青年A

 YASUと実際に会って話をしたのは、初めて連絡を取ったあの日から一週間経った後だった。

 俺は極度に緊張していた。会って話す場所はYASUが提案してきた。「交通のアクセスもいいと思うので、新宿駅の近くのカフェとかはいかがですか」と。

 指定されたカフェは洒落た雰囲気だった。フォーマルな服装の男性客が多く見られた。奥の少し大きめのテーブルでは、シニアの集団がお茶会のようなことをしていた。

 YASUからメッセージが届いた。

「(すみません、時間ギリギリになってしまいます。到着したら、先にお店に入っていてください)」

 適当に返事をして深呼吸した。

 ブラックコーヒーを飲みながら、どんな人が来るのかそわそわしているとスマホが振動した。

「(到着しました!何色の服着ていますか?)」

「(緑のチェックのシャツで、髪は短めです)」

加えて簡単に席の場所を送ると、YASUはやってきた。


「ユウってのは、あんたか」

 第一声はそれだった。

 顔を上げるのが怖かった。

 おもむろに視線を上げていくと、見るからに剛健な肉体が目に入った。怒っているような無表情で、尚更俺は委縮した。目の鋭さは俺の小心な心から血を噴き出させるのに十分だった。

 逃げるしかないと思い、全身の力を最大限に足に込めて出口へ駆けようとしたが、一歩踏み出したところで呆気なく腕を掴まれてしまった。掴まれただけなのに、ぽきりと折れてしまうかと思うくらい強い力だった。もう逃げられない。

 飲んでいたコーヒーが視界に入って、絶望の色はこんな色なのかなと悲痛の顔で見つめた。


 そんな最悪の想像をしていたので、YASUの外見を見て拍子抜けした。

 俺よりも少し背の高い彼は、端正な顔立ちで黒髪のアップバングの毛先がふわっとしているのが印象的だった。真っ白のシャツの上にグレーのジャケットを羽織っていた。

「お待たせしてしまい、申し訳ございません。ユウさんですよね。初めまして、篠塚保典しのづかやすのりといいます」

 俺も名前を伝えると篠塚保典から白い歯がこぼれた。嫌みの全くないお手本のような笑顔だった。

 そして「僕も飲み物買ってきますね」と椅子に鞄を置いた。俺はレジへ歩く篠塚の背中を目で追っていた。

 篠塚との会話は滞りなく進んでいった。

 はじめはお互いの身の回りのことを話した。どうやら彼の通う大学は、俺の通う大学と場所が近いらしい。そこの4年生で経営学を専攻していたそうだ。

 話を聞いているときの篠塚は、俺の目を見て、うんうんと頷きながら自然に微笑んでいた。彼の聞き上手さを実感し、それと同時に、次々と言葉が零れてしまう自分が恥ずかしくなった。

 話は身辺のことになった。親の職業から友人の話まで。海外に行っていた洋介の話もした。

「へえ。そのお友達はどこで留学していたんですか?」

「バンクーバーって言っていたと思います」

「カナダですか。いいですね。勇平さんが海外に興味を持たれたのはそのお友達の影響ですか?」

 全くそんなつもりはなかったが「ええ」と答えた。

「俺、人を助けたいんです」

 ぽろっと出てきてしまった言葉に唖然とした。ヒーローになりたい、と言わなかっただけましかもしれない。

 篠塚の時間が一瞬止まったように見えた。でもすぐににっこりして「素敵だと思いますよ」と言ってくれる。

「ふ、深い意味とかはなくて、ほら、そこら辺でもよく外国人とすれ違うじゃないですか。道聞かれても英語話せれば安心というか」

「確かにそうですね。安心できますよね」

 共感する言葉が俺を落ち着かせた。

「僕が通っている英会話スクールなんですけど、ディスカッションやディベートがメインで、一コマが三時間以上と長いんですよ」

「長いですね」

 俺は単純に思ったことを口にした。

「日本人って、中学校、高校と最低でも六年間は英語を学んでいるはずなのに外国人と会話できる人って少ないと思いませんか。それって単純に話していないからだと思うんですよね」

 篠塚は真面目な顔つきになった。

「学校で英語を学ぶとき、文法から教わるのがほとんどですよね。でも小さいころのことを考えてみてください。日本語は文法とか教わる前から意味も分かって話せていたと思いませんか。

