少年A

 担任の話が終わって生徒たちは教室を出ていく。

 教室の掃除をする者。帰宅する者。部活動に行く者。

 僕は日直だった。日直は最後まで教室に残っていなければならない。

 だんだん人が減っていく教室の向こうの廊下を眺めて、〈やっち〉が通るのを待っている。いや、特に彼に用事はないのだけれども。

 〈やっち〉と公園でコーンポタージュを飲んでから、僕はよく公園で絵を描くようになった。また〈やっち〉が声を掛けてくれるのを期待して。

 毎回とはいかないまでも期待通り〈やっち〉は僕の絵を見に来てくれた。

 僕の絵が完成すると、彼はそれを写真に収めるようになった。恥ずかしいけれど「見たい時に見れるようにさ」とふんわり微笑まれると、どうにも断ることはできなかった。

 僕は絵を描く者だ。

 黒板消しクリーナーの激しい音が何度も響かせているうちに、黒板は一筋もない濃い緑一色になった。

 驚かせたい。見てもらいたい。できれば〈やっち〉に。

 もう頭にはそのことしかなかった。

 そうだ黒板いっぱいに絵を描いてみよう。

 気分が高揚している。

 チョークを教壇の上に並べてみた。お決まりの白、ピンク、黄色、青以外にも、本数は少ないけれど、緑、オレンジ、紫を見つけた。これだけの色があれば十分だ。

 さて、何を描こうか。

 スマホに収まっている、昔の自分が描きたいと思った風景の写真をスライドしていく。

 画題はすぐに決まった。家の近くの池を撮ったものだ。淡いピンクの桜も映っていて、枝はところどころに緑が混じっている。桜の散り際、葉桜への移ろいも情緒に溢れていて気に入っているが、メインにして描きたいのは池の方だった。

 早速描こう。

 黒板に絵を描くのは初めてだったし、今後もそうそうないことだろうと思っていたのでファーストタッチは緊張した。

 描き進めていくと、ここが学校だと意識するのもやっとになった。それくらい夢中になって描いた。制服のズボンがチョークで汚れていくのも気にならなかった。

 この絵が学校中に広まって、自分が目立ってしまったらどうしようか。そんなことで委縮してしまう僕は格好悪い。

 頭を過ぎったが考えても無駄だった。僕の体は、腕は、手は、指先は、この絵を完成させることに邁進していた。ただ描き続けた。

 描いている途中は誰も教室に入ってこなかった。

 描きあがったときにはもう空は暗く濃くなっていた。時計の針は完全下校の時間には届いていなくて、グラウンドからは部活に励んでいる生徒たちの声が聞こえたので少し安心した。

 絵を改めて観る。

 いい出来だと自画自賛した。描きたいものが描けた。

 黒板はこのままにして帰ろう。〈やっち〉が見る機会はあるだろうか。

 僕は周りに散らしたチョークを掃除しながら、クロード・モネの睡蓮を思い浮かべていた。あの絵を初めて観たとき、写真だったのに心が震えたんだ。大袈裟かもしれないが、展示してある実物を観ることができた日には感動で心臓が痙攣してしまうかもしれない。

