墓穴の恋(書き下ろしオリジナル短編) 守野伊音


『墓穴の恋』



 ここには何でもある。

 美味おいしいお菓子かしに、綺麗きれいなドレス。やわらかなベッドに、美しい部屋。

 ここには何でもあるの。

 楽しい本。難しい本。可愛かわいい宝石。柔らかな絵。

 ここには何でもあるの。何でもあるの。

 だから、だれもいないのよ。

 だから、ここには何もない。

 何もないの。




 一枚で民が一年でかせぐ金貨のがくを優にえてしまうお皿の上に、宝石のようなチョコレートが山と積まれている。それを見て、笑ってしまう。ここには私しかいないのに、一体どれだけ積まれるのだろう。

 えさを放り込まれている気分だ。

 山と積まれる菓子を見るたび、そう思う。毎日のことなのにそう思い続ける私は、いい加減しつこいのだろうが、他に見るものも考えることもないのでどうしようもないのだ。



 ここは大陸の南方に位置する王国の一つ。名を、ロナール王国という。

 ロナール王国には、美しい姫がいる。愛らしく美しい姫は、王と王妃おうひ、そして国民の宝だ。







 今日も今日とてすることがなく、ふっと息をいたとき、視界のはしとびらがたわんだ。固く閉まっているはずの扉が、水面に落ちたストールのようにたわみ、次の瞬間しゅんかん一人の少年が現れた。


「せめてノックしてって言ってるのに」


 毎度のことなのでもうあきらめているが、一応文句もんくは言っておく。ぷくりとふくらませた私の不満なんてものともせず、少年はり切れた黒の外套がいとうけるように追い払い、私のベッドにどかりと座った。細く小さな身体からだ。私と同じ年なのに、私よりうんと小さい。

 黒髪くろかみに赤いひとみの彼は、私と同じ十一才だ。

 ベッドにごろりと寝転がった少年は、指先をくるくる動かす。すると、チョコレートを山と積んでいたお皿がひとりでに動き出し、ベッドまで飛んでいく。


「カレル、お行儀ぎょうぎ悪いわよ」

「だーれも見てないだろ」

「私が見てるわ」

「それ命令?」


 いつものように、にくたらしく口元を片方だけひんげる笑い方で言われた言葉に、ぐっとまる。


「……命令では、ないけれど」

「じゃあいいじゃん。お前も寝転がってごろごろしてるだろ」

「私の部屋だもの」

「部屋ねぇ」


 宝石のようにかがやくチョコレートを、ぽいぽいと口の中に放り込みながら、カレルの赤い瞳がぐるりと部屋を見回す。端々はしばし装飾そうしょくほどこされた家具、その上で輝く、美しい魔術灯まじゅつとうに照らされるガラス細工ざいく。何でもある、何にもない部屋。

 カレルは日差しが入ることのない壁をぐるりと見回し、扉で止めた。


「王女の私室が地下にあるって、笑える」

「窓がなくても、人は生きていけるもの」


 お父様が、お母様と私がいなくても生きていけるように。






 ロナール王国には、美しい姫がいる。愛らしく美しい姫は、王と王妃、そして国民の宝だ。

 それは、先代王妃が身罷みまかられたも開けぬうちに正妃にり上がった元第二妃と王の子、第二王女を指す。

 正妃であった先代王妃と王の子である第一王女は、正妃の死後、一度もおおやけの場に現れていない。母を失った悲しみ深く、んだのだそうだ。食事ものどを通らず、泣き伏せる毎日らしい。第二王女は、第一王女より一つ年下であるが、第一王女の代わりをつとめようと懸命けんめいはげむ毎日らしい。

 らしい。らしい。らしい。

 直接外の様子を見たわけではないのでこの言い方になるが、おそらくは真実であろう。その程度には、当時六才であった私にだって周囲の感情を読み取れていた。父の寵愛ちょうあい行方ゆくえも、元第二王妃の嫌悪けんお矛先ほこさきも、第二王女の幼子おさなごとは思えぬみの理由も。

 その結果、第一王女である私は、かぎのかかった豪奢ごうしゃなだけの地下室から、五年間一歩も出ていない。

 父にとって私達母子おやことは、母の血筋によって成り立った関係だったのだろう。恋愛結婚は心一つでくずれ去る危険をともなうが、政略結婚は政略結婚でこういう弊害へいがいもあるので、どっちもどっちだなと思う。


 窓もないここに太陽はなく、風もない。魔術のおかげで空気がもることはないが、魔術のせいで抜け穴の一つもないのだ。

 物だけ与えられ、放り込まれた地下室。第二王女だけを溺愛できあいするために捨てられた、第一王女。されど、もし何かあれば第二王女の代わりに使えるよう所有者だけは変わらぬ、私という存在。

 どれだけ泣きさけび、怒りこわれ、絶望に懇願こんがんしても、私の居場所は変わらなかった。そうして、私が私という存在を諦めたのは、もう随分ずいぶん前の話である。







「ほら、そんな怒るなよ、お姫様。これやるからさ」


 さっきまでチョコレートをまんでいた指は、まばたき一つの間にあわい紫色の花を摘まんでいた。一輪の花をうやうやしく差し出す仕草は気障きざったらしいが、その場所は私のベッドの上だし、足は胡座あぐらをかいている。

 私は、肩をすくめ、その一輪を受け取った。


 あれから五年。物言わぬ使用人が、部屋を整え、食物を運ぶ為だけに現れるここにいる、私以外の存在カレル。魔術師である彼が私の部屋に飛び込んできたのは、私がこの部屋に閉じ込められて一年目のことだった。


