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あんまりやると見た目が歳取っちゃうけど、今日は特別、と彼女は続ける。ニアは言葉を忘れ、困惑していた。人間の書物に書かれる魔物と違って、カミラはむやみに人間を襲わない。初めて『カトレア』へ来た人間は、大抵その辺りで混乱する。カミラにとっては日常茶飯事だった。
「じゃ、二人とも座って。何飲む?」
彼女にとって、一日はまだこれからだ。夜色をしたドレスの裾が翻る。カウンターに戻りつつ、カミラは笑みを深めた。ようやく本題という訳だ。この店は、彼女の経営する飲み屋である。表向きは。
促されるまま、二人とも腰かけた。ニアは聖剣を立てかけた後、スーラントと店主の様子を伺っている。カミラは確かに魔物だが、今のところ害はないと分かったのだろう。あるいは、本当に顔見知りならスーラントに一任した方がいいと判断したのか。
その選択は間違っていない。どうするべきか、彼には分かっている。この問いに実在する酒の名を答えれば、店は飲み屋のまま。ドラゴン・アイズと答えれば、あらゆる情報の売買。フェアリー・フラワーと答えれば、違法を含む魔道具の売買に移行する。スーラントはそれ以外にも、本格的にマズイ時の避難場所として利用させてもらっていた。ここはスーラントが知る中で、東街一の安全な場所だ。先客がいなくて本当によかった。
「今日は避難。この子にシャワーと、何か食べ物を」
「りょ〜かい。スーちゃんも必要でしょ。さすがにその服はね~」
「できれば……。悪いな」
「いいのいいの。よしみってやつ。ところでマッサージ券五枚も貯まってるからぁ、」
「今日は疲れてるから無理です……」
「スーちゃん、いっつもそれじゃなぁい? マッサージしに来てくれたと思ったから、お招きしたのに〜。後ででいいから、ちゃんとやりに来てよねぇ。仕事でしょ?」
「私はマッサージ屋さんではない」
「ウチも宿屋さんじゃないんですけど~。情報屋さんなんですけど〜」
彼女は不満げに口を尖らせるが、それ以上の文句はなかった。不思議そうな顔でニアが呟く。
「マッサージ?」
「スーちゃんすっっごいま「ちょっとお姉さん!」し全然「駄目駄目!」ないし、とにかく分かってないって言うか〜、「酷いじゃないか!」とか最悪だったのよ。もう二度と対価はいらな〜い。肩でも揉ませた方がマシって訳」
「健全な青少年の前で、何を言っているんだい!?」
探偵というのは信用が大事だから、さすがのスーラントもこれには声を荒げた。サキュバスにとって単なる食事の話でも、子どもの前で言ってはいけない内容が含まれている。業務妨害で訴えてやろうか。それに、悪意ある歪曲表現についても抗議したい。ただちょっと齧られただけだし。そもそもスライムの体液は、人間の血などとは全く性質が違うものだ。不味いに決まっている。
当然ながらニアがドン引きしていた。青少年は繊細なのだ。このままでは、颯爽と現れて自分を救った謎多き名探偵お兄さん、というハードボイルドな第一印象が木っ端微塵になってしまう。スーラントの内心を知ってか知らずか、カミラはとっておきの表情を作り笑いかけてきた。
「ごめんねスーちゃん。久しぶりに会えて嬉しいからって、ちょっとからかいすぎちゃったね〜」
そんな可愛い顔をしたって無駄だ。
「そんな可愛い顔をしたって絶対に」
「え?」
「何でもないです」
カミラは情報屋だ。次は何を暴露されるか分からない。よってスーラントは、この件について沈黙する事にした。人間の前で魔物の喧嘩はしたくないし、今回スーラントは世話になる側である。人のふりして世を忍ぶスライムは、ただぷるぷるする事しかできないのだ。
「はいはい、スーちゃんつついて遊ぶのおしまい。あなた、お名前は?」
カミラはニアへと視線を送った。
