「どんな風に?」

「多少散財したって、痛くも痒くもないって事だ。この仕事が終わったら、君の兄上が報酬をたくさん払ってくれる」

 ニアの頭の上で、ローズがまだ動いている。先ほどのとは微妙に違う。切羽詰まった表情をしているのは、何故だろうか。妖精の体は小さすぎて、口の動きがよく分からない。

 痺れを切らしてローズは飛び上がり、ニアの頭上で三角図形を描き始めた。妖精同士で使う信号で主張されても、普通はよく分からない。人間ならば。

「降りるぞ」

「えっ、なに?」

「今降ります! 今すぐ!」

「なんなの?」

 スーラントはニアの手を取ると、荷物を小脇に抱え馬車から飛び降りた。突然馬を止めさせられて混乱する御者に、千トーラー札を二枚押しつける。乗車賃としては十分足りるだろう。とっさの事に、柄や色を見間違っていなければ。



 逃げるように往来から離れ、目に着いた建物の影へとニアを引っ張り込む。路地裏に隠れてようやく、スーラントは一息つく事ができた。表の様子を見に行こうとするニアを制止し、石造りの壁へと雑に凭れる。人通りはなく、物で散らかっていた。

「ローズ、そういう大事な情報は口で言いなさい」

『だって……ついてくるなら今日一日喋んな、って言ったじゃん』

「状況を考慮して?」

『手遅れにならなかったからいいだろ。あたしがいなきゃ、お前らさっき殺られてたんだぞ』

 スーラントは返事の代わりに、渋い顔になった。ローズの言う通りだ。完全に油断していた。ニアを狙う何者かから逃れながら、情報を集めなければならないのを忘れていた。つまるところ、スーラントはすっかり気が緩んでいたのだ。雑踏の様々な匂いが、嗅覚を鈍らせていた。と言うのも、言い訳にしかならないだろう。スライムは魔力情報の判別や、探知に長けた生物なのだ。妖精よりも。

「顔に似合わず圧倒的知性派のこの私が、」

『いやそういうのいいから』

「悪かったよ。恩に着る」

 冗談を言っている場合ではなさそうだ。急ぎ感覚を研ぎ澄ませる。怪しい気配は、表通りから路地裏へと移動したらしい。つまり、スーラント達の真上。



 建物の屋根から飛び降りてきた、人影は一人。着地点は少し遠く、一般的な人間の攻撃可能範囲のギリギリ外だ。太陽の高度が高い今、影が深い路地裏でも相手を視認できる。修道服を着た女だった。肩下までの亜麻色の髪に、穏やかな青い目。


「マリア……?」

 スーラントが呟いた直後、優しげな表情が一転、邪悪に歪む。人間ではあり得ない、深紅の瞳孔が輝き始める。燃え盛る炎のごとき憎悪を、服の上からでも容易に感じ取れた。さすがに本能的恐怖を感じたか、ニアがスーラントの側に寄る。ローズは急いでニアの髪の中へと飛び込んだ。それを見届けてから、愉快そうに女が口を開いた。紛う事なきマリアの姿で、変質したマリアの声色で笑う。

 確かに恐ろしい気配だ。核が凍りつくような寒気を感じる一方、表皮では不愉快な熱が這い回る。魔物の上位種である魔族など、普通に暮らしている限りは遭遇しない。魔王が滅びた後の世界では、なおの事だ。

「じゃないな。どこかで会った事あります?」

「……ああ、王よ。どこへ行ってしまったのです?」

「お前か。追いかけてきたのは。マリアをどうした」

「なぜ、そんなに遠いところに……」

 立ちはだかる者の正体に、スーラントは既に気づいていた。人間ならば普通、気づかないだろう。しかし彼は、魔力に敏感なスライムだ。臭いで分かる。先日遭遇した影ドラゴンと全く同じだった。厳重封印指定者第四位、グランクスト監獄からの脱獄囚ヨルダ本人。不幸と不運まみれの現状で、幸運な事がひとつもない。ヨルダとは少しも会話が成立しない。理性なき存在に成り果てているようだ。


 所有魔力の多さを隠そうともしない態度、現れた時の間合いの取り方。ならば、こちらを全員人間と思っているはずだ。精神状態が正常ならば。ヨルダの視線は、虚空をさ迷っている。まともな返事は期待できなそうだが、一応聞いてみる事にした。

「面倒だな、この際はっきり言おう。お前達の目的は何だ。少女を集めて何をしようとしている?」

「王よ、妾は王のために……! 何故分かってくださらない、くださらなかったのだ!」

 興奮して叫び始めたヨルダだったが、突然言葉を切る。やはり、まともに言葉が通じない。突然真顔になられると怖い。氷の視線に怯んだスーラントは、靴底をほんの少し浮かせた。すぐに自力で、なんとか踵までしっかり地面につける。今は、背中を見せる時ではない。下手すると死ぬ。



 ニアが聖剣の柄を握るのと、スーラントが数歩前へ出て片手を出すのと、ほぼ同時だった。見覚えのある赤黒いもやが、彼女の周囲を渦巻き始める。マリアの肉体は無事だが、心はどうだ。ヨルダに乗っ取られたか、ただ憑かれている状態なのか。友の安否が気になるが、今マリアに向けて呼びかけるのは、悪い刺激になるだろう。

「狙いはこの子なんだな?」

「ついに妾まで辿り着いたか、勇者よ。たとえ死んでも。死んでもここは守り抜く……」

 やはり相手は将だった者、逃げる隙がない。突破するにしても、簡単にはいかなそうだ。それに、マリアが別人のようになってしまったのは心に堪える。マリアはもっと優しいし、妖精をも魅了する美味しいお菓子が作れるヒューマンだ。あと妾とか言わないし、誰に対しても一定以上礼儀正しい。もちろん料理をしようとして、百発百中で消し炭を錬成しない。古今東西の美少女を侍らせて喜んだりもしない。スーラントはヨルダを知っているのだ。何故か。向こうはスーラントを知っている気配がないのが、不思議なくらいだ。



 そんな事を考えていると、背後に隠れているニアが鋭く囁いた。声色には、強い警戒が滲み出ている。

「気をつけて先生。この人、凄く嫌な感じがするわ」

「私もそう思っていたところだ。一番出会っちゃいけない奴だ。つまりヨのつく魔族」

「上手く逃げられないかしら」

「ヨルダの目的は、君か情報だろうが……。逃げるにしても、ここでの交戦は避けられないだろうな」

 小声で話し合う時間も終わりだ。魔族の竜姫は高らかに宣言した。

「今日こそ貴様の首を取る!」

「今からお祈りするから、一分待って欲しい」

「お 断 り だ !」

 律儀に返事をするや否や、敵は悠然として片手を翳した。魔族は魔物と違う。各四大精霊の直下に位置する、魔法生物の最上位四種だ。そう易々とは人間に狩られないし、人間の都合に配慮しない。昔からそうだった。あの日、勇者となる者が現れるまでは。


 スーラントは鞄を後方へ投げ、側にあった鉄製ゴミ箱を盾にする。公共用のゴミ箱なので、小柄な人間くらいは大きい。

 衝撃によって、鉄が激しく変形する音が響く。ふいうちの魔法攻撃を受け止められ、しかしヨルダは口元を歪めた。相手に多少の骨があると知り、喜んでいるようにさえ見える。吹き飛ばされるのも想定していたが、ゴミ箱表面が凹んだ程度の威力だ。やはり最初から本気は出していない。次はきっと、強力な攻撃が来るはずだ。


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