロスは、先に休んでてくれ。ランドール氏と二人だけで話がしたい」
「そうですか。行きましょうケルちゃん」
ニアは不安そうにしながら、ケルベロスを抱き上げる。……ケルちゃん?
ニアが振り返ったのは一度だけで、同じカーテンを潜り素直に客室へと歩いて行った。ごねられたらどうしようかと考えていたスーラントは、見届けた後で安堵した。二人で何を話すのか気になるだろうが、ニアが同席していると話しづらい事もある。主にランドールが。
カミラの店は、完全に閉店となった。玄関の明かりは全て消され、鍵もかけられている。木製のドアプレートは裏返されて、落ち着いた閉店の文字が夜の闇に沈む。しかし店内は、まだ明かりがついたままだ。雰囲気のある暖かい光が、天井から降り注いでいる。
「あなたには苦労をかけているね。妹の分まで、お礼を言わせてもらうよ」
二人の人間が、向かい合って座っている。金髪碧眼の高身長眼鏡男、ランドール。初代勇者の玄孫ニアの兄であり、若き警部で、正真正銘のヒューマン族だ。もう一人は、灰色髪のモグリ探偵スーラント。中肉中背で、平凡な顔をしている。実は人間に擬態しているスライムだ。
全く違う二人には、決定的な共通点が複数あった。ソファでくつろぎ、仲良く暖かい紅茶を飲んでいる。今日の戦闘による怪我を負っている。同じ事情があって、共に隠れている。連続少女失踪事件の犯人を探している。一歩でも解決に近づくため、顔を合わせて話をしなければならない。正直に。
「本当ですよ、全く。今まで何の説明もないのは、あまりに酷い。私でなかったら五回は死んでますよ」
「ごめんごめん」
ランドールは眉尻を下げて、表情筋を緩ませた。唐突に意外性を見せたって許されないぞ。ソファに体を埋めたまま、スーラントは腕組みをする。あの時はアルテマイシャもいたし、仕方なかったよな。とか言うと思ったか。などと考える。色々腹が立つが、スーラントはあらかさまに憮然とした顔をするだけに留めた。そんなに細かい事まで話している暇がないからだ。
「ところで、警部一人という事は」
「ロジャーは大丈夫。何とか逃がした。アルテマイシャも逃がしたけどね」
「ヨルダはどうなりました?」
「ヨルダは捕縛された、と思う。はっきり見届けていないから確証はない」
「なぜあなたは、職務を放置して東街まで逃げて来たんです?」
「僕がアルテマイシャに指示して無理やり少女の誘拐をさせていた、という話にしたい輩がいるようでね。キトナ達が縛り上げてくれている事を祈るよ」
ランドールは力なく笑う。スーラントは、人間が失った体液を補完するのにかなり時間を要するのを思い出した。万全でない体調を押して喋っていると、忘れそうになっていた。シャツについた血は乾き始めているが、ところどころ破けてボロボロだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます