アイドル婦警とイケメン893ー落ちこぼれの面々(前・後編)

龍玄

前編 魅惑の果実は、禁断の実。

 2017年、夏。

 ギシギシと肌に絡みつく陽射しは体内の塩を表皮に炙り出し、拭き取らなければ痒みとして襲ってくる。館内の設定温度は節約とやらで25℃。と言っても密閉された場所ではない。開かれた警察とは、違った意味で開け放たれた館内で働く者には感じられていた。


 「それにしても、今日も暑いなぁ」

 「はい」

 「あっ、そうだ。これから、更に暑苦しい仕事を頼もうと思っていたんだ」

 「何でしょうか」

 「私の助手だ、取り調べのな」

 「はい」


 留置管理課に所属していた貴子は、かねてより組織犯罪対策課への配属を希望しており、昨年7月から「見習い」として組織犯罪対策課の捜査の講習を受けられるようになり、願いが叶えられるレールの上を歩いていた。


 高城貴子、23歳。この若さで新宿署という大規模署の組織犯罪対策課の見習いを認められたのは、将来を嘱望されていたからだ。貴子が優秀だったかは定かではないが、厳格・閉鎖された縦社会の警察組織で、同じく勤務する父親の存在は、異例の抜擢に無関係とは否定できないものがあった。


 貴子の父親は、警視庁生活安全部生活経済課の現職警部。要職をキャリアが占める中、キャリアではなかった彼女の父が生活経済課の花形部署の生安部にあることは、他の署員の希望の象徴でもあった。

 父親がノンキャリアの『デキる』捜査員というのは、心情的な忖度を受けやすく、その娘にはキャリアへの口に出しにくい反発も加わり、貴子への待遇に影響を及ぼさなかったは否定しがたい。


 警部の父親を持ち、厳格な家庭で育った貴子は、気何事にも真面目に物事に取り込む性格で、精神鍛錬、逮捕術にも役立つ合気道で有段者となる程、勝ち気な性格も備えていた。

 外見はメガネをかけているものの、目鼻立ちはくっきりしており、かなりの美人の部類にあった。


 貴子の高校時代を知る同級生は言う。


 普段おとなしく行動的に目立つタイプではなかったが、顔立ちが当時のAKB48の板野友美に似ていたため、クラスメイトには『ともちん』と呼ばれていた。

 貴子は泳部に所属しており、部活動に熱心に取り組む夏の水泳の授業では目立っていた。泳ぎが速いということもあったが、男子生徒にとっては彼女の水着姿をまぶしく感じる者も少なかった、と。


 「あっ、仕舞った。連絡を一本、忘れていた。済まんが先に入っていてくれ。直ぐに戻ってくるから」

 「あっ、はい」


 貴子は、一瞬にして緊張感に押しつぶされそうになり、私は警察官だ、怯むな、気丈に振るまえ、と自分を鼓舞した。


 貴子の人生の歯車が狂う運命の出会いは、取調室の中だった。扉を開け、中に入ると熱い視線を感じた。

 気丈に振舞おうとしたが、緊張感は、それを許さなかった。自然と伏し目がちになり、まともに相手を見ることも出来ない自分に心の中で、「がんばれ」とエールを送るしかなかった。


 「おお、いいねぇ、こんな所で美人に会えるなんて、俺はついているな」


 窓のない狭い部屋の中で貴子は、男と向き合った。上着のボタンは第三ボタンまで外され、黒光りした胸元が見えた。目線を上げていくと端正で自信に満ちた顔立ちが目に飛び込んできた。

 穏やかな表情に反した蛙を睨みつける蛇のような威圧的な鋭い目。

 その男は、その組のイケメンと言えば真っ先にその男が思い浮かぶほどの色男で、趣味はキックボクシングでガタイがよく、背も高かった。

 野性味あふれた男優のような外見に、不覚にも貴子は、一瞬にして心を奪われた。

 厳格・真面目を絵に描いたように生きてきた貴子の前に突如として現れたイケメン。自分とはまったく違う境遇の男に興味を惹かれるのに時間はかからなかった。

 しかし、その男は、紛れもなく貴子の住む世界とは真逆の生き方をするヤクザであることは疑いのない事実だった。


 男の取り調べに立ち会ったのは、組織犯罪対策課での講習が始まって間もない頃。まだ、経験も少ない取り調べの現場。偶然とは言え、狭い逃げ場のない空間で緊張していたことは想像に難くない。その緊張が、貴子の警戒心を払拭したとすれば、悪魔の所業か、神からの試練か、判断できるはずもなかった。


