少年陰陽師 結城光流
『恋の歌、紛れ込む』
「お疲れ」
「うん」
肩にのっている
抱えていた布包みを
ひらりと飛び降りてお座りをした物の怪が苦笑した。
「十三歳の
右手で左肩を揉んでいた昌浩が目を細める。
「なんで書きものしてると肩が張ってくるんだろ」
作業をしながら、時々首を回してみたり、肩を上下させてみたり、大きく伸びをしてみたり、工夫してはいるのだが、毎日終業の
何とか凝りをほぐそうと肩を回している昌浩を見ながら物の怪は神妙な顔になった。
昌浩はいま忙しい。
それだけではない。陰陽部の空気が昌浩に対していやに刺々しいのである。
物の怪はその理由をたぶんわかっている。
「昌浩や。出仕してて、きつくないか」
遠回しにさぐりを入れる物の怪に、昌浩は眉間にしわを寄せた。
「うん、きつい」
「そうか」
「ひと月休むって、こんなに大変なことだったんだ」
「そうだな」
「やってもやっても終わらないくらい書きものがたまるなんて……」
「それかよ」
気遣わしげだった物の怪の声音が
「だってさぁ…」
情けない顔をした昌浩が文机の包みを開く。布に包まれていたのは数冊の書物と四本の巻物。書も巻物も、挟みこまれた紙が天から飛び出ている。挟み紙には細かい指定が書きこまれていて、指定された個所を抜き書きしたものを規定の枚数作成するのだ。
書物と巻物の挟み紙は物の怪が一見しただけでは数え切れないくらいに大量だ。
期日は明日。朝から終業の時刻までかかっても終わらなかったので、許可をもらって持ち帰ってきたのである。
「誰にも言えないけど、俺、このひと月くらい、かなり、ものすごく、必死で、死に物狂いで、頑張ってたわけだよ。誰にも言えないけど、誰にも言えないけどっ!」
誰にも言えないからここで言うしかない昌浩は、何がどう大変だったかは|端折る。細かく言い出したら完全に
物の怪はうんうんと頷いた。
それでも、何かを言いたくなってしまうくらい、仕事がたくさん溜まってなかなか終わらないことが地味にきついのだろう。
「そうだな。お前は頑張った、本当に頑張った」
「ううううう、がんばる……」
肩を落としながら
「お帰りなさい、昌浩」
昌浩は瞬きをして表情を引き締めた。
「うん、ただいま、
振り返った昌浩の顔は、作りものではない笑顔だった。
物の怪は苦笑する。泣き言をいうくらいきつくても、それを一瞬で吹き飛ばしてくれる存在がいてくれるのだから昌浩は幸せだ。
入ってきた彰子は、ふいに立ち止まって
「彰子? どうしたの?」
問いかける昌浩の近くに寄って腰をかがめ、眉根を寄せて鼻を動かしていた彰子は、文机の書物を指した。
「ねぇ昌浩、これはなに?」
問うてくる彰子の表情が、なぜか少し強張っている。
「え? 陰陽寮の蔵書」
「蔵書? それだけ?」
「そうだけど…」
一番上の書を彰子に見せるように持ち上げると、それと二冊目の書の間に紛れていたと
「ん? なんだ、これ」
見覚えのない紙だった。陰陽寮で使われている紙よりも薄く、上質なのがひと目でわかる。手のひら程度の大きさで、よく見れば二つ折りになっているのだった。
「これ…だわ」
「これ?」
「そう、
「え?」
昌浩と物の怪が同時に目を
「……ああ、言われてみれば」
物の怪が二つに折りたたまれた紙に鼻を近づけると、本当に
それに対し、昌浩は
「…………ええ……?」
一生懸命鼻を利かせる。
「うううううううん? ………………あ、これ、かな…?」
眉間にしわを寄せた昌浩はようやく、なんだか気のせいかもしれないけれどももしかしたらこれか、程度のほんのかすかな香りを感じ取った。
「彰子、さすが」
感嘆する物の怪である。書物の間に隠されていたものを感じ取るとは。
彰子は昌浩の横に腰を下ろした。
「これ、どなたかから、もらったの?」
「え? や、覚えがないけど…」
心なしか上目遣いの彰子に、昌浩は口元に手を当てて記憶を
「……あ、そういえば、陰陽寮でもこの匂いを嗅いだような…」
昌浩の呟きに彰子は何度か目をしばたたかせる。
「陰陽寮?」
「うん。曲がり角でいずこかの公達とぶつかったときに、ふわっと」
そのとき昌浩は、保管庫から出してきたばかりの書物と書の束を抱えて陰陽部に戻るところだった。出してくるように指示された書物が全部そろっているかを歩きながら確認していて、前をよく見ていなかったため、
向こうも同じだったようだ。
ぶつかった衝撃で昌浩は尻餅をつき、取り落とした書が辺りに散らばった。
一方の公達もよろめいて膝をついた。
その一瞬、昌浩の鼻先を香りがくすぐったのだ。
公達はとても急いでいたようで、頭を下げて謝罪する昌浩に、こちらも不注意だったと告げてそのまま足早に去っていった。
「あの公達の落としものかな」
だとしたらおそらく、落として散らばった書物と書を拾って重ねた際に、この香を