 魔術師は、このロナールにおいて立場がひどく弱い存在だ。悪魔あくまの使いや魔物と呼ばれ、迫害はくがいに近いあつかいを受けている。だからこそ管理するとの名目で、その恩恵おんけいをむしり取る為に国にかこわれた存在。人間より身分が低く、家畜かちくより価値を見出みいだされないよう調整された、国民の奴隷どれい

 それが、ロナールにおける魔術師だった。大陸内のどこかでは、魔術師も人として当たり前に暮らしていける国もあるそうだが、この辺りではそんな暮らしは見込めないだろう。



 四年前、カレルは私の部屋に飛び込んできた。外に出してと泣き叫ぶことも、怒鳴どなり壊すことにも疲れてたある日、私は私の部屋に飛び込んできたその物体を、ゴミだと思った。ついにゴミを放り込まれるようになったのかと溜息ためいきと共に近づいてみれば人だった。ここから出してと叫ぶ以外に出した音量は、あれが最大級である。

 よごれ具合としても、怪我けがの度合いとしても、すべてがぼろぼろだったカレルは、私の悲鳴で目覚め、のそりと起き上がり、きょろりと部屋を見回した。そして、のそのそと立ち上がり、もそもそと私のお菓子を平らげ、のろのろと消えた。

 ただのお菓子泥棒どろぼうである。


 一つ一つの動作はにぶく、総合すれば一瞬とは言えない時間が経過していたとはいえ、全体的に見ればほんの一瞬と言えないこともない邂逅かいこう。私は夢でも見たのかと思い、あの時の彼のようにのろのろとベッドにもぐったものである。誰も起こさない上に、昼も夜もない部屋の中で目覚めた私が目にしたものは、冷え切った夕食と、からっぽになったお菓子のお皿だった。

 翌朝よくあさ、昼寝をした所為せいで眠れなかった私が、補充ほじゅうされたお菓子のお皿をにらみながらうとうとしていると、視界の端で影が動いた。閉じかけていた視線だけを向けると、襤褸切ぼろきれのようなかたまりから真っ白な手がにゅっと伸び、お菓子の山を鷲掴わしづかみにしたところだった。


「あ」

「げ」


 それが、私とカレル、初めての会話である。

 



 夢でも見たかと思った。

 それが、城の人間に笑いながら石を投げられ、私の部屋に意識朦朧もうろうとしながらげ込んできたカレルの言である。あの日、私も夢かと思ったけれど、彼もそう思ったらしい。

 それ以降、カレルは度々私の部屋にやってきては、お菓子を食べて帰っていった。カレルはひどせていて、毎日怪我をしていた。

 最初はおびえたけもののようだった。警戒心けいかいしんあらわに全身の毛を逆立さかだたせ、威嚇いかくし、お菓子だけ掴んで逃げていったものだ。ここが王女の私室だとは思わなかったらしい。それは致し方ない。私だってこんな地下室が王女の私室だなんて思わない。

 それはともかくとして、それだけ警戒していたにもかかわらず、カレルが私の元にしのび込み続けたのは、ひとえに彼がえていたからだ。城に囲われているという名目でわれている魔術師を、城はないがしろにしている。死なない程度に餌を与えていればいい。死んだらその時はその時だ。人として扱われない魔術師達は、いつでも飢えている。それなのに、魔術の酷使で魔力だけはしぼり取られ、痩せ細り、いつ倒れてもおかしくない顔色をしていた。







「もう春なのね」


 小さな花に顔を寄せ、濃く甘い香りを吸い込む。こんなに小さいのに、香りが強い花だ。私の部屋に花はない。初めの頃はあったように思うが、重い花瓶かびんを持ち運んで水を替える作業が面倒だったのだろう。次第しだいに花は消えていった。私も、何も望まなかった。

 望みなど、最早もはやついえて久しい。未来など、母の死と共に死に失せたのだ。

 カレルにもらった花は、彼が帰るときに持って帰ってもらう。そうでなければ、誰も出入りしていないはずの部屋に物が増えていてはおかしいからだ。だから、それまでのお楽しみである。

 花を楽しむ私の横で、カレルはまだチョコレートを食べていた。


「あんまり食べると、また鼻血出すよ?」

「腹減ってるの」

「お肉もあるのに」


 溜息をきながら、部屋のすみを指差す。そこには、私の昼食ほとんど全てが残っていた。それをちらりと見たカレルは、返す瞳で私を見た。


「あんた、また食ってないの?」

「一日中動かないのに、どうやってお腹をかせばいいの。いいから、全部食べて。夜も、来られたら来て。全部食べて」


 日の光をびることなく、部屋は家具が豪奢であればあるだけせまくなり、頭を悩ますこともなくただただ時が過ぎていくこの部屋の中で、生を維持いじする為に必要な物は酷く少ない。

 いつものやりとりをさっさと打ち切った私に、カレルはね上げた足の反動で起き上がった。彼が指をくるくる回せば、部屋の隅に寄せられていた何皿もの昼食が飛んでくる。それをがつがつとあっという間に平らげていくカレルの食べっぷりは、見ていて気持ちがいい。


「あんたさ、自分が食ってないのに、よく人が食ってる姿見て笑えるよな」

「お腹が空いたって感覚、もう忘れちゃったの。だから、美味しそうに食べてる人見たら、何だか嬉しいの」

「そんなもんかねぇ」


 お肉を細かく切り分けるどころか、み千切ることすらせず、そのまま口にぎゅうぎゅうに詰め込んだカレルがのどを詰まらせないか心配だ。だが、杞憂きゆうのようで、彼はあっさりと口の中を空にした。