 しばらくして、貴子の上司が入ってき、その男を取り調べたが、貴子はその殆どを覚えていなかった。覚えているのは、胸が搾りたてられるように締め付けられ、体が心地よく火照っていたことだけだった。

 我に返ったのは、その男が帰り際に放った「じゃぁな」と言う一言だった。その言葉は、貴子にとって脳裏に刻み込まれた烙印のように離れないでいた。


 貴子にとって夢心地のような時間は、自制心によって男の姿と共に薄れていった。

日々の仕事に追われ、少女のようなときめきは、通学電車で見かける密かに憧れる男子生徒を思うようなもので記憶からもすっかり消し去られたはずだった。


 日々の仕事にも慣れ、余裕が芽生え始めた頃、貴子の気持ちを震撼させる出来事が起きた。友人と集い息抜きの飲み会の帰りの街中で、どこからかともなく「じゃぁな」と聞こえた。ハッとして周りを見渡すもあの男はいなかった。

 アルコールの仕業だ、夜の繁華街の中で聞こえてきても可笑しくない言葉だ。気のせいだと貴子は帰路を急いだ。


 それからと言うもの毎晩、瞼を閉じると脳裏に「じゃぁな」の呪縛に悩まされ始めた。何を考えているんだ私は。そう言い聞かせてやり過ごすも、やり過ごそうとすればするほど粘着質な響きが、耳孔に留まり離れないでいた。

 それは日毎に激しさを増し、上の空は当たり前、小さなミスを繰り返し、自暴自棄に陥っていった。


 このままじゃダメだ。何とかしないと。


 何とかしないと言っても考えれば考える程、あの男への思いが歯止めが利かない程、膨れ上がるだけだった。


 どうしよう、どうすればいい。


 そんなことばかり考える日々が貴子を精神的に追い込んでいった。

 考えまいとする自分と、もう一度あの声を聞いて自分の気持ちを確かめたい葛藤の激しさは日増しに拍車がかかる一方だった。


 貴子の体は、何かに突き動かされるように、同僚の目を盗み、彼に関する書類を探すようになった。その作業は容易でも、秘密裏に行うのは貴子にとって、大きな動揺を伴うものだった。


 「あった、これだ」


 関係書類から彼に関する情報を入手した。彼は、難葉会三次団体の三十二歳の独身組員、五十嵐大樹とう男だった。

 自分の内心から仕向けられる脅迫観念に怯えながら貴子は咄嗟に彼の携帯電話番号を自分の携帯電話に打ち込んでいた。


 心臓の高鳴りは水泳で百メートルを全力で泳ぎ切った時よりも、激しく高鳴っていた。貴子は携帯電話を握りしめ女子トイレの個室へと飛び込んだ。

 便座で携帯電話を握りしめていた手を見つめた。


 解こうとしても解けない。


 必死の思いで指を一本ずつ動かした。


 手の震えが止まらない。


 それは罪悪感なのか禁断の実を捥ぎ取った後悔なのかはわからなかった。


 欲求に任せて手に入れたはいいけど、どうしよう。

 職務規定違反なんてもう頭にはなかった。

 行動を犯した時点で規則は犯した。

 自他ともに認める真面目さが取り柄の私が罪を犯した。

 もう取り返しはつかない。

 いや、打ち込んだ番号を消せば済む。

 しかし、そうしてもまた私は同じことを繰り返すに違いない。

 それだけは、自信があった。


 貴子にとっては、初めて厳格な父を裏切る行為に手を染めた。その夜から、データを消すか、如何に使うかの葛藤が睡眠時間を奪っていった。


 10月下旬の頃だった。


 寝ても覚めても五十嵐の事を考える事で、貴子の欲求は罪悪感を薄れさせていった。最初に五十嵐に携帯電話で連絡をとったのは貴子のほうだった。職務上、聞き忘れた事柄の確認だと口実を設けて。