落とし主の手掛かりになるようなものが書いてあるかもしれない。
何気なく開いた紙面には、歌が一首記されていた。
女の筆跡だ。
彰子と物の怪が昌浩の手元を覗き込んで目を丸くする。
「―――――」
昌浩は黙って紙を折りたたんだ。
蔵書に紛れ込んだ紙に記されていたのは、明らかに恋の歌だった。しかも、間遠くなったのを嘆き不実をなじる手合いの。
歌が苦手な昌浩でも取り違えようのない
率直に表現するなら、そら恐ろしい。
彰子と物の怪は顔を見合わせた。
どうしよう。見てはいけないものを見てしまった。
なんとなく全員がそれから視線を逸らす。
しばらく神妙な顔で考えていた昌浩は、おもむろに物の怪を見た。
「もっくん」
「やなこった」
「俺まだ何も言ってないよ」
物の怪が半眼になる。
「どうせその公達が誰かを突き止めてさりげなく返してきてくれとか言うんだろ」
昌浩は手を叩いた。
「さすがもっくん、察しがいいね!」
「もっくん、すごい」
惜しみない賛辞を口にするふたりを、物の怪は斜の構えでねめつける。
「そんな称賛はいらん。大体からして俺はその公達を見てもいないんだぞ」
そのとき物の怪は、陰陽寮の昌浩の机の下で丸くなっていた。
「そこはほら、もっくんならなんとかできる」
「できるかっ! 少しは考えろ、
「孫言うな!」
目を吊り上げる昌浩に、物の怪は後ろ足で直立して前足を組んだ。
「いいか昌浩、お前は陰陽師だ。当てものに失せもの探しは基本中の基本だぞ」
彰子が首を傾ける。
「そうなの?」
「そうかな?」
昌浩も首をひねる。
「そうなんだよ。お前はまだまだ半人前でも一応陰陽師なんだから、まずその手の術で持ち主を突き止めろ。わからないんなら手っ取り早く晴明に訊いてこい」
渋面の物の怪に言い渡された昌浩が抗議の声を上げた。
「ええー」
「いいから行け。あいつのことだ、どうせこの話も全部聞いてる。そら、持ってけ」
物の怪に二つ折りの紙を押しつけられた昌浩は、渋々立ち上がる。
室を出ていく昌浩を見送った彰子は、ほうと息をついた。
「……ああ、びっくりした」
物の怪は尻尾をぴしりと振った。
「どこかの女房からの文だとでも思ったか」
「………………………」
沈黙する彰子の目がそうだと
物の怪は肩をすくめて苦笑する。
昌浩の兄ふたりならいざしらず、元服したばかりの十三歳の子どもに、あんな香を焚き染めた歌を送ってくるようなもの好きな女がいるとは、物の怪には思えない。
「……あ。いたな、そういえば」
「え?」
「いや、こっちの話だ」
怪訝そうな彰子にすまして答え、物の怪は長い耳をそよがせる。
香を焚き染めた文ではないが、香そのものが入った匂い袋を昌浩に贈った物好きな姫が、ひとりいた。
ふいに、釈然としない様子で彰子が呟いた。
「あのお文の香に気づかないなんて…」
この室に入ってきた彰子がすぐに、あれ、と思うくらい、はっきりとした香だったのだが。
「いや、むしろあれにすぐ気づくお前がすごいぞ」
「だってあんなにはっきりした香りよ?」
「俺は気づかなかった」
「もっくんも昌浩も、嗅ぎ慣れて匂いを感じなくなっていたのかしら…」
「それはあるかもしれん」
しかし、物の怪は思う。
昌浩とずっと一緒にいた物の怪も気づかなかった香を、彰子があれほどまでにはっきり嗅ぎ取れたのは、それが実は香ではなかったからではないだろうか。
彰子は、香を焚き染めた文に籠った女性の念を、香りとして捉えたのでは。
そうだとしても不思議はない。何しろ彼女はけた外れに強い
「あと、疲れてると鼻の利きも悪くなるしなぁ」
疲労は五感の働きを鈍くする。
「そんなに忙しいの?」
心配そうな目をする彰子に、物の怪はしかつめらしい顔で応じた。
「まぁな。下っ端の
たとえば、
「わかった」
彰子は真剣に頷くと、決死の顔で
食事の支度どころか、ろくに
夜食の用意といういまだかつてない難題に挑戦するため、安倍家の奥向きを取り仕切る昌浩の母
昌浩はまだ戻ってこない。
あんな文を送られた公達と送った女の行く末にほんの少し思いを馳せた物の怪は、もしかしたら残っているかもしれない念を一掃すべく、妻戸と
室に風を通して空気を入れ替える。冬の空気はきんと冷たく、清々しい。
しかし、人間にはいささかこたえる寒さだ。あとで火桶に炭を入れてやらないと、寒さで手がかじかむだろう。
昌浩は多分、徹夜の作業となる。
「仕方ないから、準備しといてやるか」
書きものには大量の墨が必要だ。
物の怪は文机にちらりと目をやった。机上には昌浩がふたを開けた硯箱がある。
硯箱を床におろして前足で器用に墨を持った物の怪は、俺って面倒見いいよなーとひとりごちた。
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