「……俺さ、ここに来るまで、何もしないでも食うに困らないって、幸せなことだと思ってたよ」

「そうね。きっと私は、恵まれているわ。死なないことが救いだという前提ならば」

「お貴族様は、飢える苦しみなんて知らないんだろうって思ってたよ。無意味になぐられる痛みも、馬鹿ばかにされる屈辱くつじょくも知らないんだろうって」

「そうね。私は幸せね」


 彼は、この部屋でたくさんの本を読んだ。最初は字も読めなかった彼が、今では学者が読むような本を読めるようになった。時間だけはあった私は、彼の為に随分ずいぶんたくさんの勉強をした。この部屋にいる意味をそこに見出したのは、私の弱さであり、ずるさだった。




 綺麗にお皿を空にしたカレルは、フォークを放り投げ、またベッドへ倒れ込んだ。


「だけどさ、俺は、目の前にうまい食い物が並んでるのに、まったく食う気が起こらないつらさなんて分からないよ」

「分からなくていいわ、そんなもの。それより、ねえ、外のこと教えて」


 花を持ち直し、カレルの横に寝転がる。


「今日は雨? 風は強い? 春の嵐はもう済んだ? 中庭の桃色の花はもう咲いたのかしら。まさか、もう散ってしまった?」

矢継やつばやに聞くなよ」

「だって、あなたここに来るの、五日ぶりなんだもの」


 その間に、朝昼夜×5。どれだけの食事が無駄むだになったことやら。勿体もったいないことである。


「俺もひまじゃないんだよ」

「暇じゃなくても、ここには食事に来ているんでしょう? 駄目よ、食事を抜いたりしたら」

「あーんーたーが、言うな!」

「きゃぁー!」


 飛び起きたカレルがおおい被さってきて、きゃらきゃら笑う私の顔をもみくちゃにする。ぐしゃぐしゃにされた仕返しに、彼の脇腹に手を突っ込んでくすぐれば、尻尾しっぽを掴まれた猫のような声を出し、きゅうっと縮こまった。こうなると形勢逆転だと、にんまり笑った瞬間、丸まった身体からだがまたもやバネのように飛びかかってきてのし掛かられる。上になったり下になったり、無駄に大きなベッドの上を転がっていたら、あっという間に息が切れてしまった。

 私は運動不足、彼は栄養不足であった。

 荒い息を落ち着けていると、ぽつりと、しんしんと降る雪より静かな声が降った。


「あんた、ちょっとだけでも外連れていってって、言わねぇんだな」

「だって、出来ないんでしょう?」

「……そりゃ、ここに飛んでくるの、一人が限界だけどさ、俺そんなの言ったことないだろ」

「出来るなら、あなたはきっと、もう連れていってくれたと思うもの」


 はっと、吐息といきのような乾いた笑い声が隣から聞こえる。


いやだね。バレたら俺、鞭打むちうちじゃ済まねぇだろ。俺は、自分の身が一番かわいいの。だから、連れ出せても、あんたを出したりしねぇよ。買いかぶりすぎだぜ、俺のこと」

「そうね。私の手をつないでじっと集中していることが何度かあったけれど、あれは一緒に出られるかやめしていたんじゃないものね。大丈夫よ、知っているわ」

「……あんた、性格悪いって言われねぇ?」

「お母様は、優しい、いい子と、いつもめてくれたわ」

節穴ふしあなだったんだなぁ……」

「あなたも、優しい、いい子だわ」

「節穴なんだよなぁ……」


 私はともかくお母様は節穴ではないし、そんなお母様が自信を持って褒めてくれた私の判断力も節穴ではないと思うのだ。








「今日のお菓子なに?」

「ケーキよ」

「すげぇ。丸のままだ」

「私、これを一人で平らげてると思われているのよね。最近、使用人が私をじっと見ていくの」

「あんたが太るか見てるんだろ。笑える。それ絶対けられてるぜ」



「はい、葉っぱ」

「わ、ありがとう!」

「葉っぱ喜ぶお姫様とか、俺、初めて見たんだけど。お姫様自体初めて見たけど」

「だって、この時期の葉っぱって、とっても緑が綺麗なんだもの。新緑って言うのよ」

「ふーん」



「お土産みやげー」

「きゃぁあああ!? 何!?」

「夏によくいる虫ー。一番でけぇやつ!」

「つ、つかまえて! 部屋の中飛び回ってるじゃない! カレル、笑ってないで手伝ってってば!」

「あっはっはっはっは!」



くりは中身のためにあるんだよ」

「外側を楽しんだっていいじゃない。だって、見て。海の図鑑ずかんでも似た生き物がいたのよ。不思議ふしぎね。陸と海、全く違うはずなのに」

「中身は固いのとどろどろだから、陸の勝ちー」

「あなたの勝敗基準、固さなの?」

「いや、うまさ」

「じゃあ、海のほうは食べたことないから分からないじゃない」

「あんたは?」

「昔、お父様とお母様が食べていたのを見たことはあるけれど、子どもの口には合わないからと私にはなかったから、私も知らないわ」

「じゃあ、食うことあったら勝負つけといて」



「何だよ、せっかく一年待った雪持ってきたやったのに、全然喜ばねぇ」

「だって……雪が降ったら、あなた寒いんでしょう? ほら、暖炉だんろにもっと寄って。毛布もかぶって。ほら」

「うわ、いいって! 俺、汚れてるから!」

「何よ。今まで散々私のベッドに寝転がっていたくせに、今更いまさら何を言ってるの。いいから、ちゃんと温まるの」

「だーきーつーくーなー!」

「あなたが逃げるからよ。ほら、いい子にしてちょうだい。ね? 温かいでしょう?」






 そうして、何も変わることなく私とカレルの日々は過ぎていった。

 カレルがまとう外套はいつだってぼろぼろだったし、傷が絶えることもなかった。私の部屋で言葉を発する人間はいつまでってもカレルだけだったし、当然ながらお父様もその他の誰かがたずねてくることもなかった。


