今の内に用具棚を調べ、掃除中の看板を表へ出す。こういうのはスピード、そして堂々とやるのが大事だ。中に入ってすぐに、排水溝を探した。水道管や壁の内側には、高い確率でスライムがいる。彼らなら重要書類のありか、つまり書庫へ行くための道筋も知っているだろう。どこまで広いか分からない中央公園地下と違って、図書館くらいの規模なら把握できる。実際来てみたら思いの外建造物が大きかったが、まだ許容範囲内だ。

 スーラントは手袋を両手とも外すと、ポケットにしまう。そして、トイレの床に服がつかないよう注意しながら屈んだ。右手を変形させると、たちまちそこだけ本来の色が現れる。もちろん痛みはない。これが本来の自分だからか、部分的な解放感すら感じる。銀色の触手を絡ませ、排水溝の蓋を外す。スーラントは周囲を警戒しながら、触手を少し排水溝へ入れた。図書館に住んでいるであろうスライムへ、声なき声で呼びかける。一度、二度。三度目で成果は現れた。緑色の不定形生物が、少し窮屈そうに穴から這い出してくる。大きさは拳大。声の主を探して、床をぺたぺたと触り始めた。

「……よしよし。いい子だ」

 スーラントはスライムを優しく手に乗せると、排水溝の蓋を戻した。引き続き周囲を警戒しながら奥の個室へ入り、念のため鍵もかけておく。紳士がトイレでスライムを手に乗せて微笑む、なんて様子を人間に見られるとまずい。ヤバい奴だと思われてしまう。

「さてと、」

 便器の蓋に座って、再び心で語りかける。緑のスライムから、建物の構造情報を受け取るためにだ。図書館のスライム達が形成した情報網が、スーラントの核に入って行く。しかし突然のノック音で、スーラントの思考は乱される。また最初からやり直しになってしまった。いいところだったのに。返事をせずに無視していると、もう一度ノックされた。緑のスライムが、スーラントの手にしがみついて震えている。逃げないよう宥めながら、もう片方の手を添えた。

「入ってますよー」

 トイレ目的なら、他の個室へ行けばいい。わざわざ一番奥の、鍵が閉まっているここへ来たという事は。つまり別の用がある。足音はいったん遠ざかったが、ほどなくして再び近づいて来た。固いものを引き摺るような音と共に。スーラントは右を見て、左を見て、そして上を見る。



 視線が会った。悲鳴は我慢できたが、びくりと体が震えてしまう。亜麻色の長い睫毛、青い瞳の中の赤い瞳孔。そしてシスター服。ドアの上から、見知った女の顔がこちらを覗き込んでいる。トイレのドアは高めなので、人間の頭など出るはずがない。台か何かに乗っているのだろう。用具棚を開けた時、確かにひとつあった。換気扇を掃除したり、天井の灯りを取り替えるための台だ。マリア……いやヨルダは、目が合っても無言だ。瞬きもせず目をかっぴらいている。

「あの……ここ男子トイレですよ……」

 仕草どころか中身までヤバい奴、現る。顔つきが恐ろしすぎて、びっくりするほど声が小さくなってしまった。静かな場所だから聞こえるはずだ。だが、問題はそこではない。ヨルダがいつから図書館にいたかと、今まで何をしていたか、それから何が目的でスーラントの元へ来たかだ。

「燃やしてないだろうな」

「燃やしてないだろうな?」

「図書館は火器厳禁、っていうか」

「人間共の村を燃やしに行くのを、今日もお許し頂けないと仰る?」

「えーと、はい。もちろん否定の意味で……」

 相変わらず言っている意味が分からないが、物騒な疑問形だったのでとりあえず否定しておくスーラントだった。納得してもらえたのか、ヨルダの頭が下がっていく。彼女の姿が見えなくなって、やけに静かになった。ドアを開ける勇気はない。トイレの個室は逃げ場がないし、まだヨルダはそこにいる。

「あなたはなぜ、人間を守ろうとするのです? そんな事になったのに」

 思いがけない質問に、スーラントは戸惑った。彼女が意味の分かる事を言ったのは初めてだ。返答に詰まっている間に、ヨルダの気配は消えてしまった。代わりに近づく別人の匂いは、スーラントのよく知る男のものだ。しかし一瞬で現れたのではなく、入り口から歩いて来た。扉の前で、足音が止まる。



 慎重に扉を開けると、案の定アルテマイシャが立っている。気位が高そうな顔をして、黒髪を気取った形にまとめた、黒エルフの刑事だ。ちょっと険しい顔だが、それ以外はいつもと変わらないように見える。帯剣などの基本装備はあるものの、魔道具の類は持っていなさそうだ。ヨルダが突然去ったのは、恐らく彼の気配に気づいたからだ。

「中央公園地下の地図は、どこにも存在しない」

 アルテマイシャは口を開くなり、小声で要件のみを話す。スーラントは黙っている。同じ調子で彼は続けた。トイレで緑のスライムを大切に持っている事に、何もツッコミがない。

「探してるわりには、中央署に来なかったな。多分、その選択は間違ってないが」

「それはそうと君、なぜ空間転移能力を他の人間に隠してるんだ」

 予想外の質問に、アルテマイシャは当惑した。探し物をなぜ知っていると質問されるか、地図についての話が続くと思っていたのだろう。普通はそうだ。普通この辺で、緑スライムについてのツッコミも入れる。緑スライムはというと、アルテマイシャに向かって体を伸ばし匂いを嗅いでいた。この時非常に強いヨルダの匂いを捉えたので、スーラントは身動ぎする。

「……禁術だからだ。俺は由緒ある家の末っ子として産まれてる。しかも父親を除いてたった一人の男。魔物には分からないだろうけどな」

「スライム野郎になら、気にせず見せられると」

「お前は友人の秘密をバラさないだろ? 俺がお前の正体を、回りにバラさないのと同じようにな。それにこの力は、人類のために使うと決めてる」

 先行して釘を刺された。案外すらすらと答えるものだ。素直にそう考えているのか、聞かれたらこう答えると以前から決めていたのか。友人を疑うような質問をするのは、魔物でも気が滅入る。アルテマイシャは、こちらの疑念にそろそろ気づいている。

「じゃあ逆に聞くけどな。お前ヨルダと知り合いか?」

 アルテマイシャは突然距離を詰めてきた。彼は扉に手をかけ、閉められないようにする。驚いた拍子に落ちそうになった緑スライムを、スーラントは捕まえ直す。スライムが人間を気絶させるのは容易だが、人間がスライムを気絶させるのは難しい。友人に手刀を食らわせて逃げる選択は、あまり気が向かない。

「どうしてそう思う?」

「奴の事は昔からよく知ってる、みたいな言い方をする時があるぞ」

「……私にも分からない」

 アルテマイシャは無言で圧をかけてきた。はぐらかそうとしている訳ではなく、本当に知らないのだ。あらかさまに不満そうな顔をされても困る。

「お前の任務は公のものじゃない。外から見れば、お前も十分疑わしい立場にあるんだ。言動には気をつけた方がいいぜ。魔物なら余計な。都合が悪くなれば、人間はお前を裏切るだろう。絶対に」


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る