「ニアです」
「ニアちゃんね。私はカミラ。シャワー室案内したげるから、こっち来て~」
「ありがとうございます、カミラさん」
栗色をした長い髪が、ふわり宙を舞う。一瞬後ニアは、盛大な音と共にカウンターから墜落していた。お辞儀をした拍子に、バランスを崩してしまったのだ。カミラもスーラントも驚いた。あまりに突然だったので、支える手が間に合わなかった。ブルーローズが飛び出して、ニアの頭上を慌ただしく旋回する。何を言っているのかまでは分からないが、安眠中のベッドから叩き落とされれば誰しも混乱するだろう。カミラが絶望的な顔で、両頬に手を触れ、息を呑み……。
「やだ……、しん」
「大丈夫。寝てるだけだ」
「な~んだ、よかったぁ」
スーラントが調べたところ、目を閉じていても呼吸はしっかりしていた。安心した直後に緊張の糸が切れ、睡眠状態に移行したのだろう。
こうしているのを見ると、ただの少女だ。ニアは勇者の玄孫であり、勇者本人とは違う個体だ。人間と魔物の争いが終わり、豊かな時代に産まれた人間。敵に襲われ奪われる事に、昼夜怯える必要がない子ども。全ての魔物を敵に回すほどの勇敢さを、民から求められない勇者。意外だった。相手が魔物でも、親切にしてもらえば礼を言えるのか。最近の人間は、少し変わってきているのかもしれない。
「邪悪な魔物はわたしが倒しますぅ!」
「うわっ、びっくりした」
「なーに? 寝言?」
『寝言でけーな』
聞かなかった事にしておこう。
深紅色をしたソファーの上で、スーラントは目を覚ます。ソファーにしては寝心地がいいが、何となく色が落ち着かない。一瞬、ここがどこだか分からなくなる。昨日は勇者の玄孫ニアを助け、カミラの家に逃げ込んだのだ。そして客人用のベッドをニアに譲り、スーラントはリビングで寝た。寝転んだまま時計を見やれば、朝の八時を回っていた。 毛布を軽く畳み、ソファーの背にかける。そして、借り物の寝間着から着替えた。カミラが貸してくれたのは、彼女がインキュバス姿の時に着る服だ。機能的に問題なければ構わないスーラントと違って、カミラは造形的な美しさを重要視する。中肉中背のモブ顔だと、服に着られている感じがする。
スーラントは洗面台に向かうと、鏡に映る自分自身を確認する。自分がこちらを見ている。いつ見ても目立った特徴のない、どこにでもいそうな普通の顔立ちだ。突然、表情筋に力が入る。彼はキレのいい動きで、人差し指を突きつけた。
「今日も意識が」
今度は指を自分に向ける。
「ある!」
勢い余って身を乗り出して、力強く言う。欠かさず行っている日課だった。いつも通りの平和な朝だ。だがスーラントは失念していた。いつもと違う存在がひとつあるのを。スーラントの背後に、きょとんとした顔が映っている。栗色の長い髪と、アイスブルーの瞳を持った可憐な少女だ。カミラのお下がりの寝間着を着て、頭には寝ぼけ眼のローズを乗せていた。
「それいつもやってるの?」
「ん゛っ……そう、いつも……やってるね」
「探偵に変わった人が多いのは、本当だったんだ」
「とにかくシャワー借りてきなさい。私は朝食を適当に見繕っておく」
スーラントは昨日寝る前に浴びたが、ニアはまだだ。リビングに戻ると、二人ともついてきてしまう。ローズは放っておいて問題ないが、ニアは行くべき方向が分からないらしい。一度廊下に戻り、風呂場の場所を指差す。そしてスーラントは、再び朝食の準備に戻った。
『なーセンセー、この花食っていいかなー』
「それはやめておけ」
いつの間にやら飛び回っていたローズが、食卓に花を見つけたらしい。冷蔵箱の扉を開けながら、スーラントは答える。妖精は素直に従い、匂いを嗅ぐだけで我慢した。多分。
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