中では恰幅のいいオーク族女性が、朝の仕込みの最中だった。オークでは少し狭い厨房だ。しかし彼女は長い付き合いなので、空間的余裕のなさも何のそのだ。慣れた手つきで芋の皮剥きをしている彼女は、アーリヤ・マルメン。カウンターにいたノンブの妻だ。寸分違わず鳴らされていた包丁の動きが、止まる。彼女は朝の挨拶と共に、お気に入りのエプロンを翻し、流れるように右手をトースターへ。

「おはぐっ」

 取り出したトーストを、いきなりスーラントの口に突っ込んできた。

「そろそろ起きて来る頃だと思ってね。ついでに焼いといたよ」

 予想以上の面積を占めるトーストで、何も返事ができない。彼は顔をしかめた。食欲を刺激する香ばしい匂いが、優しく口内に広がる。直前まで炙られていたベーコンから滲む油の旨味と、とろけるチーズの舌触り。反射的に咀嚼すれば、乾いた音が内側から響き、心配そうなアーリヤの声がぶつ切りに遮られる。

 オーク族は腕力が強すぎる。だが世話になっている手前、スーラントは文句を言えない。以前の問題として、口にひしゃげたチーズトーストが詰まっているのだが。あまりもたついていると、アーリヤの邪魔になる。いつも通り自分専用のティーカップと適当な平皿を取って、カウンターに退散することにした。チーズトーストをくわえたまま。





 魔王が倒されてから、およそ百五十年。この世界は変わってしまった。新星の如く現れた勇者によって、邪悪な魔王が滅びた。そこまではいい。だが魔王消滅の直後から、世界に満ちていた魔素が急速に失われていったのだ。賢人達の予測を越えた速度で。

 影響は凄まじかった。ドラゴンはただの巨大蜥蜴に、大半のエルフの力は細やかなまじないに変わった。魔王の将などをやっていた魔族は、戦勝した側に捕らえられ牢獄へ。あるいは逃げ延びて、そのまま姿を眩ました。どこへ行ってしまったのやら、今では存在自体が幻の域だ。火の精はあるべき場所にしか出現しなくなり、風の精は一定の法則にしか従わなくなり、水の精は上から下へ流れるのみになった。そこから後は緩やかな減衰期となったが、消失現象自体は今でも続いているらしい。


 老人の多くは変わり果ててしまった世界を嘆いた。少しの老人と若者達は、靄の中を進み始めた。唐突に変わってしまった全ての中で、戦うことなく生き残る術を模索し続けた。世界を二分するほどの大戦争は、もうこりごりしていた。どの種族もこれ以上は望んでいなかった。ヒューマン、ドワーフ、オーク、エルフ。絶滅を免れた高度な知的種族達は、敵味方を越えて日夜顔をつき合わせた。勇者が魔王を倒すべきだったどうかよりも、明日からお互いどう生きていくかを議論するべきだった。


 自然精霊と魔法種族が次々弱体化する反面、下克上とばかりに非魔法種族は台頭した。勇者を排出したヒューマン族が、その主たるものだった。別段特徴もない知的種族最弱だったヒューマン達の、ただ最低限種として生き残るために必死だった労力は、ようやく他のことに回され始める。

 戦争のためではなく、基本的生活水準を向上させる技術。心を豊かにするためにこそある文化と芸術、そして宗教。現在ではヒューマン族の人口は昔より増え、発展ぶりは他種族を圧倒するほどになった。新たな世界を紐解くために、多くの冒険者や調査隊が旅に出た。定住者により野山は開拓され、川はより整備され、食べられるものも増えた。

 ここアマルサリアは、世界に先駆けて王制を廃止し、議会制共和国として生まれ変わった。同じくアマルサリアで、新時代の動力として蒸気機関が発明されたのが百年年ほど前。自然環境も、種族達の関係も、社会の仕組みも。日々目まぐるしい変革の影響を受け続けている。



 例えば目の前で、けだるそうに新聞を開いている、彼。ノンブ。オーク族は男女ともヒューマンより大柄で、大きめの犬歯がある。少し祖先を辿ればエルフと同じ種に行き着くらしいが、スーラントには全く違う生物にしか見えないのであった。元々が戦闘民族のため、荒々しい逸話ばかりが残っているせいもある。

 オーク族は腕力と体力があるので、鉱山で働いたり、工事現場や運搬業、軍人、用心棒など活躍の場は多い。だからと言って全員が上記の仕事につく訳ではないが、全体としての割合は高い。


 一方スライムはというと、ほぼ全てのスライムが同じ顛末を辿った。環境変化について行けなかったが故の、絶滅である。一番の理由としては、主食の魔素が激変した事が挙げられる。

 かろうじて生き残ったのは、たった数種の下位スライム達だ。彼らはもう魔法を使えないし、知能もほとんどない。本能に従い湿った場所に集い、ごみ捨て場で野良猫と喧嘩する毎日だ。うっかり屋はやっかいで、しばしば水道管を詰まらせる。おまけに放っておくと考えなしに増える。つまり、害獣に成り下がってしまった訳である。ただ一体、スーラントを除いて。

 彼が気がついた時、そこは花咲く野原で、彼は既に『こう』だった。体が極限まで細かくなって意識が霧散していく記憶に、ただただ恐怖する感情だけがあった。それ以外の情報と経験は何も持っていなかった。今思えば、魔王が倒された影響だったのだろう。だからスーラントという名前も、自分で適当につけた偽名だった。確かな事がひとつある。彼は恐らく世界最後の、高度な知性を持つスライムである。



 スーラントは、ノンブの向かいのカウンターへ平皿を置く。次にしたことは、食べかけのチーズトーストを口から引っこ抜き、その上へ置く行動だった。ノンブは新聞のスポーツ欄に夢中だ。なので勝手にカウンター内に入り、適当に紅茶を淹れ始める。いつの間にか空になっていた店主のカップを取り、彼の分も注いだ。ノンブはお礼の代わりに、間延びした声を出した。用が済んだらカウンター席へ戻り、着席する。すっかり冷えてしまう前に、チーズトーストを食べてしまおう。今日も美味しい。暖かい食事はいいものだ。

「お前も大変だな。この世界でただ一人なんてよ」

 最後のひと欠片を放り込んだ時、ノンブが呟いた。突然何を言い出すのか。スーラントは紅茶を啜りながら、新聞を端から覗き込む。ノンブの視線は、コラム欄に移っている。絶滅した魔法生物に思いを馳せる、といった内容らしい。名前からして筆者はヒューマン族か。当事者ではないからこそ、いやに感傷的だ。

「ある環境にぴったり適応した種はその環境下では強いが、環境が変わった時柔軟に対応できない。仕方ない事だ」

 絶滅しかけの種である当事者は、ドライな返事を返す。印象の薄い平凡な顔に、諦念の笑みをたたえて。だが、こうして平和な朝を過ごせるようになるまでが、実は大変だった。ヒューマン族コラムニストの想像に負けず劣らない、しがないスライムの涙ぐましい努力があった。ヒューマンから見てさほど違和感がなく、かつ良くも悪くも目立たない、この基本形態を会得するまで苦労した。


 彼は旅をしてきた。長く侘しい旅を。その時間の多くは一人、いや一匹だった。失敗と経験を重ねて、幾星霜。流れ着いたこの街で、少し変わったヒューマンくらいにはなれているだろう。はずだ。相変わらず定職に就けず、都会の外れで探偵という名の何でも屋を無断でやっているが。ほぼ無職だが。ロクに仕事がないので、ツケが凄い事になっている場所があったりなかったりするが。


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