「見てください先生。とっても可愛いですよ」

 しみじみしている内に、ケルベロスはちゃっかりニアの腕に抱えられていた。三つの首全てが清々しいまでのドヤ顔だ。うらやま……いや違った。ローズが威嚇する様子はない。妖精が犬は大丈夫で猫が駄目な理由は、有史以来謎に包まれている。

「こんな便利な首輪があるなら、最初から教えてくれよ」

「作成当初は嫌がって暴れたので、倉庫にしまわれていたらしい。だが、お主に使われるならいいと言ってな」

 よく分からない。黒い毛玉と化したケルベロスを連れて、三人と二匹は扉をくぐる。実は『カトレア』の扉は、物理的な鍵がついていない。許可された者だけを入れる魔法がかけられている。路地裏から店までの道にかけられているのと、ほぼ同じものだ。


 ドミニクは、店主が帰って来るまで一緒にいてくれるそうだ。今すぐに帰ったらハラルに怒られる、という理由もあるだろう。スーラントも気持ちは分かる。絶対に帰りたくない。

 『カトレア』にカミラの顔がないと、なんとなく雰囲気が違う。彼女が帰って来るまで何もできないが、くつろがせてもらうとするか。スーラントは勝手にカウンターへ入ると、来客用のお茶を拝借して皆に配る。犬と猫に水をあげるのも忘れない。すぐに重要な会話をする気分になれなかった。思い思いに休み始めてから、三十分ほどが過ぎた頃。突然、扉の向こうから女の声が響いた。ノックはない。

「開けて~! 誰かいるんでしょ~?」

 この特徴的に間延びした喋り方。カミラだ。

「自分で開けられるだろう」

 と、ドミニクが言った。

「お馬鹿ね~。両方の手が塞がってんのよお」

 スーラントとドミニクは、彼女を入れるために扉を開ける。予想外な事に、カミラは血だらけの男を担いでいた。眼鏡をかけた、背の高い、金髪碧眼の男だった。台無しになってしまった高そうなスーツ。体の各所に怪我をしており、意識がないらしい。嫌な予感がした。スーラントが顔を確認すると、まさかのランドールだ。



 呆然とする二人を尻目に、カミラは自力で来客用のソファまで辿り着くと、半ば放り投げるようにして寝かせた。サキュバスの腕力は、ヒューマンだとかエルフ女性よりはあるのだが、それでも大変だったのだろう。

「も~~重~~い! 身長高いわ手足長くてかさばるわ、……えっ、よく見たら顔も結構素敵じゃな~い? 気づかなかったわ」

 人が完全に気絶しているのをいい事に、カミラは言いたい放題である。何とか仰向けにして、眼鏡を外しテーブルに置いてやりながら。眼鏡による本人の怪我と、眼鏡自体の破損を防ぐためだ。視力が悪い人間にとって、眼鏡は高価で大切なものなので、ありがたい気づかいだ。それはさておき。



 カミラはソファから距離を取った。入れ替わりにスーラントが近づく。

「兄上……」

 ニアの囁くような声。彼女は心配しながらも、恐る恐るついて来る。スーラントが口に手を翳しながら胸部を確認すると、安定した息はしていた。ただし、かなり弱々しい。放っておけばマズいのは、医者でなくとも分かるほどだ。種類は、刃物傷、掠り傷、そして痣。アルテマイシャとやり合った時についたものと、逃走中についたものだ。一番出血の酷いところは、左脇腹。刃物による裂傷。破けた布切れをめくると、この部分の傷はすでに塞がっている。真っ赤に濡れているのはシャツだけだ。その他の傷もざっと確認したところ、毒や魔術の匂いはしない。