 何も変わらぬまま、私達は十三になっていた。カレルは相変わらず小さくて、いつまで経っても私の身長を超えることはない。そんなところでさえ変わらない毎日の中、変化があるとすれば、カレルが私の部屋を訪れる回数が次第に減っていったことくらいだ。

 ベッドに座ったまま、今日も現れなかったカレルに溜息を吐く。食べずに置いていた夕食からほんの少し摘まみ、ベッドに潜り込む。

 お母様が死んだばかりの頃のように、ぎゅうっと縮こまる。身体を縮め、隙間を無くす。身の内に、にくしみに似たさびしさと、怒りに似た悲しさがき出してこないよう、小さく小さくなって、そのまま消えてしまえばいいと願う。

 カレルが来ないと、今日が春なのか秋なのかも分からない。カレルが来ないと、一日の終わりも分からない。カレルがいないと、私は生きて存在しているかも、分からない。


 カレルが来ないのだ。今日も、カレルが来ないのだ。昨日きのうも来なかった。一昨日おとといも……たぶん一昨日も、来なくて。たぶん、その前も来なくて。私が食事の回数を数え間違えていなければ、もうひと月以上来ていない。

 カレルが来ない理由が、彼が外の世界で何か楽しいことを見つけたのなら、まだいい。こんな廃棄物はいきぶつ置き場なんて忘れてしまうほど、幸せな何かがあったのなら、私は嬉しい。幸せと定義される事象が私には全く思い浮かばなくなって久しいけれど、そんな何かは、私が地下にめられている間に世界中から失われたりしていないはずなのだ。

 だけど、違うのだ。それが、悲しい。

 カレルがまだ今よりはもう少し多く来られていた頃、聞いた。魔術師の扱いが、また、一段と酷くなったのだと。魔力がきてばたばた死んでいく。そう言ったカレルの顔も酷くやつれ果て、生気が感じられなかった。


「カレル……」


 小さく呟いた視界の端で、扉がたわんだ。




 布団を撥ね除け、飛び上がる。魔術灯が消えた室内で、黒い影がゆらりとれた。あかりをつけようと伸ばした手は、かさついた手がにぎったことで目的を果たせなかった。

 元よりやみに慣れている目で、その影を見上げる。ぼろぼろのフードを深く被った中に、赤い瞳だけが煌々こうこうと輝いていた。


「…………お別れを、言いに来てくれたの?」


 私の手を握っている彼の手が、ぴくりと動く。自由な手を伸ばし、フードの下にあるほおれる。かさついて傷があるはだは、酷く冷え切っていた。


「……どうして」

「だってあなた、荷物を持っているもの」


 いつもは痩せ細ったこしに張り付いている外套の下が膨れている。彼はこの部屋に、お土産以外の何も持ち込みはしなかった。その彼が初めて荷を持っていた。理由なんて、一つしか考えられない。


「行くあてはあるの?」

「……北を、目指す」


「それは……」


 思わず、息をむ。次いで、喜びが湧き上がる。


素晴すばらしいわ! あちらの国は、魔術師もそうでない人も、何も変わらないと聞いたわ。何も区別されない、ただの人として暮らしているのだと! ええ、ええ、是非ぜひ、是非行って。とてもいい考えだわ! でも、気をつけてね。彼の国は、とても遠いから。旅は初めてよね? どうしましょう。何か、何か持っていって。役に立ちそうな物はあったかしら。腹ごしらえはしなくていい? どうしましょう、ちょっと待ってね」


 ベッドからすべり降り、部屋の中をあわてて見回す。


路銀ろぎんはある? 何でも持っていって。品物を持っていけば買い取ってくれるお店があるのよね? どこで売ればいいのか私には分からないけれど、どういった物が高く売れるのかしら……カレル? どうしたの?」


 カレルはまだ、ベッドを向いたままだ。身動みじろぎ一つしない背中が不思議で、首をかしげる。


「どこか、具合でも悪いの? そんな体調で旅なんて……ああ、でも、ここにいたって悪くなってしまうだけよね……どうしましょう。薬、薬は、そうよ、熱冷ましくらいならここにもあるわ。薬箱ごと全部持っ」

「あんたはっ!」


 突如とつじょ上がった大声に、びくりと身体が跳ねた。けれど、すぐに心配になってしまう。だって、何だか泣き叫んでいるかのように聞こえたのだ。

 心配で、怒鳴られることを覚悟かくごの上で彼のうでに触れる。私を振り払わなかった手は、ふるえていた。前に回って見たカレルは、くちびるみ切らんばかりに噛みしめていた。


「そんなに力を入れたら血が出てしまうわよ。どうしたの? どこか痛いの? 苦しいの?」

「……して」

「え?」


 憤怒ふんどいだいているような、酷く傷ついているような、不思議な色を浮かべた赤い瞳に私が映っている。


「どうして、ずるいって、言ってくれないんだ」


 閉じ込められるなら、こんな場所じゃなくてこの瞳がいいと、思った。この人と同じ景色を見られたなら、それはどれほどの幸せだろうと、叶わぬからこそ願える夢を、見た。


「どうして、なんで一緒に連れていってくれないんだって、言わないんだよ!」

「あなたが私を連れてここから出られるのだとしても、そんなこと、絶対に言わないわ」

「何でだよ!」

「だって、追っ手が増えたらどうするの」


 私は仮にも王女だ。なかば忘れられ、死んだに等しい王女でも、生かされている以上価値を見出されている。その王女が逃亡とうぼうしたら、無駄むだな追っ手がかかってしまうではないか。

