第三節 日陰に潜む魔物達

 東街にある繁華街。スーラントがニアを連れて、足を踏み入れた場所だ。色とりどりのガス灯と看板がひしめき合う、眠らない区画である。一言断りを入れてから、少女と軽く腕を組む。

「どうしてこうするの?」

「不要な危険を避けるためだ。今の状況で、突然誰かに引っ張られたら困る」

 ニアは今、怪我のせいで戦えない。何となくだが、まだ足も痛いのではないかと思う。こうしておけば、彼女が転びそうになった時すぐ支えられる。人間の肉体は、どの種族もだいぶ脆い。基本的に自己再生能力が低く、軽い怪我でも完全に治るまで時間がかかるのだ。スライムの身にはよく分からない事だが、見聞きしてきた情報から推測ならできる。


 論理的に説明をしたつもりだったが、ニアは曖昧な顔をした。治安の悪い地域でのやり方は、やはりピンと来ないようだ。納得はしてくれたものの、渋々腕を組んでいる。さっき応急処置で井戸水を被ってきたが、まだ臭いのかもしれない。

 この街でスーラントは、ヒューマン男性の姿をしている。有性生殖生物は、初対面の異性や嫌いな異性と一緒だと居心地が悪く思うらしい。有性生殖をしないスライムには性別がないので、あまり意識した事はなかったが。それに、ニアとアルテマイシャが知り合いでも、ニアとスーラントは知り合いではない。誰しも初対面の存在と共にいるのは不安だ。それはスーラントも同じ事だった。ローズは変わらずニアの肩にいて、髪の中で眠っているらしい。早めに依頼人の元へ返してやりたいところだ。

 今の内にカトレアの色は紫、と心で唱えておく。隠れ家へ向かうための合言葉だ。



 歩いている間ニアは、やたら辺りを見渡した。客引きの女達から漂う香水臭に顔をしかめ、道に寝ている男に驚いて息を詰まらせる。好奇の視線に眉をひそめ、突然どこからか響いてきた罵声に肩を震わせた。好奇の視線の対象は十中八九、焦げたコートを引っかけた半裸の怪しい男……もといスーラントなので、ニアが気にする事は何もないと思うが。いや、スーラントは考え直す。一緒に歩いているから無関係ではない。しかもちょっと臭い。今更ながら、彼女に申し訳なくなってきた。

 彼女はごく普通の学生だ。恐らくは、産まれてからずっと中央街で暮らしてきた。東街の繁華街など、人生で初めて入ったはずだ。中央街の事はスーラントにはよく分からない。だが違いは明白だ。ここには様々な種族が入り乱れて、溺れるほどの暴力と愛と酒がある。東街の中でも、ここはいっとう酷い地域だ。しかし、ここにも生命がある。生活がある。戦後しばらくは、似たような地域がよく見られた。だが、彼女は知らない。ようやく基礎を築き上げつつある理想郷の中で産まれ、大きな不自由なく十数年を生きてきた。恐らくは。

「怖い?」

 何気なく聞いてみると、ニアは目を丸くした。そして、慌てて首を横に振る。

「平気。全然」

「あともう少しだ。頑張れ」

「怖くないってば」

 おっと、子ども扱いされたくない年頃だったか。以後気をつけよう。


 スーラントがそう言えたのも、右側の壁につけられた印を見つけたからだ。逆さまになったハートだ。すぐに右へ曲がって、細い路地へ入る。この目で印が見えたなら、招かれていると思っていい。何度か行った事があるが、ここで曲がるのは初めてだ。何しろあの店は、店主自身の魔術で巧妙に隠されている。表通りの雑音が遠ざかって、自分達の足音だけが聞こえるようになる。今はただ、一定間隔で灯っている明かりが頼りだ。ニアはあまりの静けさに、思わず声を潜めて言う。