 大まかな確認を終えると、スーラントは頭を上げる。何か言いたげな視線に、カミラはすぐに気がつく。

「東街の外れで倒れてたのよ~。助けたらいい事あると思って、連れて来ちゃった」

 細長い尻尾を振りながら、冗談めかしてカミラは言う。手や肩に赤い血がついている。ランドールに怪我を負わせたのは彼女ではない、と分かっているが、ちょっと怖い。

「それに、ニアちゃんのお兄様だしね~」

「ありがとうございます、カミラさん。わたしを匿ってくれるだけでなく、兄上まで……」

 話を終わらせようとしてしまうニアを、スーラントは急いで遮った。ランドールには速やかな手当てが必要だ。しかし今は、包帯や傷薬よりも効率的な手がある。

「いや全く、本当ですね! さすがカミラさん! 美人な上に力持ち、凄まじい情報量。東街、いやアマルサリア一の情報屋! そんなあなたに」

 突然態度を変えてきたスーラントに、カミラは胡乱げに答える。

「一番ヤバそうなとこは塞いだわよ」

 まだ何も言ってない。わざとらしく持ち上げすぎたか。スーラントは一度咳払いをして、仕切り直した。

「そんな君に頼みがある。ランドール氏の傷を、全部塞いでやってくれ」

「ええ~~」

「この街を救うために、彼の力も必要なんだ」

 不満げな表情のまま、カミラは黙ってしまう。その瞳には、異様な圧が籠っていた。スーラントが頑張って目を反らさずにいると、根負けした彼女はこちらへ歩み寄る。そして、穏やかに口を開いた。

「スーちゃん。わたしがヨボヨボのお婆ちゃんになっても、変わらず愛していてくれる?」

 カミラはスーラントの右手を取って、両手で優しく握った。珍しく真剣な眼差しを向けてくるので、スーラントはつい視線を泳がせてしまった。

「えっ、いや……それは」

「はっきりした返事して」

「カミラの事は、友人として好きだが」

 スーラントの正直な発言に、カミラは満たされた顔で微笑んだ。

「わたしスーちゃんのね、肉欲ゼロの純粋な愛が新鮮で嬉しかったの。サキュバスには一生無関係のものだと思ってたから」

「カミラ。この人間を回復させたら、君は……死ぬのか?」

「いや死ぬほどじゃないけど~、かなりお婆ちゃんにはなる」

「じゃあやってくれ」

「酷くな~い?」

「時間経過で元に戻るだろう」

「そういう問題じゃないの~」

「君にしかできない事なんだ」

 スーラントは、カミラの手を握り返した。彼女は目を閉じ、少し悲しそうに小さく息を吐いた。



 カミラが再び、ランドールのそばへ立つ。両手を当てて十数秒後、結果は現れた。彼女が老婆へと変わって行く。みるみる内に指が骨張り、腕が痩せ、肌の皺が増える。艶やかだった金髪は、水分を失い色褪せていく。背中が曲がり、細くなる。信じられない速度で、生物が老いて行く。


 同じ存在とは思えないほど、彼女は変わってしまった。ほんの数秒で。スーラントは、周囲の人間以上に愕然とした。カミラがここまで力を使うのを初めて見た、というのもある。確かに時間経過で元に戻るが、そういう問題ではない部分もあった。あのまま枯れ果てて、動かなくなってしまったとしたら。スーラントは突然恐ろしくなった。生まれつき不老ゆえに、彼女が渋る理由が分からなかったのだ。実際こうして目にするまでは。スーラントは急いで、よろめいたカミラを抱き止める。

「カミラ、すまない。まさかここまでとは」

「いいのよ。最後に役に立ててよかった」

「死ぬのか?」

「まだ死なないわよお!」

 カミラの口から、やたら元気な嗄れ声が飛び出す。よかった。スーラントは彼女を抱きしめ、元気よくツッコミを入れるのであった。

「最後にって言うからあ!」



 ちょうどその後だった。空気を読んでいたかのようなタイミングだ。ランドールが大声を上げて飛び起き、その勢いのまま再び後ろへ倒れた。面白いほど七転八倒しながらソファから転げ落ちる。身体中の傷が一斉に修復されたため、肉体が混乱しているのだ。ニアの怪我とは程度が違うので、反動の痛みも大きい。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る