少年B

 その夜、俺はじっとしていられなかった。

 ベッドに寝そべっても腹の中で何かがうようよ動いているような不快感に襲われてすぐに起き上がってしまう。

 体が疲れたら眠気がそれを潰してくれるかもしれない。

 動きやすい服に着替えて、紺色に赤色のラインが入ったランニングシューズの靴紐を結んだ。


 地面を蹴る音がだんだん荒くなってきた。自分の呼吸音もやけに目立って聞こえる。

 冷たい空気が体内に入ってきても、腹部から胸にかけて体の中がむず痒い。

 交差点が近付いてきたとき、大きな荷物を積んだ自転車が横切った。そこまでスピードが出ていなかったので、面白半分で後を追ってみることにした。

「あれ」

 自転車は俺たちの通う学校に入っていった。

 その人影は、自転車を降りると大きな荷物から赤い缶を取り出して液体を撒き始めた。

「火点けやがった」

 俺は通報するためにスマホを取り出す。しかし、すぐに手を止める。

 燃え広がる炎が不審者の顔を照らした。

 ちらとみえた横顔は俺の知っている人物だった。

「かずま・・・」

 夢の中で俺に微笑んでたあいつ。

 俺がかずまにできることは?

 考えるよりも先に走り出していた。 

 俺はかずまに気付かれないように赤い缶を回収する。

 そうだ。高校の裏門を出てすぐのところに潰れたガソリンスタンドがある。そこに置けばすぐには見つからないだろう。

 携行缶をガソリンスタンドに違和感がないように置いた。指紋がついていることを考慮して、缶の表面を落ちていたぼろぼろのタオルで拭き取った。

 戻っても燃える音が響いているだけで、まだ騒ぎにはなっていなかった。

 かずまは俺が隣に立っても桜の炎を見ていた。

 火を纏った桜の木は溜め息が出るほど綺麗だったが、少し不謹慎な感想かもしれない。

 かずまが目を丸くしてこちらを見ている。

 俯きがちになって目が泳いだ。悪戯しているところを見られた子どもみたいだ。

 しばらく二人とも黙ったままだった。

「我々自身が安全な地にさえいれば、その眺めが恐ろしければ恐ろしいほど、一層心を惹きつける」

 突然かずまが言葉を発した。

「なにそれ」

「判断力批判って哲学書にそう書いてあった」

「面白いの?その本」

「〈やっち〉は半分も読まないうちに飽きちゃうと思うよ」

 俺は唇を尖らせて「わからないだろ」と言うと、かずまは柔らかな視線を向けてきた。

「ここは火が届かないし安全だよね」

「俺はこんなに火が綺麗だとは思わなかった」

「そうだね。僕でさえ他人事みたいに感動しているよ」

 いつの間にか人が集まってきていた。パトカーの赤い光も見えた。

 そっとかずまをその場に残して、警察車両から降りてくる人に駆け寄った。

 振り返った警察官は目が細くて唇が厚かった。体格は良かったけれど声が優しそうで少し安心する。

「これ、初めに見つけたのは、俺とあいつです」

 かずまを指さした。

 俺とかずまは事情を聴かれた。

 俺は偽証をした。本当のことも話したけれど、嘘の方が多かったかもしれない。かずまも俺に合わせてくれた。

 名前と電話番号を渡された紙に書くと「もう大丈夫だよ。ありがとうね」と言われた。

「気をつけて帰ってね」

 警察官に微笑まれたとき、後ろめたさを感じた。

 ううん。これでよかったんだ。かずまを助ける方法はこれしかなかったんだ。


 学校からの帰り道をかずまと歩くのは初めてだった。

 かずまは俺と目が合わないように俯いている。細い腕はボストンバッグを抱きかかえていた。

 自転車は俺が押している。

「なんで嘘ついたの?」

 かずまの声は掠れていた。

 なんでってそりゃあ。

「助けたかったんだ」

「僕を?」

「それ以外に誰がいるんだよ」

 かずまの絵を初めて見た公園に、俺たちは自然に入っていった。

「助けてもらった分際で言うことじゃないけど」とかずまが口を切った。

「僕さ。助けたいってセリフ、なんか偉そうだと思っていたんだ。偽善的で。

 言うだけだったら誰でもできるって思ってた。

 いざという時、本当に助けてくれるかなんて分からないし」

 俺は次の言葉を待った。腹部にソワソワするような感覚があった。

「でもさ、〈やっち〉」

 そこで言葉を切って「ふう」と息を吐いた。

「誰かを助けたいと思って動いている人って、かっこいいんだね」

 もう声は掠れていなかった。

 でもやはり目は合わせてくれなかった。