 電話口の五十嵐の声は数か月ぶりにしては新鮮に感じた。

 耳孔がひくひくと声の一言一言を味わっているように感じた。

 貴子はそれで満足する気でいた。


 しかし、それは許されなかった。


 著名なダンスグループにいても可笑しくないイケメンでガタイも良く、身長もある五十嵐は、その容貌を活かして数々の女を食い物にしていた。

 酒場や街中でナンパし、惚れさせ、暴力で支配する。飴と鞭を巧みに使い分け借金漬けにし、息詰まると風俗に紹介して、その上前を撥ねていた。そんな五十嵐だからこそ、貴子の電話の対応に単なる職務以外のものを感じるのは火を見るよりも明らかだった。


 五十嵐の携帯電話に貴子の電話番号が残っていた。


 その時は気にしなかったがやけにその携帯電話の番号が気になり始めていた。

 「俺の感は、この女、釣れる、と囁いている」。いい具合に時間も経っている。そう思った瞬間、五十嵐は、躊躇うことなく貴子に電話をした。


 「もしもし、五十嵐だけど」

 

 貴子は驚きを隠せないでいた。

 それは電話口でも十分に五十嵐には伝わった。

 貴子は電話をしたことで自分の欲求に一区切りつけていた。


 電話を掛けて数日間は、罪悪感で心穏やかではなかったが、何事もない日常が平常を取り戻してくれていた。その平穏な日常が一本の電話で崩れ去った思いがした。

 悪事に慣れていないものは、罪を犯す免疫がない。それだけに動揺は隠す術など知りようがなかった。


 「な、なぜ、私の番号が分かったの?」

 「やっぱりな。これ、君、個人の番号だろう」

 「ち、違うは。これは…」

 「まぁ、いい。俺も君の声を聴きたかったんだ、有難う、嬉しかったよ」

 「あああ、あのぉ、もう、掛けてこないでください」

 「あれ、迷惑だった?残念だなぁ、俺はてっきり、デートの誘いだと期待していたのに」

 「そ、そ、そんなはず、あるわけないです」

 「なら、何故、そんなに焦っているのかなぁ、俺のドキドキが伝わったのかと喜んでいるのに」

 「何、言っているんですか、そんなことある訳がないじゃですか?」

 「そうか、悲しいなぁ、俺は嬉しかったのに、このドキドキ」

 「じゃぁ、用事がないなら切ります」

 「あっ、待って。ありがとう、君の声が聴けて嬉しかったよ、貴子、じゃ」


 大樹は、貴子が恋愛に免疫がないことを直ぐに悟った。

 案の定、貴子は動揺の色を隠せないでいた。

 当初は、表と裏の社会での個人的な繋がりを掘り起こしてしまった懺悔の気持ちと、大樹が最後に放った「貴子」と呼び捨てにされた至福感とが貴子の心中を困惑の渦に引き込んでいった。


 それから、毎日のように電話が掛かってきた。

 日常の報告を砕けた言い回しで、面白く一方的に話してくる。

 三日ほど連続すると、三日ほど連絡が来ない。

 この駆け引きが味気ない貴子の生活に禁断の味付けを施していく。


 着信拒否をすれば済むことだった。

 しかし、貴子はそれを拒んだ。


 何某か危険な香りの誘惑、まだ知らぬ世界への好奇心が勝っていた。


 それでも、貴子の心中では、なぜ、断ち切らないの、断ち切れないの?断ち切ればこの胸の高鳴りの正体は分からないわ、私は、私はどうすればいいの、と言った葛藤が繰り返されていた。


 正論は、非日常を日常に戻す。


 刺激が欲しい。


 平凡な生活に飽き飽きしていた貴子にとって、正論など導き出されないのは至極当然の話だった。


 これが人の性か?

 欲求と言う心を犯すウイルスか?


 貴子の脳裏では、天使と悪魔が激しく応戦していた。


 天使は言う、立場を考えろ、と。

 悪魔が言う、惹かれていているんだろう、ならば、自分の気持ちに素直になればいいじゃないか、それの何がダメなんだ、と。


 厳格な世界での自分の過ちより、別世界で優しくされる至福感を求めていることに貴子は気づき始めていた。


 五十嵐に電話を掛けた時の記憶が蘇ってきた。


 後々のごたごたを考えれば、非通知にすればよかった。

 それを不審がって相手が出なければそれでよかった。

 でも、そうはしなかった。


 万が一、五十嵐が自分に興味を持っていてくれば、折り返し電話してきてくれるはず。電話がかかってくるか、こないかの微かな期待は、貴子の平凡な日常をざわつかせた。ダメならすっきりと忘れられる、それくらいにしか考えていなかった。予想通り、電話はかかってこなかった。


