ケルベロスは、この隙を逃さず飛びついてきた。悲鳴すらも忘れたニアが、ただただ顔を覆う。重量級の突進でソファが吹き飛び、テーブルがカチ割られ、仕事鞄がすっ飛んだ。スーラントは軽々と引き倒される。猫に襲われる妖精の気持ちって、こんな感じなんだな。と考えた瞬間、ローズのドヤ顔が脳裏に過った。何だ今の。迫り来るケルベロスの顔。というか鼻。うわヨダレが鼻水が。



 あっ死んだ。



 ……かと思われたが、スーラントの頭に当たった感触は牙ではなかった。もっと柔らかく、湿ったものだ。どうやらスーラントは、ケルベロスの舌で舐められている。大きさが大きさなので、くすぐったいと表現するには荒々しい。スライムには頭蓋骨がない。そもそも、脊椎動物のように硬い骨を持っていない。顔にありえない皺が寄るため、その度に急いで形を戻すのが大変だ。スライムにはスライムにしか分からない苦労がある。

「どうしたケルベロス、その男を食っちまえ!」

 おっと魔獣ケルベロス、三つの頭でひとしきりペロペロした後は腹を出して寝転んだ。尻尾まで振っている。主人の命令はガン無視だ。

「なんでだ? 魔王城の門を守っていた、あのケルベロス(の末裔)だぞ。俺の言う事しか聞かないはずだ。あんたもしかして、凄腕の魔獣調教師だったりするのか?!」

「私にそんなスキルがあったら、サーカス団に入って超絶人気者になっているはずだ。なあ、友よ」

 よだれまみれの顔を拭きながら、スーラントは立ち上がる。ニアが慌てて走り寄ってきた。無事を確認するなり、彼女はハラル・ギウスを再び睨みつける。いきなり先生に猛獣をけしかけた事、獣に人を襲えと命令した事、その二つについて怒っているのだ。とスーラントは予測した。分かるぞ。自分もそう思っている。

「なんて酷い人なの」

 美少女な上に心優しい。まさに聖女。腰の剣で魔物を燃やすとは思えない。

「先生の捜査に非協力的態度を繰り返し、推理の邪魔をするなんて」

「そっち?」


 落ち込むついでにスーラントは、再びケルベロスへと目を落とす。いまだに腹を見せたままで、三つの首が敵意のない瞳で視線を返してきた。もう全然、人を食う凶悪魔獣って顔をしていない。犬だ。首輪が似合う雄の犬。中央の頭が耳を前に向け、両目の上の髭を時々動かす。どうやら何かを期待している。

「お……おすわり……?」

 ケルベロスは静かに起き上がる。そして、スーラントの前で姿勢よく座り直した。

「……おて」

 スーラントが手を差し出すと、迷わず右の前足を乗せた。成人男性の掌よりもずっと大きい。肉球は固く、間にごわごわとした毛が生えている。

「…………おかわり」

 ケルベロスはすぐに、左の前足を出した。今のところ、全部忠実にこなしている。ケルベロスは一度忠誠を誓うと覆さない、とても気難しい魔法生物だ。たとえ敵を欺くつもりでも、ここまでの振る舞いはしない。つまりケルベロスは、最初からハラル・ギウスに忠誠を誓っていないのだ。マフィア達が餌をくれるから、ある程度言う事を聞いてやっている程度と言える。ケルベロスとは初めて会ったはずだが、スーラントへの忠誠心は本物だ。何でかさっぱり分からないが。

「自慢の番犬も、正義の名探偵に従いたいと言っています。さあ、観念して悪事を白状なさい。ネタは上がっているんですよ!」

 ニアは叫んだ。訳が分からない台詞を。堂々と足を開き、指さしまでしている。渾身のドヤ顔をしているが、カッコいい決め台詞のつもりだったのだろうか。そもそも探偵と正義は、必ずしもイコールではない。すぐに終わってくれればスルーできたのに、彼女は最後にこちらを見る。力強く。スーラントは、かける言葉が見つからなかった。



 かくして、何でかさっぱり分からないがケルベロスは謀反した。何でかさっぱり分からないが強力な味方をつけたスーラントは、ハラル・ギウスを尋問する事にした。まず彼の命の保証と引き換えに、これ以上の人を入室させないよう指示させる。従者の若者には、まだ君の命の保証はしていないなどと脅す。仕事鞄を持っているニアに、呪いのかかった特殊な縄(自前)を取り出してもらう。従者にハラル・ギウスを椅子へ縛れと指示する。これでとりあえずは安心だ。妙な動きをすればケルベロスが睨むのだから、二人は逃げ出せない。スーラントは縛り目に細工がない事を確認してから、落ち着いた様子で向かい側に腰かける。