「ここ、本当に安全?」

「もちろん、私に任せてくれればな。物理的にも魔法的にもごちゃごちゃした場所の方が、身を隠すのに都合がいい……」

 スーラントは話を途中で切り上げ、半歩進んだ足を戻す。会話に気を取られて、うっかり通りすぎるところだった。右手に現れた看板には『カトレア』という文字と、紫のカトレアの花、そして逆さハートの絵があしらわれている。派手で刺激的な表通りとは違い、大人っぽく落ち着いた店構え。知る人ぞ知る秘密の店、と言った雰囲気だ。不思議そうにニアが呟く。

「お酒の店……?」





 もう腕を離して大丈夫だろう。洒落た扉を開けるなり、軽快な鈴の音が重なる。いらっしゃーい、と間延びした甘い声に迎えられた。酒瓶の並ぶカウンター奥で、紺のロングドレスを着た女性が頬杖をついている。金糸のような長い髪。細長い尾を揺らしながら、妖艶に微笑む。彼女は人間ではない。魔法生物の一種、サキュバスだ。この店の店主であり、いつから生きているか誰にも分からない。ついでに言うと、スタイルは抜群だ。

「こんばんは、カミラ。突然押しかけて悪かったな」

「気にしないでぇ、今ちょうど暇してたし。えっ、スーちゃんどしたのその格好。ボロボロじゃない」

「色々あってね。どうせもう知ってるだろうが……」

「東街のどっか住宅地で、なんかヤバいの暴れてたんでしょ? スーちゃんも巻き込まれるの好きよね〜」

「気づいたら巻き込まれてるのよね〜」

 和気あいあいとする二人の間で、ニアは息を呑んでいた。静かに一歩下がり、スーラントの後ろに隠れてしまう。想定内だ。サキュバスとスライムは同じ魔法生物同士だから、全く気にならない。だがこの状況を、人間がどう受け止めるか。やはり談笑してみたくらいでは、人間の警戒心は溶けない。そもそもニアは、スーラントがまともな人間かどうかを燃えた時から訝しんでいる。


「で。その子、なんで連れてきたの?」

 そしてここにも、モグリ探偵を訝しむ女の顔が。カミラはニアを見てすぐ、正体が分かったようだ。スーラントは反射的に愛想笑いを浮かべた。頼りになるという事は、敵に回すと怖いという事でもある。人間を、しかも厄介な存在を連れてきたので、少々神経質になっているはずだ。無理もない。

「まあまあ。このお嬢さんがすぐ何かできる訳でもないし、ここで恩を売っておいても」

「は?」

 即座にニアから、吹雪のような冷たい声が出た。アイスブルーの瞳が氷塊に見える。ちょっと怖いが、おおむね想定内だ。子どもは処世トークってやつがまだ分からない。こんな両手に花は勘弁して欲しい。

「ドラゴンの巣に入らなければ最高のお宝は得られない、って言うだろう」

「ん~、そういうのもアリっちゃアリ〜?」

 一転やる気のない返事をしながら、ついにカミラがカウンターから出てきた。沈黙の店内に、ヒールの音が響き渡る。

「さっきから気になってたんだけど、あなた手を怪我してるでしょ。お姉さんにちょっと見せてぇ」

 ニアは警戒を露にして、表情を固くした。布に包まれた聖なる剣を、強く抱きしめながら。すかさずスーラントが宥める。

「大丈夫だ。彼女は悪い魔物じゃない」

「悪じゃない魔物なんている? しかもサキュバスなんて……」

 棘のある口調だ。本心からそう思っているのだろう。何を言われても黙っていろと忠告しておくべきだったか。カミラは幸運にも元々機嫌がよかったらしく、顔色を伺うスーラントを面白がる素振りさえあった。彼女が指で触れると、ニアの手首はすっかり治ってしまう。

「サキュバスってねぇ、人間の生気を吸うので有名でしょ? でも吸うだけじゃなくってね、分ける事もできちゃうのよ。凄いでしょ〜」

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