第21話 いざ、夏の陣「突破口」

「そう言われてもなぁ……」


 ポツリと、水の中に消えていきそうな声量で呟く。パンティエルとの接触後、俺はクロールの練習に励んでいた。アドバイスは貰えたが、上手く想像できない。


「大切なものを思い浮かべろ、か」


 大切なもの。大切なもの。と脳内で何度も復唱する。浮かんでくるのは、家族、友達、裁縫部……。


「それを掴むために手を伸ばす……」


 今思い浮かべたものはもう既に掴んでいる。いわば、離したくないものに値するだろう。


「優? 泳がないの?」


 中々スタートを切れずにいると、香織が声をかけてくれる。練習に付き合ってくれてる三人のためにも、そろそろ泳げるようになりたいところだ。


「優くん」


 ちょんちょん、と優しく横から肩を叩かれる。


「はい?」


 呼び方で分かっていたが、そこには先輩が立っていた。いや、ビーチボールに掴まって浮いていた、と言う方が正しいか。


「泳げるか不安?」


「……そうですね。ここまで付き合ってもらって、泳げないまま帰るのは申し訳ないので」


「深く考えなくていいのよ。私たちも楽しいから」


「……はい。ありがとうございます」


「まぁ、一つアドバイスをするなら……」


 先輩はゆっくりとビーチボールから離れ、その場で足をついた。


「自分が今一番欲しいものを掴みにいくイメージでやるといいわよ」


「欲しいもの……」


 パンティエルからの言葉が、もう一度脳内で再生される。


『到着点に大切なものを思い浮かべるんだ』


 ……大切なもの。

 ……欲しいもの。

 パチッっと、ピースが当てはまる音がした。


「これだ!」


「ふふ、頑張ってね」


「はい! ありがとうございます!」


 先輩はすいすいと香織のほうに寄っていく。パンティエルと先輩のおかげで、どうにかなりそうだ。自信に満ちた心のおかげか、体が軽い。

 パンツのせいで始まったこの勝負。ならばトリガーもやはりパンツだろう。そして終わらせる瞬間も、パンツでないといけない。この夏の陣は全てパンツに支配されていたのだ。


 いざ、夏の陣。ビビーっと、開始の笛が鳴り響いたような気がした。勢い良く壁を蹴る。香織に教えてもらったバタ足で、すいすいとすすんでいく。


 ―今だ。


 少し離れたところにに"パンツ"を想像する。ピンクと白の横縞が入った女児用パンツだ。


 欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい。


 パンツは後一歩の所で逃げてしまう。がむしゃらに手を伸ばすが、いくら伸ばしても届かない。このパンツは欲しいものだ。そして、離したくない大切なものでもある。


「逃がすかぁぁぁぁ!」


 思い切り手を伸ばす。プールサイドから歓声がわいた気がした。水面から顔を上げ、周りを見渡す。さっきまでいた場所とは真反対の場所にいた。つまり、これは―


「やった!! 優! おめでとう!」


「凄いじゃん。おめでと」


「頑張ったわね、優くん。よく泳ぎきったわ。おめでとう」


 そう、俺がクロールで二十五メートルを泳ぎきったということだ。


「……やった」


 実感は湧かない。やり切ったからか、体から力が抜けていくのを感じた。俺は残りの力を振り絞り、なんとかプールサイドへと上がった。

 香織、南波、先輩の三人が駆け寄ってくるが、焦点が上手く合わない。視界はボヤけていき、やがてブラックアウトした―。


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「大丈夫?」


 そこには小学校低学年くらいの小さい男の子がいた。しかし、俺に語りかけている訳では無い。以前もこんな場面を見たことがある。あれは確か、学校で……。


「……ごめんね。ありがとう」


 ベンチで座っていた男の子の膝には、一人の女の子の頭があった。顔は黒いモヤでかくされていて、表情は伺えない。しかし、以前見た夢と同じ人物だという確かな確信があった。


「ちゃんと水分とらないとダメじゃん」


「起きれる?」と男の子が聞くと、ゆっくりと女の子が頭を上げた。男の子は水を渡すと、女の子はそれをちびちびと飲んだ。もしかして、この女の子は熱中症で倒れているのか?


「ごめんね。迷惑かけて」


「いいよ。……たまには俺も役にたちたいし」


「……!ふふっ、ありがとう」


 男の子がゆっくりと女の子の頭を撫でる。女の子は驚いたのか、体をビクッと震わせたが、直ぐに目を閉じて眠ってしまった。女の子が眠りに入ると同時に、俺の意識も朦朧とし始めた―。


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 頭に感じる温かさで目を覚ました。髪がゆらゆらと揺れている。風だろうか?

 そんなことを思っていると、徐々に目が開き始める。そこにあったのは二つの大きな……山?


「あら、起きたのね」


「……せん、ぱい?」


 確か……、俺は倒れたのか? プールサイドに上がってからの記憶がない。何の夢を見ていたのかは忘れたが、夢を見ていたことは間違いない。そのまま眠っていたのか……。


「大丈夫? 頭とか痛くない?」


「あ、いえ、大丈夫です。逆に柔らかいくらいで……」


 ん? 柔らかい? 二つの大きな山?

