第二節 愛と勇気と露骨に輝くエグいもの

「ごめんなさい。さっきは。全員死ぬところだったのに」

「気にするな。生きるか死ぬかの時に、気分がやたら高揚する事はよくある」

「また助けてもらっちゃった……」

「それが私の仕事だ」

 ニアのテンションが落ち着いた頃には、スーラントの傷もだいぶ癒えていた。そして彼女と同じように、しっかり腹が減っていた。スーラントは、上半身に刻まれた傷跡を撫でる。完全に治るまで数日はかかるだろうが、もうそれほど痛くはない。街では目立つので、上着のボタンを閉めて隠した。スーラントは立ち上がる。

 書類の入った鞄を、ニアは慌てて引き寄せた。ローズは心ここにあらずといった風に、ふらふらと飛んでいる。スーラントが視線で促すと、ローズは慌ててニアの服に捕まった。一言断りを入れてから、もう一度ニアを担ぐ。下の路地に人気がない事を確認して、一息に飛び降りてしまう。登った時に比べれば、遥かに楽だ。ヤバい奴に追われていないからね。





 何事もなかったかのように歩き出したスーラントを、ニアが追いかける。彼女はちらちらと、負傷した辺りを気にしていた。ニアは人間で、スーラントはスライムだ。スライムにとって、誰かに追いかけ回されたり、突然刺されたりするのはよくある。他の魔物は知らないがスーラントはそうだったし、この頃はすっかり慣れていた。だが、平和な街で生きる子どもからすれば衝撃的だろう。ニアはなるべく、いつも通りになるよう努めていた。道行く人からスーラントが不審に思われないように。

 そう、不審に思われるのはニアではなく、スーラントの方だ。彼女はスーラントと違って有名人だから、市井の人間は多かれ少なかれ気にかけている。しかし上流階級は落ち着いていた。ニアに気づいても、迷惑をかけまいといつも通りの生活にそっと戻って行く。


 周囲にヨルダの気配はない。さすがのヨルダも、人混みを巻き込んでまで二度目の襲撃はして来ないだろう。理性があれば、だが。次に彼女が襲って来た時どう返り討ちにするか、考えておかなければならない。

 ヨルダの声は、ニアに聞こえていなかった。だが空耳にしては鮮明だった。理性を失っていたはずの彼女と、何故会話できたのだろう。次会った時は会話が成立するだろうか。彼女にはまだ、聞きたい事がたくさんある。

 そういえば。スーラントは、マリアの体を投げ飛ばした時の感覚を思い出す。ヨルダはマリアの体を奪ったのではなく、外側を包み込んでいるようだった。東街教会の時は、マリアの意識がまだ表面にうっすら残っていたのではないだろうか。マリアのような敬虔なシスターを、完全に乗っ取るのは容易ではない。全盛期のヨルダなら秒でできたかもしれないが、今はかなりの力を失っている。あれでもだ。マリアの魂はきっとまだ無事……今、ニアが何か言った気がする。

「え?」

「だから、何食べたいかって」

「その事か。君に任せる」

「分かった、ついて来て。……傷はもう大丈夫なの? 前みたいに自力で治してるのかしら」

 何気ない雑談をするように、二人は小声で喋り続ける。

「気づいていたのか。最初から」

「当たり前でしょう。あなた、わたしの剣を少し持っただけであんな事になったのよ」

「なら、どうして一緒にいる事にした?」

「あのアルテマイシャさんが、あなたを凄く信頼してるみたいだったから。あと、面白そうだったから」

 スーラントは答えなかった。自分から聞いておいてどうかと思うが、気まずかったのだ。

「それに、あなたは安全」

「そう思う理由は?」

「この街であなたみたいな人がそんな生き方をするには、中央の恨みを買わない必要があるから」

 確かにスーラントは、彼女を傷つけるのを恐れている。肉体的にも、精神的にも。彼女だけでなく、多くの人間に対してはそうなのだが。だがニアの言う通り、善意だけでここまでできる訳がない、と思う方が普通だ。何故こうしたがるのか自分でもよく分からないが、人間と一緒に長らく暮らしてきたからだろう。それに護衛の仕事を遂行できれば、これ以上ない箔がつくのも確かだ。

「なるほどな。だが、我々にも善意の心がある事をお忘れなく」

「もちろん。ここ数日で二人も見たもの」

『あたしを忘れてもらっちゃあ困るよ』

 すかさず、遠慮のない妖精の声が飛んでくる。

「そうだ。もう一人いたわ。でも、妖精はどちらかと言うと人間の友達とか、悪戯な隣人って感じよね」

 ニアは顔のそばを浮遊するローズと笑いあった。彼女はアイスブルーの瞳を、スーラントの方へ向ける。

「ご飯を食べる前に、もうひとつ聞きたい事があるんだけど」

 スーラントは黙って続きを促す。一体どこへ連れて行かれるのか、まだ到着しそうにない。

「あなたは何なの?」

 ニアは興味津々で、顔を覗き込んでくる。今しがた恐ろしい魔族から逃げて来たばかりなのに、勇者の家系は肝が座っている。スーラントは苦笑してしまう。

「そんなに気になるのか」

「怖がらなくても大丈夫よ。わたし、あなたが何者でも平気」

 簡単に言ってくれるものだ。どちらかと言えば怖がるのはニアの方だろうし、そんな言葉は信じられない……などと正直に言ってはいけない。しかしスーラントは、一人しか見た事がないのだ。彼の本当の姿を見て、ありのままの本性を目の当たりにして、同じ事が言える人間を。ノンブ夫妻は、スーラントが人間の形を取り戻すまでの数時間、大きな銀色スライムを見ていただけだ。アルテマイシャは、ただ情報としてスーラントの正体を知っているだけだ。


 スーラントを真に理解しているのは、今のところとある黒エルフしかいない。世界とどう関わればいいか分からずに、困り果てていた頃に出会った。出会ったというよりは、討伐されかけたと表現する方が近い。

 彼女はスーラントの心に、無機質な外見の奥にある未熟な知性に、気づいてくれた。今思えばそこからしてかなりの変人だったが、命の恩人である事実は揺るがない。人間や世界について、彼女の知り得る全てを、実に根気よく教えてくれた女性だった。数十年を共に旅した彼女は、スーラントの人格形成に最も大きな影響を及ぼしている。人間的に言うなら親とか、姉と言える存在だろう。


 彼女はもうこの世界にいない。そしてニアは、もちろん彼女ではない。今平気そうにしていても、思いもよらないところで驚かせる場合もある。仕事が終わるまで、なるべく怖がらせたくない。真の姿を見ただけで嫌悪する人間もいる。しかし任務の一環として戦いが避けられないなら、正体を隠し続けるのは難しい。

「……何だと思う?」

 迷った挙げ句、外見年齢を尋ねる迷惑婦人の返答をしてしまった。うっかりミスだ。今まで静観していたローズが、雑に口を挟んでくる。

『めんどくせーな。あたしが代わりに言ってやろっか?』

「やめてくれ。言うなら自分で言う」

 妖精はたいてい人間から好意を向けられているから、スライムの気持ちなど分からない。しかもたいていの妖精は、自分でも自分の外見を可愛いと思っている。さぞ魔物生が楽しい事だろう。

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