第11話 あなたの名前を
「あら、どうしたの? そんなに暗い顔して」
俺が部室に入ると、先輩は俺とは対照的に何処か生き生きとしていた。そして、俺のこの
「東坂との勝負に負けました......」
負けた要因は既にハッキリしている。
それは、香織がパンツに洗脳されたことが問題であろう。香織の脳が機能しなくなったことにより、俺の脳も機能しなくなったのである。これがパンツの方程式!
「あら、そうなのね。じゃあ協力は得られないわね......」
「そうですね.....。申し訳ない」
「しょうがない、しょうがない」と言う先輩はどこか上の空のようだった。俺が訝しんで、少し顔を覗くと、視線に気づいたのか直ぐに元通りになった。
「あっ、そう言えば、下木くん聞いて。私、今回のテスト学年で一位だったの」
「えっ!? 凄いじゃないですか!!」
これは素直に凄い。俺は心の底から祝福する。その頭脳を少しだけでも分けてはくれないだろうか。
「と、当然の結果よ」
そう言う先輩の顔は、少し赤く染まっていた。俺は微笑ましくて、つい笑ってしまった。
「な、なによ」
先輩はぷいと後ろを向いてしまった。
「分かりやすいなと思って」
俺と先輩は、出会って数ヶ月が経つが、かなり距離が近くなったと思う。出会った当初は驚いたが、今ではこうやって気兼ねなく話すことができる。
「う、うるさいわね。悪い?」
俺は「いいえ」と微笑んで言う。先輩は不服そうだったが、こちらを向いてくれた。それと同時に、軽快な音が部室に鳴り響く
コンコンッ
ノックだ。こんな最果ての教室を訪ねてくる人なんて珍しい。先輩も気づいたのか、「どうぞ」と声をかける。すると、控えめにドアが開いた。
「失礼しまーす......」
「香織!?」
部室に入ってきたのは香織だった。教室での香織は、全く俺と目を合わせてくれなかった。恐らくパンツ洗脳事件のことを気にしているのだろう。しかし、ここになんの用事だろうか。
「かおっ......」
先輩は喉に何か詰まらせたような声を出した。俺と香織は思わず目を合わせた。しかし、香織はすぐ目線を外してしまった。
先輩は少し咳払いをして、香織に席に座るよう促した。
「な、何か用かしか? ......西条さん」
先輩が少し落ち着きがないように思えるが、大丈夫だろうか。
「ええっとー、今日は少し相談というか、お話があってきました」
香織は先輩のほうを見るばかりで、頑なに俺の方を見ない。
「そ、そう。それで、話ってなにかしら?」
「それがー」
香織はカバンを少し漁って、何か取り出した。
「私、裁縫部に入部します!」
そう言って見せてきたのは、入部届だった。
「「え!?」」
俺と先輩は顔を見合せた。これには思わず俺も黙ってはいられなかった。
「どうして裁縫部に? しかもこんな時期に......」
俺はなるべく動揺を隠すように言った。先輩のパンツ趣味がバレてしまうとやばいのではないか......?
「え、ええっとー。昔から家事とか好きで、よく裁縫とかもしてたからかな......? 前々から気になってはいたんだけどねー......」
そう言う香織の視線はあらゆる所に飛んでいた。
「先輩、どうします?」
俺は部室である先輩に決定権を委ねる。しかし先輩も、自ら趣味を暴露しにいくような選択はしないだろう。適当に理由をつけて断るだろうな。
そして先輩は「そうね......」としばらく考え込んだ。
「西条さん。あなたを裁縫部員として認めます」
ん!? この人、絶対忘れてるよね!? 爆弾抱えちゃったよ!!
「......!! ありがとうございます!!」
しかし、香織はとても嬉しそうだ。ここで先輩に口添えして、気を変えてしまうのも悪いだろう。
「西条さん、よろしくね」
先輩も新しい仲間が増えて嬉しそうだ。やはり、自分の部活に活気が出るのは嬉しいのだろうか。
「はい! 氷堂先輩よろしくお願いします! あと、優もよろしくね」
「おう、よろしくな」
香織がやっと目を合わせてくれた。話してる内に気まずさがなくなったのだろうか? 俺も自然と嬉しい気持ちになった。部員全員が笑い合えるなんて、なんて幸せなことなんだ......!!
