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なに、気にすることはない。目が覚めて以降、大体そんな感じで生きてきたので慣れている。それに東街は元々、流れ者や反社会集団の吹きだまりだ。警察は大物を見張るのに必死だから、無理に目立とうとしなければどうということはない。優しい夫妻が食べ物と寝床をくれるし。
「いや働けよ」
「働かないのではない。世界が私を扱い切れないのだ。ってやつ」
「あまりにも前向き」
「もはや前向きになるしかないのだよ」
スーラントは二度、大袈裟な語調で言った。孤独だったあの頃を思い出すと、今でもちょっと泣きそうになる。
思えばマルメン夫婦との出会いは運命的なものだった。三年ほど前の真冬、鼻水も一瞬で凍りつくとある朝。『柏ノ木亭』近くでシャーベット状になっていたスーラントを、アーリヤが家に入れてくれたのだ。彼女は最初凍死しかけのヒューマンだと思ったそうだが、動き出したらスライムだったので大笑いした。銀色の巨大流動体生物を見て笑い出す人間を、スーラントはこの時初めて見た。
二人は正体を知った後も、スーラントを追い出さなかった。今でもほとんど変わらず接してくれる。珍しいタイプだ。悲しいことに、人間社会においてスライムの印象は古今東西最悪なのだ。基本害獣だし。つぶらな瞳とか綺麗な毛皮はないし。ブヨブヨだし。
「お前なんか拾わなきゃよかった。やっと息子が一人立ちしたのによ、唐突に妻がスライム拾ってきてた俺の身にもなれ。どうせ拾うなら、野良猫にして欲しかったぜ。お前ときたら猫よりはるかに可愛くないくせして、猫以上にふてぶてしいときた」
「いいかノンブ。猫は、働かない」
無駄に単語を強調し、当然のことを得意気に言うスーラントだった。ノンブは不満を露にして鼻を鳴らす。
「お前もマトモに働かないだろうが。なんでどこ行っても二ヶ月と持たねぇんだよ。完全にすぐやめる奴になってるぞ」
「ええ、だって……正体バレるの怖い……」
「今日も家手伝え。馬車馬の如く働け」
「いや、今日は駄目だ」
「は?」
「依頼がひとつ。仕事がある」
「また遊びに行く気じゃないだろうな。もしくは、ヤバい仕事に手を出してないだろうな」
「私の信用綿埃より軽くないか?」
「あと、慈善事業は仕事に含まれませんよ」
「知……ってるよ?」
スーラントは目を逸らしたついでに、こっそり腰を浮かす。日頃の行いのせいで、その辺りの信用は完全に失われていた。これ以上留まると、無理矢理仕事をさせられそうだ。それは困る。人間形態のスーラントを押さえ込むなど、オークのノンブにとっては朝飯前なのだ。だが、逃げ足の素早さではこちらに軍配が上がるのも知っている。
スーラントは策を練る。策と言っても今回の場合、誰も傷つけないし他愛もないものだが。決まった。彼はいきなり、力強く手頃な椅子の下を指差した。
「あっ漆黒の衛生害虫!」
「その手にはもう乗らねぇよ!」
三回目にもなれば当然ノンブは騙されなかったが、大声のせいで一瞬反応が遅れてしまう。スーラントにとっては十分で、相手の新聞を奪い取るのも余裕があった。慌てて繰り出された丸太のような腕をかわし、一目散に店の出入口へ向かう。
「このスライム野郎!」
「結構、その通り!」
スライム野郎というのは、ただの罵倒語である。つまり、相手がスライムではない時にも使える。スライム野郎と言われる対象は、大抵スライムではないのだが。重量級の追撃を見越して、新聞紙をなるべくめちゃくちゃに広がるようばらまく。飛び出してすぐ左へ曲がると同時に、枯れ草色をしたコートの裾が翻る。翻弄されるドアベルとノンブの怒鳴り声を置き去りに、目的地を目指し全速力だ。何だか可笑しくなってきた。コートのポケットから黒手袋を引っ張り出して、両手に装着する事も忘れない。
学生時代の息子を思い出すねえ、と店の奥でアーリヤが笑っている。『柏ノ木亭』にとっては日常茶飯事なので、何があったか音だけで察する事ができるのだ。やれやれと首を振り、ノンブは店内へ戻って行った。
十分遠ざかった後は、散歩がてらのんびり歩いて、スーラントは教会に着いた。今日なるべく早く来るように言われただけで、時間は指定されていない。走ったせいで少し疲れた。ところどころに修繕跡がある、年季の入った煉瓦作りの建物だ。
朝の挨拶と共に門を潜った途端、庭で遊んでいた子どもに囲まれ歓迎されるのだった。ここには色々な種族、年齢の子どもがいる。全員が十五歳以下だ。中でも十歳以下の割合は多い。
「おじさんおはよー!」
「おじさん久しぶり!」
「おじさーん」
「お兄さんとお呼び!」
彼らはスーラントをおじさんと呼ぶ。その度におじさんではなくお兄さんだと教えているのだが、不快と思って訂正するのではない。このやり取りもスーラントにとっては楽しいものだった。今日のパンひとつなく項垂れていた人の子達が、平和な世の中で無邪気に笑えるようになったのは喜ばしい事だ。だがもしもスーラントがスライムだと知ったら、彼らはどんな顔をするだろうか。
教会といえば宗教施設だ。そしてかつては、戦争などで怪我した人間に回復魔法をかけてくれる事で有名だった。だが現代の人間で、回復魔法が使える者は滅多に存在しない。ほとんどの怪我や病気の案件は、病院が請け負うようになって久しい。だが新しい時代が来て役割が変わっても、宗教の存在意義までは消えていない。それから家のない子を一時預かる所であり、時には偉い人の講演会会場にもなる。
庭の騒ぎを聞きつけ、すぐに修道女が一人やって来た。肩下までの亜麻色の髪に、穏やかそうな青い目。呑気に微笑む彼女はマリアと言い、スーラントとは顔馴染みだ。子ども達に突っつき回され飛びつかれながら、隙を見つけて軽く挨拶をする。子どもは加減を知らない。もしかしたらこれは、スライムを見ると攻撃したくなるという人間の本能ではないだろうか。
「相変わらず子どもに好かれるのねえ」
「好かれている? 私が思うに、これは、いてっ、襲われているってやつだぞ」
彼女は慣れた様子で、興奮した子ども達を落ち着かせていく。やんちゃな性格をした子どもも、マリアの指示はよく聞く。怒らせると実は怖いのかもしれない。
「マリア……何か、変わった?」
「あらあら、気づいてくれる? 髪型を変えたのよ」
スーラントは否定の言葉を口にしかけて、やめる。さっき彼女の瞳孔が赤かった気がするのだが、見間違いだったらしい。光彩の赤みが強いならまだしも、人間でそんな色は有り得ない。眼球構造の維持が揺らいでしまい、光の受け取り方に不具合が出た可能性がある。ヒューマンだったら発生し得ない勘違いだろう。それに、確かにマリアは髪型を変えている。以前会った時はもう少し長かったし、軽く編んで纏めていた。そういう事にして、スーラントは話題を変える。
「似合ってる。依頼主は?」
「シャーリーの事ね。裏庭で待ってるって言ってたわよ」
「決闘でも申し込まれるのかな」
「けっとーって! 何百年前だよ!」
「やっぱおっさんじゃん」
スーラントの冗談に、子どもらがこれは愉快と一斉に笑い出す。そこまでは古くない。と思う。視線を感じて建物の角に目をやると、シャーリーが不満を露にして幼い顔を覗かせている。依頼主がお待ちかねだ。
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