彼はいつものように、立場の危ういスーラントの心配をする。だが今日は、少し違う印象を受けた。彼の苛立ちが伝わってくる。結果が出せない事に焦っているのか。

「今なら俺が逃がしてやれるぞ。どうだ」

 予想外の言葉だった。アルテマイシャの真意が、いよいよ分からなくなってくる。

「受けた仕事は最後までやりたいし、この街にはもう少しいたい」

「いいんだな?」

 スーラントは肯定する。特に悪い事はしていないのに、取り調べされている気分だ。ついつい忘れがちだが、アルテマイシャも刑事なのだ。スーラントは取調室のお世話になった事は……まあ、多少ある。この三年間で数回程度は。探偵としての仕事中に、ちょっとした面倒に巻き込まれて。刑事は怖いし、部屋は薄暗いし、カツ丼どころか水も出なかった。

「あー、話を、変えていいか。一回ランドール氏と、一対一で話してみたいんだが」

 少し迷ってスーラントは、これも今聞くべきと判断した。ニアがいない時でないと、答えづらいかもしれない。ついでにそろそろ、緑スライムを逃がしてやった方がいいかもしれない。この状況に居心地の悪さを感じて、外に出ようとうごめいている。スライムは高い知覚能力を持つゆえに、環境の変化に敏感なのだ。

「やめとけ。実際彼はかなり怪しい」

 そう来たか。

「反社会的な人間と、たびたび密会をしているらしいぜ。星祭も近いし、何があるか分からんぞ」

 反社会的な人間とは、ハラル達の事を指しているはずだ。ハラル達の話でランドールが接触して来たのは分かっているし、ニアからも聞いた。スーラントは曖昧な相槌で返事をした。それからようやく、彼が一番して欲しいであろう質問をする。

「私達が中央公園地下を探っていると、なぜ知ってるんだ?」

「さっきニア様から聞いた」

「そのわりに一緒にいないな」

 アルテマイシャは面食らった顔をした後、盛大にため息をついた。

「……ここ男子トイレだぜ?」



 アルテマイシャがやれやれと、首を振りながら背を向ける。出口に向かったその隙にスーラントは、超速で緑スライムを逃がしてやり、掃除中看板を片付けると、石鹸でしっかり手を洗って、ハンカチで丁寧に手を拭いて、ポケットから出した黒手袋を嵌め直す。超速で。スーラントにとって、手袋は手洗いの次に大事だ。擬態時はスライム特有の感覚を手に集めているので、手袋で保護しなければならない。鏡にはいつもと変わらない、灰色髪の平凡顔ヒューマン男性が映っている。

 擬態にも手袋生活にも、すっかり慣れた。だが表面上をいくら似せても、スーラントは人間にはなれない。別に人間になりたい訳ではないが、共に暮らしたいとは思う。この感情があるのは、親代わりの黒エルフ女性と過ごしてきたからだ、とスーラントは解釈していた。魔物は人間に危惧される存在だ。魔物は人間の仲間にはなれない。魔物は人間に剣を向けられる。なのに人間を守ろうとするのは、なぜだろうか。どうもそれだけではない。大切な何かを忘れている気がする。行くぞ、とアルテマイシャが声をかけてくる。少しぼんやりしていた。



 男子トイレの前には、確かにニアがいた。アルテマイシャの言う通りだ。入り口近くの壁に寄りかかっていた彼女は、二人が出てきたとたんに慌てて離れる。その行動ですぐに、会話に聞き耳を立てていたと分かった。ニアは、不安そうにアルテマイシャを見て、次にスーラントの顔を見る。全部は聞こえてはいなかったはずだが、ちょっと揉めている空気くらいは察したはずだ。男性がトイレで長話など滅多にない事だ、という人間達の通説があるとも、スーラントは知っている。

「長かったですね」

「話をしていた」

 トイレはそもそも、誰かと長話をする場所ではない。何分も経っているはずなのに、一人としてここへ来ないのも気になる。人間ってそんなにトイレ行かないものだったっけ。スーラントは訝しんだ。匂いと気配に集中してみると、曲がり角の先でただならぬ存在を複数人感知した。トイレに繋がる道は、この図書館では一本しかない。なるほど包囲されている。ロジャー達かもしれない。

「情報交換をするなら、場所を移動しようか」

 スーラントの提案に、しかしアルテマイシャは首を振った。

「その必要はない。お前の任務は今日で終わりだ。ニア様をこちらへ渡してもらおう」

「ずいぶんと急だな」

 アルテマイシャのその一言で、スーラントが取る行動は決まった。気がついていない風を装いながら、どうやって逃げるかを考え始める。

「先生……」

 突然の展開に驚いたか、ニアは二人の顔を見比べる。どちらへついて行けばいいのか分からないようだ。残念だが、これは彼女の意思で選べる物事ではない。丁寧に説明している時間もない。ニアは手を伸ばせばすぐ届く距離に立っている。その条件はアルテマイシャも同じだ。スーラントが指先ひとつでも動かせば最後、彼はすぐに彼女の保護へと動くだろう。

「無理か」

「無理だ」

「理由は」

「どうして」

「依頼主の口から聞いてないのでね」

「その依頼主から言付かって来た、と言ったら?」

「今回に限って、どうも君は信用ならない」

「そうかよ。実は俺も同じ事を思ってる」

「俺達も、の間違いでは?」

「お前の鼻は犬並みだな」

「いいや犬以上だ。見くびるなよ」

 とか言ってカッコつけた直後だった。上から何かが落ちてきたのは。先ほどまでの勢いはどこへやら、スーラントは無様に転んだ上に情けない悲鳴まであげてしまう。

「いててて!」

 勝てる確信がないのにカッコつけるんじゃなかった、と後悔するスーラントだった。もがいている内、先ほど自分に被さって来た何かを掴んだ。すぐに目視で確認する。これは大きな網だ。力任せに外そうとするスーラントだったが、案外頑丈だった。もがけばもがくほど絡まってしまう。凶悪魔物を捕獲するための罠だ。網が触れた部分が赤く変色し、煙が立ち上り始めた。事態は更に悪くなり、痛みと共に体から力が抜けて行く。スーラントは弱々しく呻いた。本当は大声で抗議したいのだが、力が出ないから仕方ない。

「ええーっ、ちょっと、どういう、事だ」

「無駄だ。その縄には呪縛魔法が練り込んである」

 アルテマイシャの声がする。痛いのはまあ我慢できるが、形を維持できなくなってきた。人間が突然銀色になって溶けていくなんて、人間からすれば恐怖映像だろう。あまりにまずい。スーラントの頭部は完全にスライム化し、そして言葉を失った。

「やはり本当に……。ああ、だからか。お前って奴は」

 アルテマイシャが悔しげに、一人で何かを納得している。スライムには人間のような視覚がないので、二人がどんな顔をしているのか分からない。感情なら伝わってきた。動揺、恐怖、戸惑い。自分と同じだと、スーラントは思った。最低限の人型を維持し続けるのも限界に近い。上着を引き寄せて被ってみるが、当然それでは隠れられなかった。



「ごめんなさい、先生」

 悲しげな少女の声。すぐ近くで聖剣の気配がする。ニアが抜いたのだろう。鋭い魔力の流れが体表面に触れる。スーラントへと切っ先を向けたらしい。


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