と思っていたが、何やら横から不穏な空気が流れてきた。
「ゆうって呼んでるゆうって呼んでるゆうって呼んでる」
怖い怖い怖い怖い怖い怖い!! どうしたのこの人!? めっちゃブツブツ言ってるけど......。
「せ、先輩?」
俺は控えめに声をかけたが、聞こえていないようだ。
「ゆうって呼んでるゆうって呼んでるゆうって呼んでる」
香織は聞こえていないのか、何事かと首を傾げている。
「ほ、ほら、先輩」
俺は肩を叩く。先輩はやっと気づいたのか、顔をあげると、直ぐに笑顔になった。
「んー? どうしたのかな? し、も、き、くんっ」
その笑顔が怖い!!! なんでこの人こんなに満面の笑みなの!? 二重人格!?
「い、いえ。せ、先輩の様子がちょっとおかしかったので......」
「んー? どこがおかしかったのかな??」
先輩は満面の笑みで顔だけをこちらに近づけてくる。
「い、いや、なんでもないです!!」
俺は恐怖のあまり、たじろいでしまう。
「だよねー。し、も、き、くん」
いやー、怖い......。また先輩の新たな一面が発見されたな......。
「ふふっ、仲良いんだね」
香織がクスクスと笑っている。
「そ、そんなことねぇよ.....!」
ど、どうしてそんな風に見えるんだよ......。しかし、改めて言われると少し恥ずかしい。俺は咄嗟に否定してしまった。
「そ、そうね。確かに下木くんの言う通りだわ。それに、最近はあなた達のほうが......」
「ん? なんですか?」
先輩の言葉は最後のほうが聞き取りにくかった。しかし、香織は聞き取れたらしく、なにやら意味深な表情を浮かべている。
「ふーん......、そうなんだ」
香織は小声でそう言うと、カバンを持って立ち上がった。
「私、少し用事があるので今日はもう帰りますね! また明日です〜」
そう言ってそそくさと出ていってしまった。俺は慌てて「また明日な」と言ったが、、聞こえただろうか。
「......下木くん」
「はい?」
名前を呼ばれて振り返ると、先輩は恥ずかしそうな、そして怒っているような表情をしていた。
「西条さんとの勉強会はどうだった?」
あれ? 先輩には伝えていなかったはず......。登校中は何故か勉強の事は話題にはならなかったので、話をする機会がなかったのだ。勿論、香織の名前が出ることもなかった。
少し頭を捻って考える。あっ......、俺は思い当たる節があった。
それはテスト期間に入る直前の部室。香織が俺に勉強を教えてくれることになった日のこと。教室には、先輩のカバンが残されていた。いつも机上には一台のミシンしか置いていなかったため、そのカバンは異様な存在感を放っていたのだ。もし先輩がカバンを取りに戻ってきていたとしたら―。
部室のすぐ側にはトイレが設置されてある。そこに隠れていたら、俺と香織が気づくはずもない。
「凄く分かりやすかったですよ! まぁ、勝負に負けたのは僕の不甲斐なさが原因ですが......」
先輩が知っている理由は言及しなかった。勿論、香織がパンツに洗脳されたことは言わなかった。
「ふ、ふーん。そうなのね。それにしても、この期間で随分仲良くなったみたいじゃない?」
「そうですね。この前は香織の家で......」
俺はここまで言って後悔した。これはまずいのでは......? 男子と女子が二人きりで家にって、まずくないか......?
俺の予想は的中した。先輩は「イエッ」と変な声をだして、唖然としていた。
「そ、そんないかがわしいことはしてませんから! ただの勉強会です! 勉強会!」
「ふ、ふーん。でも私、いかがわしいことしてるの? なんて疑わなかったわよ。逆に怪しいわね......」
ま、まずい! これはどうにかしないと!
俺は記憶を辿り、勉強会での出来事を思い出す。
ええっと......、勉強して、パンツして......。いや、パンツするってなんだよ!!!
俺が頭を抱えていると、先輩は冷たい目でこちらを見ていた。
「ほら、やっぱりあるんじゃない。」
「な、ないですよ!! ただパンツしただけです!」
ああああぁ!! 俺は何故こうも自爆していくんだ!!
