冷蔵箱の氷は、まあまあ状態がいい。中は酒のつまみのようなものと、使いかけの調味料ばかりだ。スーラントは朝食になりそうなものを取り出す。卵、チーズ……トマトをみつけた。トマトは櫛切りにして生のままがいい。卵とチーズは、混ぜて焼くと美味しい。食パンも焼こう。まだ簡単なものしか作れないが、調理の概念は人間と暮らす中で少しずつ知った。

 横目で様子を窺えば、ニアはまだ廊下で二の足を踏んでいる。風呂の場所は教えたはずだが。おっと、高そうなプリンを発見。

「いいの? 勝手に」

「昨日許可は得ただろう。カミラは夜行性だ。夕方まで自室でぐっすり寝てる。今がチャンスだ、高級プリンも食べてやろうじゃないか」

「そんな事をするから、苛められるんじゃ……」

 三つあった内の二つを見せびらかしていると、ニアが呆れて溜め息をつく。その可能性は否定できない。





「そう言えば、学校は?」

「今春休み」

 ニアが入浴を済ませた頃には、ちょうど配膳し終えたところだった。少女は暖かい朝食を見て、表情を和らげる。作ったかいがあるというものだ。向かいの席を見て一瞬妙な顔をしたが、スーラントの分が通常の四倍はあるせいだろう。昨日大きく損傷した分を、修復する必要があるのだ。こういう時スライムは、普通の人間よりも養分が必要だった。ニアは着席するなり、律儀に食前の祈りを捧げた。目を閉じて、心の中で行われるものだ。


 スーラントはそう長くない習慣が終わるまで、小さな妖精の面倒をみる事にした。蜂蜜の瓶を開け、スプーン二杯ほどを小皿に移してやる。ローズが喜んで羽根を羽ばたかせ、卓上に鱗粉が飛び散った。二人が食事を始めるのを眺めなから、カップの紅茶に口をつける。何もせず食べ始めたスーラントに、ニアは思うところがあったはずだ。しかし少女は何も言わなかった。実際人間の中には、祈りを疎かにする者もいる。

 コミュニケーションとしての意味が含まれる食事に慣れるまで、何年かはかかった。人間の口だけ使って食べるのも、今では難しくない。体全体で包んだ方が早いのだが、その捕食動作をすると人間が怖がる。

「それで君は、どうして縛られてたんだ。誘拐されそうになったのか?」

「怪しいシスターの後をつけていたら、急に車に押し込まれて……。アルテマイシャさんが助けてくれなかったら、危なかったわ」



 魔物に祈りは必要ない。我らの王は過去死んだ。あるいは、完全なる死に向かう最中にいる。彼の死に間違いはなく、何事も変えられず、そして全てが戻らない。心の底から理解するまで、数十年の歳月を要した。

 野生動物のような生活は、どうしても精神的に合わなかった。人間と関わらざるを得なかった。人間への怒りや悲しみは、緩やかに失われて行った。魔王を滅した人間とは一体何かを知る内に。激情を持ち続ける事が、心を狂わせてしまう事が、彼には結局できなかった。目の前に勇者の子孫がいても、心が乱れる事はない。


 今となっては、それでよかったと思っている。初めてアマルサリアに足を踏み入れた時、何故だか胸が震えた。人間の事はいまだに分からないが、手探りのスライム生も楽しいものだ。それはともかく、そろそろ返事をしよう。

「君は子どもだろう。危ない事は、大人に任せないと駄目だ」

 怪しいシスターという単語が気になるが、まずは大人として言わなければならない事がある。ニアは口の中のトーストを、完全に飲み込んでから返事をする。返事というよりは、独り言に近いものだった。

「わたしにそんな事言う人って、始めて見た」

 カップを置いてうつ向いた、少女の顔に影がさす。口許は緩やかに弧を描いている、ように見える。思春期の人間は複雑だ。スーラントは言葉に迷った。食卓に飾られた花を眺めていると、虫に噛られたような跡を見つける。いたずら妖精め。



 静かな食事の音だけが、やけに鮮明に響く。待てども返事がないので、しびれを切らしたニアが再び口を開く。

「連続少女失踪事件を解決するために、わたしを助けてくれたんでしょう?」

「残念ながら、それは願望からの思い込みというやつだな」

「助手になりたいって話も……」

 かわいそうだが、ここはきっぱりと言っておかなければならない。

「助手は必要ない」

「そんな。一生懸命頑張るから」

 そういう意味ではないのだが。チーズ入りのスクランブルエッグを掬い、二枚目のトーストに乗せて齧る。食べながら考える。一番の問題は、彼女が勇者の直系である事だ。スーラントは、扉近くの壁に目をやる。今朝までなかった聖剣が立てかけてある。

 スーラントは聖なる炎の熱さを知っている。不慮の事故で一度触れただけだったが、とても酷い目に会った。もし敵意を持って剣を向けられたら、ひとたまりもない。そうでなくともスーラントは、人間に見られていると本来の能力が発揮できない。自分の正体を、必要以上に知られたくないのだ。勇者には特に。

「君は私の保護対象、依頼主は君の兄。分かるだろう」

「名探偵さんにとっては、足手纏いだと思う。でも、わたしは」

「名じゃない。探偵。ただの」

「卑劣な犯人が、どうしても許せなくて」

「人の話を聞かないタイプか。厄介だな」

「一緒に連続少女失踪事件を解決しましょうよ」

「生憎だが、依頼にそこまでの話は入ってない。依頼主は君じゃない。契約違反はしたくない」

『遊んでやれよ、ケチ』

 ローズが両手を蜂蜜まみれにしながら、口を尖らせる。妖精の思考回路は、知性を得たスライムよりも単純だ。昨晩仲良くなったばかりの、ニアの味方がしたいらしい。ごっこ遊びの話なら、喜んで乗ってやるとも。スーラントは、子どもと遊ぶのが嫌いではない。だがこれは、時と場合によっては命を賭ける事になりそうだ。

「仕事は遊びじゃないんだよ。旦那が浮気してるみたいだから調べてちょうだい、みたいな平和なやつがいいね」

「それって全然平和じゃないわ」

 栗色の長い髪を振り、少女は苛立ちを露にする。相対するスーラントは、至って冷静に疑問を口にする。

「どうしてそこまで固執するんだ」

「わたしの友達も、この間いなくなった。犯人はきっと兄だわ。わたしが聖剣に選ばれた事を、ずっと恨んでるの。少女を集めて何をしようとしてるのかは分からないけど、わたしが事件を調べ始めたから、口封じしようとしたんだわ。なんとかしないと……わたしは、勇者の血を引く人間だから……」

 ニアの声は、だんだん小さくなっていく。今ランドールが犯人と断定するのは、あまりに短絡的すぎる。怪しい要素があるのは確かだが、個人的な感情だけで断定するのは危険だ。



 彼女を放ってはおけない。子どもの悲しそうな顔には弱い。それに、また独断で行動して危ない目に合う可能性もある。今までの言動から予測するに、彼女はそういう性格だろう。このまま動きを止めておくのは難しそうだ。だがニアにつき合いすぎれば、ランドール達に怒られるだろう。かと言って、知らないふりをするのは信用に傷がつく。雇われた護衛は、護衛対象のそばにいなければいけない。久しぶりの難しい仕事だ。


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