ヨルダは答えない。スーラントは数度、痺れた手を握ったり、開いたりする。ゴミ箱は当分振り回せない。たとえ持てても、これ以上盾として機能しないが。

「その鞄を持って、二人で逃げろ」

 一瞬後ろに目をやって確認したが、ニアは鞄を受け取っていなかった。逃げ出してもいなかった。栗色をした髪の一部が、青白く輝いている。ローズ本人は隠れているつもりだろうが、妖精の発光は場合によって無意識でも強まる。位置がバレバレだ。

「護衛の仕事はどうするの? あなたが勝てる訳ない」

 ニアの言う通りだ。本人がどこまでできるかによるが、彼女が戦った方がいいかもしれない。

「確認のため聞くが、実際に戦った事は?」

「模擬戦しか……」

「ですよね……」

 なんとなく分かっていたが、ニアもヨルダには勝てない。人間を数人返り討ちにできても、魔族と本気でやり合う能力はない。人間の姿をした敵を前に、戸惑っているのが分かる。勇者の子孫だの、聖剣に選ばれただのと、自分で言うほど彼女は強くない。あるいは、今はまだ。それでいい、その方がいいとスーラントは思う。平和な世では、勇者の剣は聖遺物として静かに飾られているべきなのだ。



「行くんだ。表通りの雑踏へ紛れれば、派手に手出しはできないはずだから」

「あなたを置いていけない」

 ニアは首を横に振った。彼女がスーラントの死を恐れるのは、正体を知らないからだ。勇者の家系は有名だし、アマルサリア国民の大多数は好印象を持っているはずだ。途中でどうにもならなくなっても、助けを求めれば必ず誰かが動いてくれる。嫌われ者のスライムと違って。

 だが彼がスライムだからこそ、有利になる事もある。スーラントは自分の方が、ニアより生存の可能性が高いと考える。人間への擬態をやめさえすれば。


 この姿は人に紛れて生活をするためのもので、戦いには向かない。逆にニアが側にいる事で、スーラントは本気を出せないのだ。本来の姿を彼女に見られたくなかった。どんな目をされるか分からない。優しい人間も確かにいた。しかし、人間と魔物を別つ隔たりはいつも残酷だった。スーラントはどうしても忘れられず、そして、いつまでも恐れていた。

「行け、早く」

「やめてよ。死んじゃうわ。わたしも一緒に戦う」

「私は死なない。君は知っているはずだ」

 もちろん死なない訳がない。いくら自己再生能力を持つスライムでも、回復速度よりも損傷が上回れば死んでしまうだろう。こちらが人間だと思われているのを利用して、二、三発攻撃を凌げれば上々だ。しかし。

「ここで死ぬなんて嫌だし、死ぬ気はない。もう全然全く、微塵もないからな。そういう訳だよ。ヨルダ、君も諦めて……」

「ああ、王よ。何故試練ばかりを与えるのです? 私は、あなたを救いに来たのに!」

 思いもがけないヨルダの言葉に、スーラントは核まで硬直した。気を持ち直すよりも先に、ヨルダが動く。魔力で剣を作り、大きく一歩。斬りかかる速度は、修道服を着ているとは思えないほど速い。実際ヨルダは鍔迫り合いの方が得意だった。と、スーラントは思い出す。薄暗がりの中で彼女の瞳孔は開き、一層赫灼として細く筋を引く。獣のような唸り声、そして顔つき。振りかぶられた剣身が、風を斬って唸る。


 今すぐに回避すれば間に合いそうだが、後ろのニアが傷ついてしまうだろう。人間は脆いから、命に関わる怪我になり得る。スーラントは、自分が受け止めざるを得ない、と判断し両足に力を込める。前に出そうと持ち上げた両腕が、半端な位置で止まる。一瞬の迷いがたたり、そこまでしかできなかった。



 悲鳴を上げる余裕もなかった。袈裟斬りを深く受けたスーラントは、後ろへ数歩よろめいて倒れる。今ので完全に即死だ。ただし、人間ならば。

 とは言え、涼しい顔をしていられる訳でもない。手酷い攻撃を食らったのは事実だし、幸運にも死ななかっただけだ。受けた衝撃は背中にまで届き、胸に刻まれた斬り傷はやはり深い。とっさに核の位置をずらしておいて、本当によかった。