「......パンツした?」
先輩はさっきよりもっと冷たい目で俺を見てくる。
「ち、違います! それは誤解で!!」
「ふーん。まぁ、下木くんと西条さんの距離が縮まったのは分かったわ。......それに、下の名前で呼び合う仲なのね」
先輩は何処か不機嫌そうであった。
「ま、まぁそれは成り行きで......」
俺は上手く説明出来ずにいた。
「そうなのね......」
先輩は言葉では表現できないような表情をした。怒っているのか、悲しんでいるのか、恥ずかしがっているのか。なんとも捉えれそうな表情だ。
「先輩?」
俺は少し心配になり声をかける。
「ねぇ、下木くん」
「はい?」
先輩はクルッと回り、俺に背を向けた。
「私も、下の名前で呼んでいい?」
「え!?」
俺は思わず声をあげてしまった。先輩は背を向けているので、どんな表情をしているかは分からない。しかし、後ろで組んでいる手はモジモジしていた。
「いいですよ」
俺は驚きはしたが、迷うことなく答えた。先輩は「ほんと!?」と言って、こちらを振り向いた。そして、
「ね、ねぇ......、ゆ、ゆ、.....」
先輩は顔を真っ赤にして言った。弱々しく、今にも消えそうな声であった。
「せ、先輩?」
そんな先輩の表情に感化され、俺まで恥ずかしくなってくる。
「んっ.....」
先輩は色っぽい声をあげた。俺は思わず顔を背けた。
「やっぱりダメ......。言えない」
先輩は両手で顔を覆った。そして、右手の人差し指と中指の間を開き、目だけが見える状態になった。
「ゆ、優......くん」
心臓が高鳴った。だ、ダメだ。これは刺激が強すぎる。こんな時はこれで......。この人は男性用パンツ作りが趣味、この人は男性用パンツ作りが趣味、この人は男性用パンツ作りが趣味......。
お、落ち着かないだと!? 静まれ......静まれ......。俺は深呼吸をする。先輩から見ると、かなりヤバいやつだよな......。少し先輩をみると、また両手で顔を隠していた。少し安堵する。
「あ、あの―」
俺は控えめに声をかけた。先輩はまた目だけをこちらに向けた。先輩が俺の事を名前で呼んでくれるのであれば、それに俺も応えるべきだろう。
「......華憐先輩?」
「ッッ......!!!」
俺が勇気を振り絞り言うと、先輩は耳まで真っ赤にしてまた後ろを振り向いた。
「......優くんのズル」
「え?」
俺が素っ頓狂な声をあげると、先輩は勢いよくこちらに近づいてきた。
「優くんのズル! 優くんのズル! 優くんのズルーー!!」
先輩はポコスカと俺の胸を殴ってくる。俺は困惑しながらも、先輩を眺めていた。やはり、そのクールな容姿からは想像がつかないような一面を持っている。
「どうしたんですか? せんぱ......いや、違うな。どうしたんですか? 華憐先輩」
俺が言い直すと、先輩の頭からボフッと煙が出た気がした。
「も、もーーう!! 優くんは狙ってやってるの? それとも無意識なの!? とにかく、私のことは今まで通りの呼び方でいい!!」
先輩は腰に手を当てて、こちらを指さしてくる。依然として顔は赤いままだった。
「?? 分かりました?」
俺はあまり状況が掴めていないが、とにかく返事しておく。
「も、もぅ。優くんはズルなんだから」
そう言って先輩は「ちょっとお手洗い」と出ていってしまった。
それにしても俺がズル、か。俺からすると、先輩のほうがよっぽどズルいと思うけどな......。
俺の脳内では、さっきの先輩の表情がフラッシュバックしていた。そして、思わず声が漏れる。
「......可愛かったな」
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「......聞こえてるし」
私は小さく声を漏らす。ああは言ったが、トイレに行く気も起きず、私は廊下で一人しゃがみこむ。恥ずかしくて今にも溶けてしまいそうだ。
西条さんと勉強会って聞いた時、行き場のない気持ちが渋滞していた。初めは扉の前で聞いていたが、二人にバレないようにトイレへと逃げ込んだ。私が優くんに教えてあげたら良かった。そして、後悔の念が一気に押し寄せる。優くんと一緒に登校している時も西条さんと勉強の話題は一切出さずに、どうにか自分の気を紛らわせようと言葉を紡いでいた。
「私、性格悪いな」
自嘲気味に呟いて頬を触った。それは暖かく、まだ顔が赤いままだと認識させられる。
私には、こんな資格はないのにな。こんなことダメって分かってるのに、私の心は言うことを聞いてはくれない。私の心の中は、六割の羞恥、三割の欲望。そして一割の理性でできていた。
私は気持ちを切り替えて、部室の扉に手をかけた。
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