 外套の上から、彼の細い両腕を掴む。今にも折れてしまいそうな、か細い腕だ。これから幸せになる為に、旅立つための腕だった。


「あなたは行くの。幸せになりに行くの。足手纏いも、邪魔者じゃまものも、全部忘れなさい。それが正しい旅の支度したくよ。大体、あなたまさか、旅の道程を甘く考えているんじゃないでしょうね。だったら、すぐに考えを改めなさい。ろくに歩いてこなかった軟弱なんじゃくな女を連れて行けるほど、旅は甘くなんてないんだから。私も大人おとなではないけれど、あなただって、まだ子どもなのよ。それも、痩せっぽっちで、弱々しい、貧弱ひんじゃくな子ども。あなた一人の旅ですらあぶなっかしくて見ていられないのに、お荷物を背負えないとぐずるの? 馬鹿馬鹿ばかばかしい悩みね」


 頬を張られた子どもだってこんな顔をしないと思えるほど、痛々しい顔をしたカレルに、私は微笑ほほえんでなんてあげない。きっとまゆり上げて、怒った顔をしてみせる。実際、とっても怒っているのだ。


「いいこと? 決して振り向いてはいけないわ。ここには何もないの。この国には、何もないのよ。それを誰より分かっているのはあなたでしょう? 親兄弟きょうだいはいない、同じ魔術師だっておたがいを蹴落けおとして生きびようと必死な奴らばっかりだって、あなたが自分で言ったのよ。だから、ここには何もないの」


 いつもみたいに憎たらしいことを言って、にんまり笑えばいいのに。そうしたら私は、元気でねって、笑って見送ってあげたのに。


「振り向かないで、カレル。ロナールにある全ては、あなたの人生にとって無駄な存在よ。……カレル! しっかりしなさい! あなたは何も残してなんてないわ! だって、ここには何もないの! 何もないのよ!」


 その背をぐいぐい押し、扉側へと追いやる。ついでに、今日つけていた宝石の髪飾りを彼のポケットに詰め込んでやる。薬も、適当に鷲掴わしづかみにし、ぎゅうぎゅうと詰め込む。

 そして、何かを言おうと振り向きかけた背中に、てのひらを貼り付けた。ぱんっと張った音が鳴りひびく。私の腕にもびりびりとした痛みが走り抜けていったので、彼の痛みも相当なものだろう。しびれたように身体を強張こわばらせた背は、さっきより伸びていた。


「しゃんと立って。あなたの生はこれからよ。堂々と、胸を張って、自由に生きるの。カレル、あなたは自由よ。自由なの。何だって出来るし、何だって決められる。あなたの幸いはこれからよ。この先に、あなたのさいわいがあるの。だから、行って。決して振り向いては駄目よ」


 背を、押す。押されるがまま、カレルの足が進む。


「元気でね、カレル」

「……アーシャ」

「さようなら」


 外套越しに触れていた、骨の浮く薄い背がき消えた。

 押していた勢いのまま、その場でひざを折る。打ち付けた膝がじんじん痛む。だから、だからだ。

 ぱたぱたと、熱くて痛いしずくが落ちていく。


 アンスリーシャ。

 私を呼ぶ優しい声は、とうの昔に失われた。

 アーシャ。

 私を呼ぶ柔らかい声も、いま、失われた。


 それが最善だ。だから私は笑った。笑ったはずだ。だって、私が彼を失うことが、彼が生を繋げる唯一ゆいいつの道で。

 彼の幸いそのものなのだから。






 冷たいベッドの中で一人、悪夢ばかりを見る、浅い眠りを繰り返す。

 また痩せていないだろうか。大きな怪我をしていないだろうか。こごえていないだろうか。何か、心を酷く傷つけられていないだろうか。

 心配で、寂しくて。駆け出していけない自分がみじめで。

 夢の中で、カレルが死んだ。夢の中で、カレルが死んだ。夢の中で、カレルが、死んだのだ。

 それが夢かどうかなんて確かめようもないくせに、私の夢は何度もカレルを殺すのだ。


 神様。

 神様。

 ――お母様。


 いつの間にか、祈っていた。お母様と一緒に死んだ私の未来を受け入れた日から忘れていた祈りが、勝手に胸の内から湧き上がる。

 カレルが幸せでありますように。カレルがお腹いっぱい食べられますように。カレルが怪我なんてしませんように。カレルの心が傷つきませんように。カレルの尊厳そんげんが守られますように。

 天に近い場所で祈ったって、母は死んでしまった。だから、こんな地の底から祈っても誰にも届かないかもしれない。それでも、どうか。


 カレルの明日が、おだやかでありますように。

 カレルの未来が、あたたかな太陽の下で続いていきますように。

 カレルのいつかが、ずっと、ずっと、優しいものでありますように。


 いつも、いつだって、それだけを祈るから、どうか。

 カレルの生に、幸いを。








 昼夜ちゅうやを忘れ、日付を忘れ、季節を忘れ。

 されど時が止まるはずもなく。どうやら私は十六になったようだと、どういう風の吹き回しか、父親の名義でおくられたプレゼントを見て知った。

 箱の中身は、中央に鎮座ちんざする大きなルビーを、大量に散りばめられたダイアモンドが囲んでいる首飾りだった。

 ベッドの上に箱ごと放り投げ、隣に寝転ぶ。どういう風の吹き回しも何も、私を利用する算段がついただけのことだろう。そうでなければ、こんな物、一体どこにつけていくというのだ。今の今まで贈り物どころか手紙一つ、顔を見せることも言葉を届けることもなかった人物が、ただ贈りたかったからという理由で何かを寄越よこしてくるわけがない。

