第20話 聞いて、セージ

 グリエは震えていた。

 床に体を横たえて、静かに時間が過ぎるのを待っていた。


 学長室は耳鳴りしそうなほど静かだった。グリエは一人で、自分の体の中にだけ聞こえる音を聞いていた。

 胸の奥が小さな音を繰り返し鳴らしていた。グリエ自身が立てる音。それを聞いているのもグリエしかいない。


(ふてくされてる場合じゃないかも)

 たぶん、何かが起きようとしている。グリエにはその十分の一も分かってないけど。セージが知っていることと、シュウウが知っていることを合わせれば、たぶん半分くらいは分かるに違いない。何かが起きていて、それはたぶん、予期され始めていて、そのうち解決するんだろう。


(でも、仕方ないじゃん)

 そこに、グリエが足すべき役割はないのだ。セージが『王の指輪』を取り戻すために協力した。セージとシュウウを会わせたのは自分だ。ブルギニョンがなにをしていたのか、分かってない。


 混乱して、疲れていた。グリエはくたくたで、それに苦しんでもいた。

 だから、よく分からなくてもしかたない。これまでもそうだったんだから。


 目を開けていられない。なのに、目を閉じても眠くならなかった。冷たくて無軌道な思考がぐるぐると頭のなかを駆け巡る。

 力が抜けて絨毯の上に手足を投げ出していた。立ちあがれる気がしない。

 休むことも動くこともできなかった。何もしていない時間。前にもこんなことがあった。一度や二度じゃない。


「あたしは上手に生きられない。みんなほどは」

 定まらない気もちを言葉にしたら、そんなところだ。


 その時、不意に窓の外のざわめきに気づいた。警鐘が鳴っている。街中に危機を知らせている。それに重なって、いくつもの声。固いものがぶつかる音もしていた。


 グリエは床の上をのそのそと虫のように這って、窓際に手をかけた。

 薄く広げた木窓の隙間から、のぼったばかりの朝日がまっすぐに降り注いできた。まぶしくて目を閉じると、喧噪は一層大きく聞こえる。


 手で日を遮って、目を細めながら見おろした。

 グリエがいるのは学院の最上階だ。この街で一番高いところだ。だから、グリエからは何が起きているのかがよく見えた。


 パステシュの街をぐるりと覆う石壁を、濃緑色のなにかが乗り越えているところだった。武器を手に持っている人たちが、「それ」に応戦しているのも見えた。壁の上を飛び回るようにして、目にもとまらぬ動きで戦っている誰かがいた。


 ラビオリだ。

 ラビオリが栗色の髪をたなびかせ、手にした刃物を振り乱す。疾走術で加速した剣術は、一瞬の間に三度も切りつけることができる。あっという間に、いくつもの敵が切り裂かれて、門の上に散らばった。その敵は生き物ではないらしい。


(すごいな、ラビオリは)

 何かがパステシュを襲っているということは分かった。でも、危機感よりも憧憬を感じていた。


(やっぱり、あたしのでる幕なんかないんだ)

 窓枠にもたれかかって、そう考えた時……グリエの目は、再び見開かれた。倒れたはずの怪物が壁の上に根を張り、巨木へと変わって行く。しかも、それは壁の外に連なっている木々と同化して大きな森に変わり始めていた。


 上から見ると、その森がどんどん広がっていくのがわかった。街のなかへ入り込み始めている。そして街の外にも。東の森とつながってしまいそうなくらい。


「これって……」

 街が危険に晒されている。いまのぼった朝日が沈むよりも早く、パステシュは森に飲み込まれてしまうだろう。いくらラビオリがつよくても、シュウウがいても、止めることはできない。


「どうしよう……」

 グリエはおびえていた。どうすればいいかわからなくて、独りぼっちだった。


『迷うなら、行動すべきではない』


 シュウウの言葉が脳裏に響く。迷っていた。諦めたいと思った。

 でも、グリエにはどうしようもない。諦めたって誰も怒らないはずだ。


(……ううん)

 涙がにじんでいた。グリエは大きく息を吸い込んだ。


(セージは怒るね、きっと)