 順番が違うんですよね。あくまで学校で教わる英語は、テスト、定期試験で点数を取るための英語です。まあ、勝手な僕の意見ですけどね」

ずっと聞きに徹していた篠塚がいきなり一方的に話し始め、主張をぶつけてきたので面食らってしまったが、不思議と嫌な気はしなかった。

「あ、すみません」

 俺がぽかんとしていたのに気付いたのか、篠塚は謝罪の言葉を口にした。

「問題はお金と時間なんですよね」

 時間の面はまっぴらな嘘だが、金銭面では実際に厳しいところがあった。

 田舎から上京してきて一人暮らしをしている俺が自由に使えるお金は限られていた。アルバイトはしているが英会話スクールの受講料は安いものではないだろうし、親からの仕送りも多少あるが勉強にそれを注ぎ込むのは気が進まなかった。

「そうですよね」と眉を下げた篠塚は、それほど気落ちしたようには見えなかった。

「実はレッスン費はほかの英会話教室に比べて安いんです。テキストもありませんし。参考程度に資料あげますね」

 紙の左上が留められたレジュメが差し出される。

 捲っていくとスクールの概要に続いてこだわり、料金説明、最後に通っている生徒の声がインタビューの形式で載せられていた。会社に対してマイナスな答えがない質疑応答には少し違和感があった。

「ありがとうございます。でも、考える時間が欲しいですね」

 きっぱり断ってしまったら、これで解散になるのだろうか。

 英会話スクールに通う気はさらさらないが、この人ともう少し話がしたいと思った。

「そうですよね。じっくり考えてみてください」

 篠塚の口元が歪んだ。

「じゃあこれでセールストークはおしまいにしましょう」

 その言葉にどういう意図があるのかわからなかった。

 俺はコーヒーを口に含む。目を細めた篠塚もストローに口をつけた。

「何?もっと誘ってほしかった?だって勇平君、それほど海外に興味ないでしょ」

 篠塚の言葉は清々しいほどの爽快さを含んでいて、真っ直ぐに俺を射抜いた。それよりも内心を見抜かれていたことに驚き、いきなり砕けた口調になったことに困惑した。

 俺は新手の勧め方かもしれないと少々身構える。

「僕、あんまりこういう勧誘好きじゃないんだよね。早く終わらせたくて一気に喋っちゃった」

 苦笑している篠塚は、本当にもう英会話を勧める気が無いようだ。

 このカフェに来て調子を狂わされてばかりだ。予想外のことが立て続けに起こり頭の回転は追いついていなかったが、知らずと力んだ心の力が抜けるのを感じた。

「ねえ。そんなことより、さっきの話聞かせて。人を助けたいってやつ」

「ああそれは」と狼狽える俺に、暖かく包むような視線が注がれる。

「俺、助けたいとは言っても、助けたい特定の誰かって定まっていなくて。でも、困っている人は助けたいんです」

「知らない人でも?」

「はい」

 自分の顔が熱くなってくるのが分かる。どうして今日初めて会ったばかりのこの人に、こんな話をしているのだろうか。

「へえ。例えばさ犯罪が起きたとして、テレビとか新聞とかで情報が流れてくる。その流れ込んできた事件に対して、可哀想だ、力になりたい、といちいち思うわけ?」

 それは大袈裟だが。

「ええ、助けたいです。でも、どうにもできないです。被害者は赤の他人ですし」

「何もできない、って見ているだけ?」

「そうなりますね」

 粘りのある嫌な汗が肌に浮かんできたのを感じた。

「加害者はどう?何か満たされないものがあって犯罪に至ったわけでしょ?