「久しぶりに絵を描きたくなったな」

 俺たちは近くにあったベンチに腰を下ろす。朝日の絵を見た思い出のベンチ。

 かずまはしばらく絵を描いていなかったのか。だからこの公園で見かけることがなくなっていたのか。

 かずまはいつの間にか描き始めていた。

 いつもの水彩の絵筆ではなくて色鉛筆を使って描いていた。

 次々と描き足される線やそれらに乗せられる色は、俺の目を釘付けにした。

 色鉛筆が紙を擦る音をかずまが遮った。

「でもやっぱり行動が伴わない人は多いよね」

「・・・耳が痛いな」

 描き途中の絵に見入っていて反応に遅れた。

「〈やっち〉は助けてくれたじゃないか」

「そうだけど」

「〈やっち〉に手応えがあったかは知らないけれど、僕は自分のために動いてくれたことが嬉しかったし、事実救われた」

 かずまは視線を上げることなく淡々と話している。

 絵も着々と完成へのステップを踏んでいる。

「俺には人を集める力があるみたいだ」

「なんとなく分かるよ」

 自分で言うとなんか恥ずかしい。恥ずかしさを押し殺すように語気を強める。

「かずまにも力がある」

 一瞬動きが止まったが、再び描く手は動き出した。

「かずまには魅力的な絵を描く力があって、その絵は見た人の心を掴む」

「漫画の読みすぎじゃない?」

「いや、冗談抜きで」

「今回こんなことになって痛感したよ。どんなに素晴らしい絵を描いても、自分が納得していても、見た人みんなに認めてもらうことはできないって」

 言葉とは裏腹にかずまは吹っ切れた顔をしていた。

「それはあれだ。力が通用しなかっただけだ。相性が悪かったんだよ」

「相性って何さ」

 かずまの口元が緩む。

「見て欲しいとは思うけれど、僕は好きだから描いているんだ。描きたいから描く。それだけだよ」

「そうだとしても」

 俺を魅了したのは紛れもない事実だ。

「俺はもっとかずまの描いた絵を見たい」

「僕はこれからもずっと絵を描き続けるよ」

 かずまは少し声量を抑えて「元気だったらね」と付け足した。

 絵が完成するまでの間、会話は途切れなかった。

 この漫画が面白いとか、将来何がしたいとか。

 海外に行って数多の美術館を巡る。

 かずまが教えてくれた将来の夢。俺は頭の中にメモをした。

 夜の公園ということも忘れて、ひたすらお互いのことを知ろうとした。

 ついに絵の完成の瞬間がやってきた。

 満開の桜を囲む威勢の良い獣のような炎。モチーフはあの燃えた桜の樹だろう。

「明日も学校に行かないとね」

 忘れていた。

 今日は平日で、金曜日ではない。校庭の桜が燃えたくらいで休みにはしてくれないだろう。

「休みにならねえかな」

 かずまが「校舎を燃やせばよかったかな」と真面目な顔で言うので、俺はつい吹き出してしまう。


 俺たちは立ち上がった。

「あの、〈やっち〉」

 やっと目が合った。街灯の光を反射している目には慎ましさが浮かんでいた。

「ありがとう」

 普段から聞きなれているはずの、その言葉がズシンと体に響いた。

 感謝されるってこんなに嬉しいものだっただろうか。

 俺は人間の力というものに固執してしまっていたのかもしれない。特別な力に頼らなくても他人を助けることができる。

 ちゃんと相手を見ていれば、そして、動くことができれば。困っている人の力になれる。

 人間は他人の足を引っ張るばかりではない。

「気に入らなかったから人を殺した」

「子供に悪影響があるから規制するべきだ」

「政治家がこんな責任感のない発言をしていましたよ」

 そういったニュース記事が俺の目を曇らせていた。埋もれた明るいニュースを探すこともしなくなっていた。

 都合が悪いことから目を背けてばかりいるのは良くないが、見たいものも素直に見られなくなるくらいなら、希望のあるものだけを見ていたい。

 こんな考え方に至ってしまうのは、俺が無知な高校生だからだろうか。

 かずまは個人的な都合で事件を起こした。かずまも立派に利己的な人間だ。

 だからどうした。かずまの絵は確かに俺を魅了した。

 きっと現実を見ろと言われることもあるだろう。でも、現実を見ることが自分にとって都合が良くなる時までは、都合のいい目隠しを続けていてもいいかな、と思った。

 身体の中の不快感はいつの間にか消えていた。

「帰ろうか」

 かずまは黙って頷いた。

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