 両腕で視界をふさぎ、ついでに光もさえぎる。まぶしくもない光の中で生きてきた。唯一明るかった私の色は、二年前に旅立った赤だけだ。もう太陽がどんな色だったかも思い出せない。けれど、私の生に必要だった光はあの色だけでいいのだ。

 そう定まったというのに、あの男は今更私を墓穴からり返すつもりらしい。




 

 墓穴として押し込められた地下室から、十年ぶりに外へ出た。弱った足で上がった階段の先は、薄暗い。長い間太陽光を知らない瞳を痛めないよう、その程度の配慮はいりょはされるようだ。

 どうやら季節は夏を迎えようとしているらしく、雨をまとった少し生暖かい風が、濃厚のうこうな水の香りをただよわせている。重たい風が髪をで、長らく忘れていた土の香りが世界いっぱいに広がった。

 けれど、何も思うことはない。何も感じない。彼が持ってきてくれた物ならば、葉っぱ一枚でもあんなに心おどったというのに。

 でもそんなのは当たり前だ。私がいようがいまいがただ当たり前としてめぐる日々と、私の為だけに持ち込まれた季節。どちらが嬉しいかなど、考えるまでもない。

 衛兵えいへい侍女じじょを含め、前後左右に全部で十名。さてこれはどういう数だろう。案内係にしては多すぎるし、お世話係を含めたってどう考えても多すぎる。心配しなくても、逃げ出したりはしないのに。逃げ出す気があるのなら、とっくの昔にこの世から逃げ出している。そうしていないのは、万が一でも風のうわさが彼の耳に届いてしまわないように。ただそれだけだ。




 十年ぶりに会う国王の姿は、記憶にある物よりずっと小さくて、しわが寄っていた。現王妃も、昔は美しくも近寄りがたい人と記憶きおくしていたが、今はただ、目つきの悪い人だなと思う。一歳違いの第二王女も同じ目つきをしている。十年前と同じ目だ。ねめつけただけではき足らず、その力だけで私を殺せないかと願っている目。

 座った三人を前に、私は一人立っている。後ろには私を連れて来た十名の中で兵士が四名残っているが、彼らは数に数えない。だから私は一人だ。


「久しいな、我がむすめよ」

「無駄なお話は結構です、国王陛下へいか。ご用命は如何いかなるものでしょうか」

「そうくな、我が娘よ」

「どのような用命であれ、私に以外の答えが用意されてはいないのでしょう。であれば、時間の無駄です」


 国王が蓄えた口ひげをもごもごと動かしている間に、現王妃がおうぎを開いた。口元がかくれ、私をねめつける目つきだけが強調される。


「まあ、無礼ぶれいですこと。陛下に向かって、なんという口の利き方でしょう」

「今更無礼を恐れたところで、一体何がばつになるというのでしょうか。それとも、十年間、何の意味もなく地下室に押し込められていたのは、何かの温情だったとでもおっしゃるのでしょうか。不思議な話ですね。私が知らぬ間に、ロナールの常識は様変わりしたようです。素晴らしい国になったのですね。心よりお喜び申し上げます」


 現王妃のひたい青筋あおすじが走った。前髪を上げているから分かりやすい。よく似た第二王女の額にも走っているので、どうやら第二王女は母親によく似たようだ。私もお母様に似たと言われていたので、国王の血はどちらも薄そうだ。笑っていいだろうか。

 大仰おおぎょう咳払せきばらいが響く。わざとらしい咳払いで場を収めた国王は、改めて軽く咳払いをした。場を収める手段が少ない人だ。


「余も、お前の母を失い失意の日々を過ごした。その間、お前を支えてやることが出来ずすまなかった。余は不甲斐ふがいない父親だ」


 そうですね以外の返答は無いのだが、言う価値も見つけられないので黙って聞く。


「だが、これからは案ずることはない。お前を生涯しょうがい支えてくれる方が現れたのだ」

「ええ、ええそうよ。とても素敵すてきなお話だわ。貴女あなたなどを、あら失礼、貴女を欲しいと仰る方がいるの。隣国りんごくの、王弟おうてい様よ」


 機嫌良くはずんだ声に、予想していたがろくでもない相手なのだろうなと予想がつく。誰かが話すのを待ちきれないと、そわそわしていた第二王女が立ち上がる。


御年おんとし五十七歳になられる、とても素敵な方よ。わたくし達より年が上のお孫様がいらっしゃるのよ」


 にたりとゆがんだ口元がやけに似合う。そんな笑みばかりを浮かべてきたのだろうか。勿体もったいない人生だなと思うが、余計なお世話なのだろう。


「少し年が離れているかもしれないけれど、あの国は宝石がたくさん取れる国ですもの。きっと素敵な人生が送れるわ。ロナールにも、たくさんくださったの。ねえ、素敵でしょう?」


 第二王女の首元を飾る首飾り、現王妃の指を飾る指輪、国王も首飾りはしているようだ。


「少し、ねえ、少し愛人がいらっしゃるようだけれど、構わないわよね? だってわたくし達は王族ですもの。国の為なら、どんな結婚だって受け入れられるはずだもの。ねえ、お姉様」


 昔、思っていた。この人達と対面したら、私は何を思うのだろうと。この身をがす激情が、この生を焼き尽くす憎悪ぞうおが、取り返しのつかない威力いりょくき上がるのではないかと思っていたのだが、現実は違うようだ。

