少年B

 汗が右の頬を伝っていくのが分かる。

 まだ四月なのに汗だくになるほど暑い。ずっと走り回っていたようなものだから暑いのも当たり前だ。

 部長の掛け声がグラウンドを駆け抜けた。まっすぐな声だった。そのまっすぐさは白紙に定規で引いた直線みたいだった。

 じわじわと片付けが進んでいく。俺も近くにあった細かい備品の入った籠を持ち上げた。籠の重みを全身で受け止めた。

「先輩、代わります」

 1年生の一人が俺に向かって走ってくる。まだ持って30秒もたっていないのに引き渡すのは申し訳ないと思い「いや、俺がやるよ」と断ったが、後輩の眉が下がったのが分かったので「じゃあ、お前に任せる」と引き渡した。

「ありがとうございます」

 後輩の顔は晴れやかになった。俺も2年前は彼みたいに可愛げがあったのだろうか。

 風が木を揺らした。ピンクの破片がひらひらと舞っている。

「〈やっち〉!そこの俺のジャージ持ってきて!」

 今度は同級生だった。〈やっち〉と呼ばれている俺は小走りでジャージを目指す。



 制服に着替え終わって部室を出る。部室内の汗と制汗剤の混じった空気が別世界のものに思えるくらい、外の空気はさっぱりしていた。

 冷たい風が肌に刺さる。ブラウスで下校するのにはまだ早いようだ。

「帰ろうぜ」

 後ろから同級生がぶつかってきて少し前につんのめった。

 学校を出たときは大人数の集団だったが、少しずつじゃあなと離れていき、残ったのは俺と部長の康太だった。

 二人とも何も話さず二人の靴の音が際立った。

「新しいクラスどう」

 先に口を開いたのは康太だった。すっと耳に入ってくる穏やかな声だった。

「うるさくて、ごちゃごちゃしている」

 率直な感想だ。とってつけたように「けど、いい奴も多い」と付け足した。

 康太はうっすら微笑んで頷いていた。

「俺のクラスは、おとなしいやつが多い。全体的に堅くて、しっとりした感じだな」

 堅くてしっとり。〈やっち〉は復唱して言葉を噛みしめた。

 それもいいな。

「ああでも、悪い意味ではない。自己主張をしないというか、遠慮深い」

「俺らのとことは真逆だな。美術館とゲームセンターくらい違う。隣のクラスなのにな。誰が決めたんだろうな。こんなにバランス悪く」

 俺の周りにはいつも不思議と人が集まってくる。彼らのクラスを考えてみても、やはり偏っているように思えた。いや、俺の周りに集まる人が偏っているのか。

「思えば女子は」康太が想い出したようにぽつりと言った。

 康太は顎を手でさすっていた。

「女子は賑やかにしている」

「美術館で騒ぐのはよくない。マナー違反だ」

「確かにそれはマナーが悪いが、あくまで教室だ。むしろ、賑やかにしていてくれて、丁度いいくらいだ」

「冗談だよ。それくらいわかってるよ」

 あまりに康太が真面目に答えたので、唇をとがらせて見せた。

 しばらく康太と他愛もない話をしながら、ゆったりと歩いた。

 遂に康太とも別れ、街灯の明かりに照らされた道を一人で進む。

 さっきまでは康太の人を安心させる力に浸っていた。それがなくなって急に心細さがこみ上げてきた。一人になったときにこんな気分になるのは、いつものことだった。


 人はみんな力を持っている。その力の大きさや強さは違えども、何かしらの良い側面を持つ。と俺は思っている。正確には、そう思いたいのだ。そうでないと救いようがないではないか。

 俺は頭がいいわけではないから詳しいことはわからないけど、犯罪とか争いとかが世界中で起こっていることくらいは知っている。国民に選ばれた政治家だって、足の引っ張り合いのようなことをしているのもニュースで見たことがある。

 きっと喜ばしいニュースもあるのだろうが、明るいニュースが暗いニュースに埋もれてしまっているに違いない。

 どんよりと重い世界の空気を作っているのは人間だろう。でも、その空気を軽くできるのも人間だろう。

 人間の持つ力で、良くも悪くも転がすことができる。俺はそう信じている。


 途端に肌寒さを感じた。あんなに暑かったのに。昼夜の寒暖差が激しいので体調を崩さないようにと、朝のニュース番組でお天気お姉さんが呼びかけていたのを思い出した。

 早く帰ろう、と歩くスピードを速めた。

 公園の横を通りがかったとき、木でできたベンチに丸まった背中が見えた。腹痛でお腹を抱えているのかと思ったが、すぐに違うと分かった。

 絵を描いていたのだ。

 俺は寒さなんてそっちのけで興味に従うことにした。

 近寄ってもその人間は夢中でスケッチブックに色をのせていた。

 スケッチブックを覗いてそこに描かれていたのは、朝日が海から登っていく景色だった。それは、沈む月とか夕日ではなく、間違いなく昇っていく朝日だった。

 自分の腕に鳥肌が立つのが分かった。一瞬で疲れ切った心が癒されたような感覚を覚えた。これが、この人間の力。才能というべきか。

「すげえ。もうすぐ完成ですか?」

 声を掛けたところで、彼が見たことのある人物だと気付いた。彼はようやくそこで俺の存在に気付いたらしい。

 俺の顔を見て目を丸くしている。

「うん、もう完成です。・・・え?〈やっち〉?」

「え」

 俺のことを知っているのか。

「ああ、うん」

 前に康太が、天才級に絵が上手い同級生がいると言っていた気がする。この彼のことだったのか。

「えっと、隣のクラスの」

 名前が思い出せないでいると、彼は「遠藤かずま」と名乗ってくれた。

 よろしくと言って、かずまはスケッチブックを折りたたむ。そして、割れ物でも扱うかのようにそのスケッチブックを鞄にしまった。

「いつもここで絵を描いているの?」

「いや、この公園で描くのは初めて。スケッチをしているわけではないから。静かな場所だったらどこでもいいんだ」

 さっきまでかずまが描いていた朝日が昇る海の絵を思い出していた。

 風が運んできた冷たい空気が肌に触れた。

「ちょっと寒いね」

 自分も思っていたことを先に言われて、咄嗟に言葉が出てこなかった。

 俺は公園の入り口あたりにある、ぼんやりと道を照らす自動販売機が目に入った。

「ちょっと待ってて」

 自販機まで駆け、コーンポタージュを二本買ってきて片方をかずまに渡す。

 かずまは突然の奢りに少し困った顔をしていた。けれど、遠慮がちではあったが受け取ってくれた。

 缶をぎゅっと握り指を温めながら公園のベンチで話をした。今までいろんな人と話しているが、こんな状況は体験したことがなく新鮮だった。

「コンポタってさ、最後の一粒までコーン飲み切るの難しいよね」

「ほら、二粒。底に残ってる」とかずまが缶の中を見せてくる。缶の中は、コーンが二粒並んでいて、離れないように必死に底にしがみついているように見えた。

「ああ、それ。飲むときに飲み口の少し下あたりをへこましておくと、解決するよ」

「え、言うのが遅いよ」

 控えめに不満を言う慎ましさに好感が持てた。

 俺の頭の中は、今でも少し前に見たあの絵画でいっぱいだった。いつもは惹きつける側の俺を惹きつけた画才。

「あのさ」

 俺は思い切って頼んでみることにした。

「あのさ。また、かずまの絵を見せてほしい」

 かずまの口元が緩んだのが分かった。

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