 海外の美術館には強い刺激を与えてくれる美術品がたくさんあって、日本では味わえない胸に迫るものが詰まっているに違いない。

 今の僕は絵描き道具を新調するだけで、すぐに財布が軽くなってしまうし人見知りはする。外国語もろくに話せない。

 いつか海外の美術館を回って、刺激された創作意欲を絵として表現したい。

 電気を消して教室を出る。振り返って黒板の絵をも一度見る。

 この絵、観てくれたらいいな。

 僕は絵画が好きな者だ。自分で納得するように呟いた。


 張り切って学校へ行く支度をした。

 あれを見た人はなんと言うか、あれこれ想像を広げていた。消すのが惜しいと言われて自習になればさらに嬉しい。

 こんなに学校への足取りが軽いのはいつぶりだろうか。

 教室に入った瞬間、僕は愕然とした。

 教室を間違えてしまったのかと思った。そこには昨日描いたはずの絵はなかった。黒板にはチョークの消し跡しか残っていなかった。

 知っている顔がいくつもあったので、間違いなくここは僕が昨日もいた教室だった。

 平静を装って自分の席に座った。視線を感じるのは僕の思い込みではないはずだ。それよりも僕は〈やっち〉があの絵を見たかどうかの方が気になっていた。

 一人の女子生徒が座っている僕の横に立った。

「ねえ。昨日の日直、遠藤君だよね?」

 清楚を作ったような声がした。肩に届かないくらいの髪は綺麗に整えられていた。

 男子から人気のありそうな外見だなと思う。実際に好意を寄せられることも少なくないようで、その手の噂は僕も耳にしたことがある。

 いつも賑やかにしている女子の輪の中心にいる彼女に話しかけられたのは、これが初めてかもしれない。

「そうだよ」

「昨日、絵を描いて帰ったのも遠藤君?」

 僕は彼女の目を見て黙って頷いた。

「絵上手なんだね」

「ありがとう」

 そんなことが言いたいわけではないのはわかった。

 ちょっと間があって、彼女ははっきりと周りにも聞こえるような声を出した。

「ダメじゃん。黒板は綺麗にして帰らないと」

 朝ののんびりとしているはずの教室は、冷たくしんとしていた。彼女の嘲笑を含んだ声が響く。

「私が代わりに消しておいたから。よかったね、先生に怒られずに済んで」

 針山に一本ずつ待ち針を刺すように、ぷすりぷすりと彼女の言葉が僕の心に刺さった。

「無理して盛り上げようとしなくてもいいんだよ?そういうのは私らがやるから」

 ほとんどのクラスメイトはもうクラスに入ってきていた。彼女の他に声を発する者は誰もいなかった。

 彼らはきっとこの空気が息苦しくてしょうがないことだろう。

 少しだけ申し訳なく思う。

 僕はだんまりを決め込んだ。余計なことを言って刺激するよりマシだと判断した。

 何も言い返してこない僕に時間を割くのは無駄だと思ったのか、フンッと鼻で笑って「とにかく」と続けた。

「少し絵が上手い方って、日陰者が調子に乗らないでね」

 彼女はそれでもまだ何か言い足りなかったのか、僕の耳元に顔を寄せた。そして、今度は僕以外に聞こえないように囁く。

「私はあの絵が嫌いだから」

 それだけ言葉を残して戻っていった。理由は聞かなかった。

 彼女の言葉に対する悔しさよりも、〈やっち〉があの絵を見ていない可能性が高いことへの落胆の方が大きかった。

 委員長が担任と話しながら教室に入ってきて、何事もなかったかのようにホームルームは始まる。

 その出来事があってから、僕と他の生徒との間にあった隔たりはますます広がって、溝はより深く壁はより高くなった。

 あんなに僕にくっついて歩いていたたけおでさえ、寄ってくる頻度は激減した。

 僕の方から話し掛けに行くこともしなかった。誰もそれは望まないと思ったから。

 僕はひょんなことから〈やっち〉と知り合った。彼女の言う通り思い上がっていたのかもしれない。


 噂は恐ろしいという噂は聞いたことがあるが、それは事実であるようだ。

 僕の思い付きから生まれた絵のことは、隣のクラスへ、またその隣のクラスへとすぐに伝わった。

 ありもしないデマも引き連れて伝播したこともあって、教室を出ても視線を感じるようになった。その痛い視線の数は日に日に増えていくのが分かった。

 教師の耳にもその噂は入っているようで、擁護するでもなく哀れむような目を向けられた。

 仲間を作るのが上手い人間。人を動かすことができる人間。集団のリーダー的存在。

 彼らを敵に回すようなことは控えるべきだと学んだ。

 あの一件があってからも変わらず接してくれたのは、クラスの委員長と時々すれ違う〈やっち〉くらいだった。

 恐らくただ同情してくれているだけだろう。

 僕は有名人になった。勿論、いい意味ではない。

 どうして黒板に絵を描いただけなのに嫌われなければならないのか。

 なぜ他人の顔色ばかり窺って生きないといけないのか。

 なんで、なんで、と我が身可愛さの疑問が込み上げてくるが吐き出す相手はいない。体の奥底から疑問ばかり湧き上がってきて、それをどう抑えればいいのか分からない状態だった。

 遂に僕は絵を描くことからも距離を置くようになった。当然〈やっち〉のことも避けた。

 結局誰しも何かに属する人間。元々住む世界が違うこともある。

 自分の中に溜まった得体の知れないもやっとしたものを、何らかの形で払拭したかった。早いうちに取り除かないと、高校を卒業してからもそれは一生付き纏ってくるように思えた。

 学校帰り、僕は葉桜を見ていた。この学校のシンボルでもある桜。

 桜の花言葉は確か「精神の美」「優美な女性」。

 あのリーダー格の女子生徒を思い浮かべる。

「それはない。燃えてしまえ」

 この桜を燃やしたいと思った。放火は犯罪だけど、自分の中のいらないものを葉と一緒に灰にしてくれるのではないか。

 捕まったとしても悔いはない。もう僕は犯罪者を見るような目で見られているのだ。

 桜を一瞥して歩き始めた。

 桜は炭になっても美しいのだろうか。

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