 何も、思わない。全く何も感じない。目の前の存在が人であるとさえ思えない。揺れた枝が頬を打っても怒りは湧かない。小石に蹴躓けつまずいてもうらみは持たない。同様に、これらの存在が何を言おうと、心が揺れることはない。


「一応申し上げておきますが、お断りします」

「式は十日後よ、お姉様! ああ、楽しみね。真っ白なお姉様には、ウエディングドレスがよく似合うと思うわ! ねえ、お父様、お母様!」


 日に当たっていない私の肌は真っ白なのではなく青白いのだが、どうでもいいのだろう。

 ああ、ああ、そうだとも、そうですとも。第二王女へ同意を繰り返す二人の男女の声を聞きながら、背を向ける。私の言葉はなかったことになるようなので、私の存在もなかったことになっているだろう。だから退室の挨拶はいらないようだ。

 そのまま部屋を出た私を、またもや十人の人間が囲む。帰りも行きと同じ空を見上げる。先程より濃さを増した宵色よいいろだったが、そこには白が混ざった淡さがあった。黒がいいなと、思う。夜の闇が、彼の髪のように真っ黒であったらよかったのに。そうして星が赤くまたたいてくれたなら、私はいつだって心穏やかに過ごせるだろう。

 無と穏やかは違う。今はただ、何も感じない。感情が動いてしまえば、寂しさがつのってしまうから。恋しさがあふれ出してしまうから。だったら、母の死さえないがしろにしたあの一家への憎悪を捨て去る方が、まだましだ。

 何も思うことなく再び戻された墓穴の中で、私は静かに時を過ごした。




 十日は、あっという間に訪れた。元々、彼が訪れる日を今か今かと待っていた以外は、何も待ち望まない時間を十年過ごしてきたのだ。何かを待っていなければ、時など勝手に過ぎ去っていく。待ち望んでいるときは永劫えいごうと思えた時間も、何も思わなければ一秒も十日も変わらない。

 その日は朝からさわがしかった。流石さすがに部屋から出されたが、風呂に放り込まれ、様々なものをりたくられ、採寸した覚えのないドレスを着せられた。朝から何も食べていないのは別にいいが、締めつけるのはほどほどにしてもらいたい。

 首からぶら下がるあの首飾りは、重たいだけの首輪だ。家畜にかけるのと同じだなと思う。

 私を勝手にみがき上げた人々は、出来映できばえに満足したのか、この程度でいいやと判断したのかは知らないが、いつの間にか部屋からいなくなっていた。

 久しぶりに新調したドレスは、真っ白なレースがふんだんに使われたウェディングドレス。何のいわい事でもないのだから無意味な出費だと思うが、宝石と引き換えに娘を売るのであっても外聞がいぶんは気にするらしい。

 現在、私がいるのはとうの上。墓穴から出たら今度ははるか空。地上でなければ逃げられないと思っているらしいが、どうにも極端きょくたんなのだ、あの王は。

 なんとはなしに窓に触れてみたが、固く打ち付けられていて開きそうになかった。

 

 そういえば、夫となるらしい相手の名前も、嫁ぐらしい国の名前も聞いていない。聞いたのは、年齢と、愛人の有無うむと、孫の有無。孫がいるなら子もいるだろう。はてさて、私は何人目の後妻なのやら。

 一度、私よりも着飾った第二王女が様子を見に来た。高い塔の上だから、あの階段をのぼってきたらしい。すさまじい根性だ。見直した。碌でもない方向にだが。

 どうやら私が泣き崩れ、失意の底に沈んでいる様を見たかったらしく、息を切らし、肩を激しく上下させながら、手に取るようにがっかりしていた。

 そこまで苦労して上ってきた結果、望むものをお目にかけられず申し訳ないが、私はもう何も感じないのだ。私の生は、とっくの昔に墓穴へ埋められてしまった。

 残ったものは、大切な彼の人が得るであろう幸いへの希望だけだ。

 願いがあるから、望みがあるから、祈りがあるから、私は生きていける。この先の生が、他者から苦行だと思われるようなものであっても、どれほどの痛みをともなっても、何にも傷つかず生きていける。代わりに幸福もない。それだけのことだ。

 私の幸いは、全て過去に置いてきた。

 母と、カレル。それだけ。たったそれだけ。されど、その二つの出会いが、二人と過ごした時間が、私の一生の幸いだ。それだけで、私は一生幸福でいられる。

 私は幸いを知っている。私はすでに幸いと出会っている。だから、この先に何があろうと、私は生涯しょうがい幸福なのだ。

 だから、だからね。


「カレル」


 もしどこかで私の話を聞いても、心配しないでね。


「私、あなたがとっても好きだったわ」

「へぇ、そりゃ光栄だ」











 誰に聞かれることなく溶けて消えるはずだった言葉が受け取られた事実に、狼狽うろたえた。誰もいないはずの部屋に人の声がした事実より余程。

 弾かれたように振り向いた拍子ひょうしに、白いレースが世界を覆ってしまう。白い海におぼれそうになった私に手が差し伸べられる。

 ひょいっとめくられたヴェールの向こうに、私の光があった。

 黒髪の中に、光を纏った赤がきらめく。私の光は、白い海の中に入ってきてしまった。そうして閉ざされたヴェールの中は、まるで世界の全てが閉ざされたように外部をへだてている。


「だけど、今いち気に入らない」

「な、に――……あなた、どうしてっ!」


 われに返ると同時に飛び出した私の言葉を、吐息といきが絡まるほど近い位置にいるカレルは綺麗に無視した。額が合わさり、思わず目を閉じる。


「俺は今でも好きなんだけど、あんたはもう好きじゃないって?」


 笑っているようでいてねているような、複雑な声音こわねつむがれた言葉に、いつの間にか目を開けていた。まつげが触れ合いそうだ。綺麗な赤が、私を見ている。綺麗な赤に、私がいる。彼がまばたきする度、その中に持ち帰ってくれるようで嬉しかった。あの頃はただそれだけでよかった。