 ニアは縄を出した以外、何もする事がなかった。と言うよりもどうしていいのか分からない様子で、すっかり大人しくなったケルベロスをおっかなびっくりモフっている。ララシルってそんなに面白いのかなあ、などと話しかけながら。やはり毛の生えた生き物は人に好かれるな。スーラントは想像力を働かせる。表面に毛の生えたスライムとかどうだろう。……気持ち悪いか。



 話を戻そう。スーラントは、彼女に尋問を手伝わせる気はなかった。勇者は、聖人や騎士と同様の立場だからだ。そして探偵は正義の味方ではない。悪人を裁かず、揉め事の平定もしない。ただ真実を暴く事を目的とする。物事に向き合う時の姿勢が、勇者とは根本的に違うのだ。まあ、モグリなのだが。本物の探偵はこんな事はしないかもしれないが、物語に出てくる探偵らしいかどうかはスーラントにとって重要ではない。まあ、モグリだからね。

「さて、」

「俺はハメられたんだ! 最後あんたに罪を被せて終わりにするって、聞いてたのによぉ!」

 スーラントが質問する前に、ハラル・ギウスは叫んだ。ハメられた、か。スーラントは軽く顎に手を当てる。つい最近、どこかで同じ言葉を聞いた。アルテマイシャだ。

「あれは俺が、風呂上がりに自室で一杯やりながら、伝説のララシル八巻を読んでいた時だった……」

「何日にララシルを読んでたんだ? 今月の話か?」

「伝説のをつけろ伝説のを。あの回は凄かったんだぜ。なにせ」

「伝説の、ララシル八巻ね」

 話が長くなりそうだったので、スーラントは急いで遮った。

「二週間くらい前だった。その日は偶然、窓の鍵を閉め忘れていた。いつの間にか男が後ろに立っていてな、取引を持ちかけられた。こっちの状況のある部分を何かいい感じにする代わりに、指定の子ども達を指定の場所まで連れて来いってな」

 ハラル・ギウスは、ぼかしを加えまくった。しかしスーラントが問題視するのは、そこではない。全て正直には話せないだろうし、マフィアの言う好条件など大体想像がつく。必要な情報は、誰が、何のために、とかだ。

「本当に男だったか?」

「間違いない。男だった」

 有性生物が断言するのだから、その通りだろう。実はスーラントは、人間の雌雄を判別できない時も多い。ドワーフは特に、背が小さいし顔も若く見えるので。最近の若いドワーフは、古い慣習ダサいとか言って髭を伸ばさない。

「それで、誰なんだそれは。種族は?」

「俺も分からん。話す内容からしてサツ関係っぽかったが」

 スーラントとニアは、ほぼ同時にお互いへと視線を向ける。やはり、危険を承知でここへ来てよかった。

「相手が誰か分からないのに取引したのか」

「上手い話だったんだ。それに、俺の首には短剣が当たってた。ぴったり動脈のところに。あんたもほら、分かるだろ?」

 分からなくもない。少々危険が多すぎるが、彼らの取引にはいつだって複雑な事情がある。

「何のために?」

「それは教えられてない。俺達にとって、そこは重要じゃねえ。取引の内容はいいし、仕事の援助もしてもらえるからな。その代わり、そっから先は一切の口も手も出すなと」

「ちなみに、ヨルダ脱獄囚とはどういう関係だ?」

「関係なんかねぇよ」

「ララシル・コレクションの数々、どうなってもいいのかな? 妖精を使えばどこにあるかすぐに分かる」

「本当に知らねえ! 拐う子どもを指示してくるだけだ。あいつは多分、別の用がある。俺達がしくじったら始末する用じゃねぇのか」

「それにしては過剰戦力すぎるな」

 スーラントは冗談に冗談を返し、背もたれに寄りかかりながら腕組みをした。尋問対象から、目を離さないよう気をつけながら。子ども探しとマフィアの始末など、凶悪魔物を脱獄させてまでやらせる仕事ではない。


 ハラル・ギウス達に与えられた仕事は、数人の子どもを指定の場所まで連れて来るだけ。それ以外の責任は負わなくていいし、それ以外の面倒も降りかからない事を約束すると。そう言われたのだ。実行犯に与える情報は、なるべく少ない方がいい。誰かに捕まって、口を割られると面倒だ。ちょうど今のように。何かとんでもない企みが隠されていそうだ。

「指定の場所とはどこなんだ」

 スーラントは一応尋ねた。ハラル・ギウスはこう見えてお喋りな男だが、軽薄ではなかった。上手い話には裏がある事が、体の古傷と共に深く染みついていた。

「ガキ共の引き渡し場所じゃねえだろ? あんたが本当に聞きたいのは」

 ハラル・ギウスはニヤリと笑った。ああ彼の反撃が来るな、とスーラントはピンと来た。ケルベロスが睨むだけでは、どうにもならない反撃が。


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