 貴子にとって、それで終わりのはずだった、いや、終わりにするつもりだった。


 それなのに、それなのに…。


 忘れた頃に電話を掛けてくるなんて。


 不意を突かれた。


 単なる電話が、運命の電話だと乙女心が騒ぐほどに。


 ふたりを結びつけた赤黒く熟した果実が、泥濘にへばりつきながらゆっくりとゆっくりと沈み込んでいくのを貴子が、気づくはずもなかった。


 いつもより連絡のない長い日々が、貴子を正常に戻そうとしていた。


 瘡蓋(かさぶた)を剥すようにふいに着信音が鳴った。


 五十嵐からだった。


 運命の分岐点がそこにあった。


 出なければ、ときめきの記憶。

 出れば、はらはらの事態に。


 何となく、そんな気分になっていた。


 「久しぶりね、元気だった?」

 

 貴子の問いかけに五十嵐は無言だった。

 姿は見えなくても、様子がいつもと違うことは直ぐに分かった。

  

 「どうしたの、何かあった?」

 「…」

  

 あるはずのものがないことは、人の不安を駆り立てる。

 その緊張は、相手の物であっても自分の物のように錯覚させる。


 「何があったの?私、何か、力になれる?」


 食いついたぜ。電話口の五十嵐の口角が上がった。


 「俺、足を洗おうと、思って…」

 「えっ?」

 「堅気になって、お前と暮らしたいんだ」

 「どうしたのよ、急に」

 「一緒になるにしても、俺、筋を通したいんだ。おとうさんに許してもらわないと…。分かってるさ、俺はゴミさ。嫌われて当たり前だ。俺が悪いんだ。でもな、本気で向き合えば分かって貰えると思うんだ、時間は掛かるけど…。まともな仕事について頑張っていれば…。認めてもらわなくてもいい、黙認してくれれば。それだけでも俺、頑張れるからさ」

 「ちょっと待ってよ、付き合ってもいないのに一緒になるなんて」

 「分かっているだろ貴子だって。人を好きになるのは理屈じゃない、ビビッとくる感覚さ、相性っていうか、俺、勘だけはいいんだ。その勘が貴子を失ったら一生後悔するって」

 「そんなことを言われても…」

 「そうだな、ゴメン。じゃ、会おうよ。それで、貴子が来なければ、俺、諦めるから、俺のケジメさ」

 「一方的ねぇ」


 貴子は、五十嵐の強引さが満更でもない気分になっていた。


 「迷惑かなぁ」

 「迷惑なんて…」

 「じゃ、決まりだな」

 「でも、そんなの組が許すの?簡単じゃないでしょ?」

 「ああ、難しいだろうな。でも、俺の気持ちは固まっている。例え、半殺しの目にあっても、おやじに頼んでみるさ」

 「無理しちゃ、ダメよ。他に何か方法はないの?」

 「俺、バカだからさぁ、ぶち当たるしか思いつかないよ」

 「危険な真似はしないで」

 

 五十嵐は貴子の自分への関心が、図々しい人から同情や心配を施す人に変わってきていることを見逃さなかった。


 人は人に頼られた時、浮足立つ。


 自分の置かれている立場が薄れ、相手の事を優先する感情が芽生える。母性本能というか相手を守ることで自分の存在価値を見出すことになる。俗にいえば、私がいなければ、私だけが助けなければと思わせることで心を乗っ取る術をすけこましの五十嵐は熟知していた。


 貴子を術中に嵌めたと確信した五十嵐は、健気な態度で不安を装い、心配を掛け、不安を駆り立てる手段に出た。


 「ああ、有難う、待っててくれ、じゃぁ」


 五十嵐は、心配・不安の種を貴子の心に撒き散らし、貴子の母性本能により発芽するのを待つだけだった。


 貴子の心配は日に日に増し、不安と心配は五十嵐への思いへと摩り替えられていった。暇な時間があれば、ついつい五十嵐の事を考えてしまう。そんな自分に気づく。

まさに、吊り橋効果を自ら作り出していた。


 一方、五十嵐は貴子の動揺を嘲笑うように着信を拒否し、繁華街で女を吊り上げ、風俗に売る小遣い稼ぎに勤しんでいた。


 五日程経った頃、五十嵐は行動に移した。


 

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