 ろく動かない手足を投げ出したまま、スーラントは痛みに耐える。どうも順調に再生されないと思えば、斬られた部分が酷く炭化していた。魔族の使う魔法は強力だ。ニアのいる方へ、這うようにして上体を向けるのが精一杯だった。半ば無意識の判断で視界機能以外を鈍化させ、いったん肉体再生に集中する。



 ニアはスーラントを凝視していた。 彼女が逃げるつもりなら、身を削ってでも隙を作る用意はある。しかし、足がすくんで動けないようだ。顔はすっかり青ざめて、手が少し震えている。

 これは完全に死んだと思われているな、とスーラントは思った。幸いにもまだ生きているし、視界ははっきりしていた。だが、それを彼女に伝える術がない。生き残るためには、喋っている暇などなかった。言葉よりも先に、体を間に合わせなければ。まだ立ち上がれない。


 ヨルダは容赦なく、立ち竦む少女へと手を伸ばす。ニアの栗色をした髪の一部が、青白く輝いている。ローズならいつでも逃げられただろうに、何故逃げなかったのだろうか。どいつも、こいつも。



 先に捕まれたのは、ヨルダの手首だった。スーラントは跡がつかんばかりの力で、自分の方へ引き寄せる。まだ完全に再生できていないが、何とか間に割って入れた。ヨルダと視線が合う。彼女は予想外の事に、何の抵抗もせずただ目を泳がせている。瞳に理性の影はない。ではさっきの会話は何の現象だったのか。少なくとも今は、ゆっくり考える時ではない。

「ごめん!」

 手首を捻って、一息に投げ飛ばす。謝罪はマリアに向かってだ。友人の体だからといって手加減をしては、こちらが死んでしまう。恐らく聞こえていないが、気分的な問題というのがある。

「鞄を!」

 スーラントは鋭い声を飛ばす。意図を理解し、ニアは急いで鞄を抱えた。その彼女を断りもなく、荷物ごと肩に担ぐ。さすがのスーラントも危機を前にしては、なりふり構っていられない。もちろん、冗談を言っている暇もない。手がかり足がかりになりそうなものは全て使い、獣の如く壁を駆け上がる。飛び移れそうな屋根を伝って、全速力でただ遠くを目指した。





 四角い建物の屋上へと辿り着いて、スーラントはようやくニアを下ろしてやる。ここなら平たいし、滑り落ちてしまう心配もない。色々と酷使したせいで、核は熱を持って不規則な振動を繰り返している。つまり人間的に言うと、息が上がっている。


 スーラントは、口から盛大に白い煙を吐き出す。少し焦げ臭い。思えば、動力部が焼けた蒸気四輪駆動車と似ている。蒸気機関とは親戚でも何でもないのだが、不思議な共通点もあったものだ。彼がゆっくり歩き出すと、煙も乱れた。スーラントは周囲を念入りに見て、異変がないのを確認する。下にも上にも、怪しい動きをする影は見えない。とりあえず一安心だ。扇いでも吹いても白煙は消えないが、少し薄くなってきた。


 スーラントはすぐに、護衛対象の側へ戻った。呆然とこちらを目で追っていたニアと、無造作に視線がぶつかる。彼女はがくりとうつ向いて、肩を震わせ始めた。よほど恐ろしかったのだろうか。スーラントは慎重に歩み寄り、栗色の髪に隠された少女の顔を覗き込む。そして、面食らった。



 笑っている。


 遠慮がちに喉を鳴らす程度だったのが、漏れ出る息を押さえられなくなり、最後には大きな口を開けて。

「すごい、すごいわ! まるで冒険してるみたい!」

 彼女は反り返って、幼児のように笑った。髪の先が下についてしまう事も、服が汚れる事も、全てに気をとめず。抱えていた鞄を軽く放り出して、自由に。集中の糸が切れたローズが、輝きを失い転がり落ちた。スーラントも口が開いてしまったが、それは笑うためではなかった。ニアの興奮が収まるまで、彼は隣に座り、ただ横顔を眺めていた。


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