 ようやく、自分が今置かれている状況を把握できた。こ、これは……


「膝枕!?」


「……? そうよ? 変なの」


「す、すみません!」


 突然の事で意識がまた吹っ飛びそうになる。なんとか寸前のところで持ちこたえ、ゆっくりと頭を起こす。


「こら、ダメよ。まだ寝てなさい」


 しかし肩を掴まれ、ゆっくりと太ももへと戻される。ぷにっと、柔らかい感触がした。なんか申し訳ないが、ここは素直に甘やかされてみよう。うん、そうしよう! 勿論下心なんてないよ!


「……はい」


 先輩が頭を撫でてくれる。一撫で、一撫で、ゆっくりと。その手は温かく、優しさが滲み出ているようだった。


「そういえば、香織と南波はどこですか?」


「折角だし遊んできたらって私が言ったのよ。二人とも心配してくれてたのよ。後でまたお礼を言っておくといいわ」


「は、はい! でも、先輩は二人と一緒に遊びに行かなくてよかったんですか?」


「私は良いのよ。優くんを置いていくわけにもいかないし、それに……」


「それに、なんですか?」


「……いいや、なんでもないわ」


 ふるふると首を振る先輩。わざわざ俺についてくれたのに、言及するのも気が引ける。俺は頭を先輩に任せ、太ももを堪能……。いいや、ゆっくりと休みをとることにした。


「ありがとうございます。先輩」


「……? どうして?」


「あ、いや、こんなに優しくしてもらって……」


 心の中で思っていた言葉が、思わず口に出てしまい咄嗟に誤魔化す。


「……いいのよ。それに、当たり前でしょう」


 影が出てきて、先輩の表情はよく見えなかった。後、大きな二つの山のせいでもあるが……。


「せんぱーい、優起きました? って……」


 瞼を閉じて休んでいると、上から聞き覚えのある声が聞こえた。俺は焦って体を起こして先輩の横に座る。咄嗟のことだったので、つい正座してしまった。


「あ、あぁ。香織」


「ぶー」


「そうだ、心配してくれたんだって? ありがとう、先輩のおかげでもう大丈夫だ」


 そう言って先輩のほうを見る。しかし、


「だ、だめ! こっち見ないで!」


「え!?」


 横を振り向くと、先輩が被っていた大きな帽子で顔を塞がれてしまった。目の前が真っ白になり何も見えない。


「ちょ、ちょっと先輩!」


「あ、ご、ごめんなさい!」


 帽子が離れ、視界が取り戻される。


「ぶー!」


 香織がさっきから頬を膨らませて鳴いている。何かのモノマネか? ぶー? ぶー、ぶー……。


「どうしたんだ香織、ぶt……」


 いきなり口を塞がれる。抵抗すると、耳元で声がした。


「それ以上言ったら終わるよ、下木」


 さっきまで香織の近くにいたはずの南波が犯人だったみたいだ。今一度、俺が言おうとしたことを振り返る。うん、ダメだね。女の子に豚のモノマネか? なんて言ったら殺されるに決まってる。ナイス! 南波!

 南波に視線を送ると、ため息をつかれながら開放された。


「それにしても、鼻の下伸ばしすぎ。キモかったよ」


「辛辣だな!?」


 慌てて表情を元に戻す。本当に元に戻ったかは分からないが……。それにしても、何で香織は不機嫌なんだ? まさか俺が起きたのが嫌だった!? ……そんなわけないか。……ないよね?

 他にも先輩が俺の顔を覆った理由も分からないが、考えても仕方がない。南波の辛辣な言葉のせいで、なんでもネガティブに捉えてしまいそうだし……。


「二人ともどうしたの?」


「い、いやなんでもないよ! よ、よーし! 泳ごう!」


 空元気でなんとか誤魔化そうとする。しかし……


「「「もう泳いじゃダメ!」」」


 う、うん。これは誤魔化せた……のか?


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 時間はあっという間に過ぎた。

 あの後俺は勿論泳がせてもらえなかったが、十分楽しめた。電車の窓から覗く夕日は雲ひとつなく橙に染まり、一日の終わりを告げているようだ。多少のアクシデントや想定外の出来事が起こりはしたが、何かと楽しい休日となった。またこんな日を過ごしたいと、心から思った。

 ふと両隣に座る三人を見ていると全員がぐったりと疲れているようだった。電車の中で全員寝てしまい、乗り過ごしてしまうのも悪くないな。そんな思いを密かに抱き、ゆっくりと瞼を閉じた。

 瞼の裏を見ると、真っ先に思い浮かんだのは今日の楽しい思い出のことだった。他の皆はどんな夢を見ているのだろうか。気づけば、俺の意識は微睡みの中へと飲まれていった。


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 一人、瞼の裏を見ながら密かに思いを抱く。

 ガタンゴトンガタンゴトンと、電車が揺れる。その度に一緒に揺れる吊革のように、私の体も、そしても揺れていた。

 ……どうか気づいて、と。


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 一人、瞼の裏を見ながら密かに思いを抱く。

 この気持ちはなんだろう。胸に奇妙に残ってはゆらゆらと蠢く。私は眠るふりをして考える。でもいくら考えても分からない。

 不意に隣の……友人の肩に当たった時、私はハッと気付かされる。

 ……私の心は犯されている、と。


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一人、瞼の裏を見ながら密かに思いを抱く。

 自分は脆い。この人に頼っていかないと、直ぐに崩れる。だから、今も頭を預けている。眠るふりをして。我ながらずるいと思う。

 でも、こうでもしないとダメなんだ。だって私は気づいているんだ。

 ……私はもう戻れない、と。

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