 それなのに。


「どう、して」


 がりがりで不健康だった肌つやはよくなり、骨が浮き出ていた身体には適度に肉がついている。そうはいってもやはり華奢きゃしゃで、身長は大きく伸びはしなかったらしく、私とあまり変わらない。けれど、だけど。

 大きくなった。元気になった。目に、光をともして、楽しそうに笑っている。


「あなた、どう、して」

「あー、あー、そんな泣くなよ。あんたが泣くの、初めて見た」

「カレル」


 カレルの指が私の涙をぬぐっていく。魔術を使っているのか、彼の指が触れるそばから私の涙は乾いていくのに、次から次へと溢れ出すから終わりが見えない。それなのに、カレルは面倒くさそうな顔はせず、どこか楽しそうだ。


「俺はいま、ユグーシャ国王立魔術宮につとめてる」

「ユグーシャ……北の、大国」

「そ。ちゃーんと辿たどり着いたぞ。あんたは散々俺の考えが甘いだの何だの罵倒ばとうしてくれたけどな、それはもうあっさり、簡単に」


 それはうそだろう。あれだけ弱った子どもが旅に出るだけでも正気の沙汰さたではないのに、そんな子どもの一人旅。それに、ロナール国において魔術師の自由はなく、この辺り一帯でも扱いは似たようなものだ。少なくともこの辺り一帯を離れるまでは、身を隠して行動しなければならなかっただろう。

 けれど簡単だったと言い張るのだから、私はそれを受け入れた。意固地いこじになって追求する必要もない話題だ。


「綺麗な、服、着てる」


 全体的に黒い服は昔のままだが、生地が全く違う。季節に合わせてか通気性がよく、けれど薄く安っぽく見えないほどほどの厚みにしなやかなつや。行動をさまたげない柔らかな伸びに、爽やかな黒。所々入っている色は赤で、まるで彼自身を題材にして作り上げたかのような服だ。

 綺麗な刺繍ししゅうが入った、綺麗な飾りがついた、綺麗な服。それをぎこちなさもなく着こなしているのだから、随分ずいぶん着慣れたのだろう。

 こんなに嬉しいことがあるだろうか。


至上しじょう最年少の王立魔術師だ。褒めて?」

「凄い……凄いわ。あなた、本当に凄い魔術師だったのね」

「当然だろ。そうでなきゃ、あんたの部屋に飛んだりできない」

「それもそうね……」


 私達を外界と隔てているヴェールが、柔らかな風に煽られて水面のようになびく。不思議に思って視線を向ければ、いつの間にか窓が開いていた。打ち付けられ固定されていたはずの窓は大きく開き、穏やかな風を運んでいる。


「異国出身の身寄りがない子どもだって馬鹿にする連中は無視して、えらそうに説教する連中には頭下げて、ちゃんと魔術を学んだ。王立魔術師として部屋も与えられた。あんたの部屋にあった家具をそろえるのはまだ無理だけど、二人で生活していく分にはそれなりに贅沢ぜいたくできる程度には収入もある。あんたを連れて二人で飛べるだけの魔術の腕も手に入れた。あと、なんか足りないものある?」

「だ、駄目よ」

「どうして?」

「だって……追っ手がかかったら、危ないもの」

「史上最年少天才魔術師に何だって?」


 平然と言うものだから、あきれてしまう。けれど、三年前、ぼろぼろの身体で亡命ぼうめいをやりげた彼の言だからこそ信頼できる。

 不安がなくなるわけでは、ないけれど。


「俺があんた連れてユグーシャに帰れるか心配?」

「……ええ」

「俺はまったく心配してない上に、俺、あんたがいないと幸せになれないんだけど」


 ぽんっと放り出された言葉に、目を丸くしてしまう。


「というわけで」


 他の男の為に用意されたヴェールの中で、カレルは口元を片方だけひん曲げた。


「九年越しの駆け落ち、受けてくれる?」


 断られるだなんて欠片かけらも思っていないその顔が憎たらしいのに、可愛らしく思えてならないのだから、答えなんてもう決まっていた。




 肉がついたとはいえまだまだ華奢な身体に思いっきり抱きついてやれば、うわっと慌てた声を上げてたたらをんでいた。しかし、抱き返した私の身体を離さない。

 やがて体勢を立て直したカレルは、徐々に私を抱く力を強めていく。痛みすら覚えるほど強くなった頃、私の肩に顔をうずめ、深く深く息を吐いた。


「あー……俺いま、生まれてから一番幸せだ」

「…………お手軽ね」

「一国の王女かっさらって結婚するの、お手軽か?」

「あら。あなた、凄い魔術師なんでしょう?」


 くすくす笑いながらからかってやれば、ちょっと拗ねた顔をしたあと、にんまり笑う。何だか嫌な予感がして少し離れようとしたのに、ヴェールを押さえられては動きようがない。


「あんたに食わしてもらった分、一生けて返すよ」

「一生分なんてあげてないわ。それより、近いのだけど」

「あれで俺を生かしたんだから、一生だろ? それと」


 近づいてんだよ。

 言葉と同時に、大きな口を開けたカレルに思わず引きる。そういえばこの人、料理もお菓子も、何でも口いっぱいぎゅうぎゅうに詰め込むんだった。

 そう気付いたけれど、もう遅い。

 とりあえず、口紅は綺麗に平らげてしまっても人体に影響はないはずだから、その点だけは心配しないでおこうと思う。



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