少年B
意識が晴れたとき、俺は崖の縁に立っていた。
「なんでこんなところに」
崖の下を見ると真っ黒で、俺は足が竦んで動けなかった。
どんっ。
「あっ」
背中が押されたような感覚がして、身体は宙に投げ出された。
俺、終わったな。
風を感じているときは、それしか考えていなかった。下の暗黒を見るのは怖かった。
そこで視界が暗転した。
次に俺がいたのは鏡に囲まれた空間だった。鏡は高い壁になっていて、空に吸い込まれるように伸びていた。
空が青い。いや、もしかするとこの空だと思っている青は天井の色なのかもしれない。
見回すとこの空間には俺と同じくらいの歳の人間がうじゃうじゃいた。
泣き叫ぶ奴。微動だにしない奴。鏡を殴り続ける奴。
みんな異常だ。こいつらもそれぞれ何かしらの力を持っているのか?
隅っこにいた丸まった背中は見たことのあるものだった。
どこで見たかはよく思い出せない。そいつは必死に鏡を磨いていた。布の摩擦でかえって鏡が傷つくのではないかと思った。
誰かが悲鳴を上げた。
鏡にヒビが入っていた。
亀裂は大きくなり、小さなヒビを生み、またそれも大きくなる。ヒビは蜘蛛の巣みたいな模様になって、俺たちが映っていた鏡は歪んだ。
がしゃん!
俺の近くに鏡の破片が落ちてきていた。
鋭く尖った鏡が俺の近くにいた人間を切り裂いた。隅っこの人間は、手が真っ赤に染まってもなおヒビの入った鏡を磨いている。
その人間も俺もやがて切り裂かれるのだろうな。
俺が覆い被さればあいつは助かるだろうか。
足は思ったように動いてくれなかった。崖の上に立っていた時と同じだ。
人の為には動けない人間。
結局自分が可愛い人間。
他人を助けた自分に、良いことをした自分に酔っている人間。
あいつはなぜ磨き続ける?どうして磨き続けているんだ?
鏡を磨いていた人間は磨く手を止めて振り返った。そして俺に微笑んだ。
俺はその微笑を見てはっとした。
「あいつは」
次の瞬間、鏡の氷柱が落ちてきた。
俺はそこで目を覚ました。
夢だったのかと安堵したけれども、酷い自己嫌悪感に襲われた。
Tシャツは汗でぐっしょり濡れていた。手の甲で顔を拭うと、手に汗の粒が移った。
俺には人を集める力があるようで、昔からいつも周りには誰かがいた。学校に行けば誰かは必ず寄ってきた。
そんな俺が孤独を感じるのは、下校時にみんなと別れた後くらいだ。
他の人からしたらその孤独感は凄く小さいものなのかもしれないが、俺は独りになるということが滅多にないから過剰に感じてしまうのだと思う。
かずまは今独りぼっちだ。それがどんなに辛いことか想像するだけで胸がチクチクする。
かずまの噂のことは友人から聞いた。
何も知らなかった俺は、ある日かずまと学校ですれ違ったとき、いつも通り手を振った。
すると普段は首を突っ込まない友人が眼を鋭くさせて「今のやつと知り合い?」と聞いてきた。「そうだ」と答えると黒板に描いた絵の噂を教えてくれた。
それを聞いても俺は驚かなかった。
俺はその黒板の絵をこの目で見ていたから。
それよりも、そんなことでかずまが煙たがられていることに愕然とした。あいつはただ絵を描いただけなのに。
もしあの放課後、康太が忘れ物をしたと教室に戻っていなかったら。それに俺がのこのことついて行っていなかったら見ることはできなかった。
一目見ただけでかずまの絵だと分かった。
俺たちは二人でしばらく見惚れていた。
普段は涼やかな顔をしている康太さえ、頬を紅潮させて「これは凄い」と呟いていた。
完全下校の時間が過ぎそうだったので、俺たちは写真を撮って帰ることにした。
その写真はちゃんとスマホに残してある。
かずまが画題の池の写真を撮ったとき俺も一緒にいた。桜の写真を撮っているのかと思ったら、あいつは池を撮っていた。
「花筏って知ってる?」
「はないかだ?」
「散った花びらが水面に浮かんで帯みたいに流れる。あれ」
かずまは池の端に浮かぶ薄ピンクの花びらの集団を指差した。
「ああ、あれか」
「桜ってさ。満開の時はもちろん。七分咲きの時も、散っているときも、散った後も、綺麗とか風情があるとか言われていて、なんかずるいよね」
そうかもな、と思って俺は頷いた。桜はどの場面を切り取っても美しいと言われる。
かずまも正当な評価を受けたいと思っているのだろうか。
「桜はいつどこで見てもいいよな。羨ましい」
ふんわり手の甲に落ちてきた花びらを、ふうっと息で吹き飛ばす。
「サクランボもおいしいし」
俺が付け加えると、かずま「確かに」と笑っていた。
あの絵は俺とかずまの共通のストーリーを思い出させてくれた。
公園でかずまを見ることはなくなっていた。家に閉じこもっているのか、はたまた絵を描く場所を変えたのか。
康太から教室でのかずまの様子は聞いている。
助けたい。かずまの描く絵をもっと見たい。
俺はスマホの中のかずまの作品を、一つ一つたっぷりと時間をとって眺めた。
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