 街中が、もしかしたら大陸中が危機にさらされている時、グリエが考えたのはひとりの妖精のことだった。


「決めないと」

 グリエの胸の奥で、熱い何かが脈打っていた。どくん、どくん、と鼓動が聞こえた。


「どうやって決めるか、決めるんだ」

 どうすべきか。誰も教えてはくれない。でも、ちょっと助けを借りるくらいはしてもいいはずだ。


 グリエは両手をついて立ち上がった。シュウウの机の上に、必要なものはすべてあった。紙とペンだ。

 ペンを取って、紙に描きつける……長い髪、蝶のような、トンボのような翅。目つきは悪くて、いつも不機嫌そうな顔。


「ぜんぜん似てないけど、許してね」

 グリエが描いたのは、一人のフェアリーだった。もちろん、セージだ。少なくともセージを描いたつもりだ。出来栄えには、目を瞑ることにする。


「聞いて、セージ」

 紙のなかのセージに向けて、グリエは話しかける。彼と話していたらどう応えてくれるか、夢中で考えていた。


「いま、みんなが危ない目に遭ってる。その原因はあたしが作ったんだと思う。あたしが、『王の指輪』をマリネに売っちゃったから。セージの体が小さかったから、最初に見た時、指輪の持ち主だなんて思わなかった。そんなの変だよね。体の大きさなんて関係ないのに。セージが苦しんでることもわかってたけど、たいしたことないって思ってた。小さいから。それに、すぐに怒って言いかえすし。セージだって、あたしのせいにしたり、ちょっとだけど嘘ついたりしたでしょ。あたしだって傷ついてたんだよ。悲しい気持ちになったし、イヤだって思った。でもセージも同じだよね。セージをバカにするようなことを言ったり、身動きできないようにしたり、あたしもひどいことしたよね。お互い様だけど、お互いによくなかった。あたしたち、あんまり仲良しじゃないけど、一緒に頑張ったよね。だってセージが考えてくれたから、ラビオリから指輪を取り返すことができた。たぶん、あたしじゃないとできなかったよね。……売ったのがあたしじゃなかったら、ラビオリが指輪を買うこともなかったかもしれないけど。でも取り返すことができるのもあたしだけだった。あたし、セージに会うまで、自分に何ができるか、全然わかってなかった。あの時もそう。学院でロウソクに火をつけたとき。あたし一人じゃできなかった。火をつけられたのは、やり方をセージが教えてくれたから。ううん、やれるってことを教えてくれたからだね。セージを助けてあげようって思ってたのに、あたしのほうがずっとたくさん助けられてる。あたしは何もしようとしてなかった。セージの言うとおりだよ。でもセージと一緒になら、何かできるって思えた。今、なにか大変なことが起きようとしてる。それぐらいわかるよ。いま何が起きてるのかわからないけど、きっとブルギニョンが指輪を使ったからだよね。ブルギニョンはすごい人だよ。でも、あたしはラビオリのこともすごい人だって思ってた。でも、指輪をラビオリから取り返せたよね。あたしたちと、少しだけマリネの力も借りて、取り返した。騙したり、隙をついたり……あんまりかっこいいやり方じゃなかったけど。もう一度できるかな。ブルギニョンから指輪を取り返すのは、もっと、ずっと難しいかも。でも、できるかもしれない。できないかも。……ううん、考えてもあたしにはわかんない。セージじゃないと。セージが考えてくれないと。それならきっと、あたしが必要だよね。あたしとセージがはじめたことだもん。セージのほうが五百年以上、責任が重いけどね。でも、一日と少し、あたしにも原因がある。責任も。あたしたちでやらなきゃいけない。あたしとセージでやらなきゃ。そうしないと、毎日思い出しちゃうよ。これからずっと。それはイヤだ。セージだって、きっとそうだよね。……あたしたちだけじゃ、無理かも。でも、マリネはまた助けてくれると思う。シュウウ先生も。きっと、もっとたくさん力を貸してもらわないと。ねえ、セージ、また言ってくれるよね。『お前がやるんだよ』って。あたしができること、セージが見つけてくれるよね。うん……決めた。あたし、決めたよ」


 そして振り返って、窓を見た。いまや、外から押し寄せてきた軍勢は、街の中に広がり始めている。下町の、マリネの道具屋がある区画まで。そこにセージがいるはずだ。


 グリエはゆっくりと息を吸い込んで、そして窓を開けた。四階建ての高さから、街が一望できた。


 木でできた怪物が、たくさんの建物を飲み込んでいる。街が侵略……いや、浸食されている。

 決断するまでに、ずいぶん時間を無駄にしてしまったけど、これ以上は無駄にできない。


『迷うなら、行動すべきではない』

 ふたたび、シュウウの声がこだました。


「もう迷ってない」

 決意とともに、グリエは跳んだ。

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