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やはり討伐されてしまうのか。スーラントには彼女への情があった。短いながらも、ニアと過ごした大変で愉快な思い出があった。本気の反撃はしたくない。怪我をさせたり、最悪の場合殺してしまうかもしれない。何とかしてどこかへ逃げる選択しかできなかった。しかし体が動かない。少し床を這っただけで、また力が抜けてしまう。
「動かないでください」
同じ調子の声。床が冷たい。スーラントは、目を強く瞑った。スライム状態の時目はついてない、なんて言ってはいけない。気分的なものだ。
重い衝撃があった。なのに体は痛くなかった。
「ニア様、何をしてるんですか。そいつは魔物なんですよ」
慌てた声を上げたのは、アルテマイシャだ。ニアはスライムの上にのし掛かっていた。網を掴み、聖剣の刃を使い慎重に縄を切っていく。理解のできない行動をした彼女を、スーラントは恐れた。何をしているのだろうか。勇者として魔物を殺す、そのために聖剣を抜いたのではなかったのか。ニアは何度も網を触るが、手が痺れている様子がない。ちょっとやそっとの魔法では効かないようだ。勇者は凄い。
「少し前のわたしだったら、あなたの言葉に思い直していたかもしれません。……もう、動かないでください先生。また燃えてしまいますよ」
後半の言葉はアルテマイシャではなく、スーラントに向けたものだ。鞘を少し触っただけであれだったのに、抜き身を触ったらどうなるかなど考えたくない。とんでもない。スライム危機一髪。おっと、ぷるぷるしてはいけないんだった。
しかしニアは、アルテマイシャが罠を仕掛けるのを咎めなかったのだ。ちょっとショックだ。思い直した彼女によって、スーラントは助けられているのだが。複雑な気分だ。考えながらも、網に集中しているニアの代わりに、アルテマイシャの動向を警戒する。今のところ、こちらへ近づいて来る気配はない。
「でもわたし、東街に数日いてみて分かりました。邪悪は存在そのものではなく、心に宿るものなんだって」
スーラントが固まっている間に、ついに全ての網が切り払われる。毒が触れている場所がなくなったため、今から回復に専念できる。
「彼はいつもわたしを気にかけ、守ってくれます。わたしには、やっぱり……この方が悪い人とは思えないです」
息をつく代わりに、スーラントは少し体を緩ませた。やれやれ。
「大丈夫ですか?」
さすがに少し怯えていたが、ニアはいつものように笑いかけた。半分スライム状態でスーラントは呆然とする。そのまま気が抜けて、完全にスライムへ戻ってしまった。
ニアは恐る恐る、こちらへ向かって手を伸ばす。避けるため体を凹ませると、苦労を知らない指先が追いかけてきた。小さな指の腹が、遠慮がちに動いているのが分かる。信じられない事に、彼女に撫でられている。人間は毛のない生き物を撫でないと思っていた。素朴な疑問が思念となって、体表面を流れて行く。
どうして。
「言ったでしょう? わたし、あなたが何者でも平気よって」
次にあなたに出会った時は、絶対にこうしようと心に決めていた気がする。
核が砕け散るかと思うほどの衝撃が走った。彼女のしっかりとした言葉を、微かな思念を聞いた瞬間だった。若者故の軽い発言と思っていたのに、まさか本気だったとは。スーラントが人間形態だったら、胸の辺りを押さえてうずくまっていたところだ。今はスライム形態だったので、なめらかな球体状に縮こまっただけでいる。人間の形でないがゆえに、恥ずかしい行動を見られずに済んだ。皮肉なものだ。勇者の少女はスライムを撫でながら言った。
「あなたには何度も助けてもらいました。今度はわたしが助けます (ひんやりして、柔らかくて、気持ちいいですね。寝苦しい時のクッションになってもらいたいわ)」
直接触られている事で、またうっかり彼女の思考まで伝わってしまった。冗談なのか、天然なのか、ちょっと判断がつかない。胸が痛い……これが、恋? まあスライムには心臓なんてないのだが。
「冗談を言ってる場合じゃないですよ。ここを突破しましょう (人間以外にも変身できるのかしら?)」
ニアの言う通りだ。ふざけている場合ではない。体が痺れて動けない状態でなければ、すぐにそうしたいところだ。彼女だけではアルテマイシャに絶対負ける。思考がだだ漏れなのも気まずい。あともう少し時間があれば。
「おやおや、モグリの探偵君は危機的状況が好きだね」
出会った時と同じような状況、聞き覚えのある声。こんな言い方をする知り合いはただ一人だ。急ぎ顔だけ作って見れば、案の定ランドールだった。ロジャーも後から追いかけて来ている。
「それとも、危機的状況が君の事を好きなのかな」
「ヴァルグレン警部。あなたはここへは来ないはずだ」
返事をしたのはアルテマイシャだった。声は固い。対するランドールは、わざとらしい微笑みを浮かべたまま答える。
「君が招待してくれたパーティーは抜けて来たよ。せっかく用意してくれたところ悪いけど、君に会いたかったからね」
ランドールは気障な冗談を交えて喋りながら、余裕綽々とした足取りでアルテマイシャを通り過ぎる。両者の間へ立つと、アルテマイシャへと向き直った。ランドールの真意は分からないが、アルテマイシャを牽制しようとしている。助かった。彼が来てしまえば、アルテマイシャは立場上手荒な真似はできない。いつまでもシュールな姿ではいられないから、今のうちに体も作ってしまおう。スーラントは、人間への擬態作業を急いだ。
「君の仕事は、連続少女誘拐事件の犯人を捕まえる事じゃなかったかな」
「俺は魔物を確保しようとしただけです。こいつはヨルダと面識がある可能性が高い。自由にさせておくのは危険です」
「それは知っているよ、君の報告にあったからね。だけど、ああ……こう言えば分かるか。君が最後にいた場所から出た時間と、ここへ来た時間、今日は記録してある。新鮮で明確な魔素痕もね」
「はい、バッチリでーす」
ランドールはロジャーと視線を交わした。ロジャーが勝ち誇った様子で右手を上げる。謎の装置に透明な鉱物が入っており、赤い靄が閉じ込められていた。スーラントは一度も見た事がない。また人間の便利道具だろうか。
「何だそれ」
「よくぞ聞いてくれました! これぞ人類の最新技術。現在の技術限界まで無属性化処理をされた精霊結晶、えげつない魔素吸着率を誇るえげつなくお高い採取キット! これを鑑識に持ってけば、この空間で誰が何の魔法を使ったか分かるし、最大一ヶ月前までの魔法使用記録を遡れるっす!」
「丁寧な説明ありがとう。早く隠した方がいいぞ」
そんな大事な物をアルテマイシャに壊されたら、振り出しに戻ってしまう。なぜなら彼は今、そいつだけは絶対に許さない! 俺の故郷を燃やした魔王の手先め! みたいな目をしているのだ。
「お前……」
「オレがまさか児童書コーナーに隠れているなんて、夢にも思わなかったようっすね!」
アルテマイシャの迫力にも動じず、ロジャーは謎の決めポーズをする。結果、見事全員からスルーされた。スーラントはポーズを知らないので突っ込めなかった。そもそも、周囲を警戒しながら服を着るので忙しい。ニアが苦笑いしているところを見るに、有名な児童書ヒーローのポーズかもしれない。
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