 困った末の犯行かもしれない。それでも許せない?」

 確かに篠塚の言うことは一理あった。加害者にも何かしらの事情はあるのかもしれない。

 でもそれを考慮して見逃し続けていたら、世界中犯罪者だらけになってしまう。ヒーローは悪を許すべきではないと思ったので「犯罪は犯罪です」と答えた。

 篠塚は眉一つ動かさないで「罰せられて然るべき、か」と呟いた。

 独り言のようなそれは、空中を漂うことなく溶けてしまった。

 その後もしばらく二人の会話は続いた。

 帰るときになっても彼の周りの空気は明るかった。俺が改札を通るとき、篠塚は「また話そうね」と手を振っていた。

 時計を見ると最初に自己紹介をした時から三時間が経っていた。

 人にぶつかりそうになりながらホームを目指す。

 すれ違いざまに近くで男性が財布を落としたことにも、小学生くらいの女の子が転んだことにも、俺は気が付かなかった。


 俺はしばらく電車に揺られていた。

 駅から流れ出る人々の隙間を縫っていくうちに、空腹感が襲ってきた。そういえば夕飯を食べていなかった。

 スーパーに寄って適当に弁当や飲み物を買って店を出た。

 スーパーから少しずつ離れていく。それにつれて人気もだんだん無くなっていく。

 等間隔に足元を照らす街灯を一つずつ追い抜く。俺と同じように前を歩く人影がひとつだけあったが、黒の塊にしか見えなかった。

 黒の塊は少し近づくと人間のシルエットに変わった。そして、あと10メートルほどで追い付くという地点で、ようやく若い女性だと認識することができた。道の左端を淡々と歩いていた。

 彼女もスーパーに寄ったのか、左手にレジ袋を提げていた。右肩には私物が入っているであろうトートバッグを掛けていた。


 背後からバイクのエンジン音が聞こえてきた。時間は21時を回ったところだった。

 ふと目に入った月は、少し欠けていて赤みを帯びていた。赤い月が出ているというだけで、根拠はないものの不吉な予感がして胸が痛くなった。

 気味が悪いほど赤っぽい月に睨まれて落ち着かない俺は、妙なことに気が付いた。

 バイクのエンジン音が俺を追い抜かないのだ。音は少しずつ大きくなってきているので近づいてきてはいる。それなのにまだ横を通過しない。

 どれだけゆっくり走っているのだ。

 じれったくなった。俺は細い道の右端に寄る。背中の方に全神経を集中させていた。

 やがてバイクは俺と並んだ。ヘルメットの向こうを見ることはできなかった。

 そこからは早かった。突然加速したバイクはすぐ前を歩いていた女性のトートバッグを、手のひらで撫でるようにして奪い去っていった。いつだったかテレビで見た、鷲が狙いを定めて野ウサギに爪を食い込ませて飛び立つ光景を連想させた。

 鮮やかな犯行に声を出す余裕もなかった。


 これはただの俺の想像でしかないけれど、実際に起こり得ることで今までにどこかで起こっていたわけだ。

 後ろを振り返って誰もいないことを確認して、胸をなでおろした。

 スマホが電話の着信を知らせた。

 どんな物音にも敏感になっている俺はびくりと過剰に反応する。かけてきた相手は洋介だった。

 どうせまた、どうでもいい世間話が始まるのだろうなと思っていた。

 電話に出るなり「もしもし、勇平?」と確認してくる。「俺以外に誰がいるんだ」と口にしたところで、いつも雑談をする時とは様子が違うことに気が付いた。

 洋介は明らかに焦っているようだった。

 スマホに耳を当て続けているが「ヤバいよ、大変だ、どうしよう」と叫んでいる。

 壊れた玩具みたいに何度も何度も繰り返している。そんなネガティブな言葉ばかり喋る玩具なんて断じていらないが。

 話を聞かないことには何を言ってあげることもできないので、洋介が落ち着くのをひたすら待った。

 頃合いを見て「深呼吸をしろ」と言うと洋介は素直に従って、やっと中身のある声が届いた。

「俺、ついさっき、ひったくりに遭ったんだ」

「お前が?」

「うん、鞄持ってかれた」

 スマホを持つ手のひらは汗でじっとりと濡れていた。

 不吉な想像が現実となった。しかも自分の知り合いが被害に遭うなんて。

 電話の奥で洋介が嘆いている。

「なんで俺なんだよ。ひったくりって、主婦とか若い女とか、なんていうのかな。弱そうな人を狙うもんじゃねえのかよ」

「その犯人にはお前が弱そうに見えたんじゃないのか」

「なんでだよ」

 洋介は怒りをぶつけるか悲しみを訴えるか迷っているようだった。

「突然のこと過ぎて、どうすりゃいいのかわかんなくて。真っ先にお前に電話しちまったよ」

「先に警察だろ」

 「だよな、そうする」と洋介は電話を切った。

 俺の周りは静かだった。

 どうして犯人は洋介を狙ったのだろうか。

 ベッドに寝転んでからも俺の頭の中は乱れていて、なかなか眠れなかった。

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