第07話 若奥様のお屋敷探訪記

 ヘンリが部屋を辞して少し経った頃、玄関先が騒がしくなってきたのに気がついた。


 もう遅い時間だけど、今夜は寝ないでがんばった。


「おかえりなさいませ、だんな様」


 こうやって、彼の帰りを出迎えたのは、何日ぶりだろうか。

 ……って、二日ぶりくらい? なんだ、ぜんぜん久しぶりでもないよね。


 だけどさ、実際の時間はともかく、ボクとしては一月振りくらいに思えるわけで、久しぶりったら久しぶりなわけだよ、うん。


「エーレン、ただいま」

「うわっ」


 ギデオンは、玄関先にいたメイドにコートを脱いで預けると、小走りでボクに向かってきて力いっぱい抱きしめてきた。


「だ、だんな様。そういう威厳のないことをなされては」

「そういう君だって、淑女とは思えない声を出したよ」


 たしかに。まあこれは、痛み分けというところかな。


「今夜はいつもの数倍かわいいじゃないか。どうしたのこのリボン」

「あ。ええ、これは、ヘンリが結んでくれました」

「……あー、あいつかぁ。くっそぉ、こんなかわいくするとは許せん。お仕置きだ」


「お、お仕置きなんてダメです!」


 ダメダメダメ。ぜったいダメ。

 ボク以外にそういうのするの、ぜったいダメでしょ。


「……エーレン。何すると思った?」

「え」


 あ。え。は?

 あ、え、ん?


 サーッと、血の気が引く。

 カーッと、引いた血が容量を増して逆流してくる。


「エーレン、顔真っ赤」

「だんな様っ!!」

「はっはっは」


 視界の隅でメイドたちが笑いをこらえてるよ。

 お願いだよ、ただでさえボクは威厳に欠ける見た目なんだからさ。


「奥様、失礼致します。だんな様?」

「ああ、わかってる」


 留守番のメイド頭との話を終えた執事ダスティンが近づいてきて、ギデオンを執務室に向かうように促してきた。

 この上ない助け船だよ。ホントにウチの執事は有能だ。


 って、ああ、そういえば、これからヘンリも交えて相談があるんだったね。


「すまない、エーレン。今夜も一緒には眠れそうにない」

「わたしのことはお気になさらずに。だんな様はだんな様のお仕事を優先してくださいませ」


 我ながら、いやみにならずに見送れたと思う。

 これもみんな、ヘンリのおかげだ。気分はすっかり晴れやか。


 今夜は一人でもぐっすり眠れると思う。だって。無事帰ってきてくれたんだもん。


『これ以上女の子にならないで』


 はっ。

 昨晩のヘンリの言葉が頭に浮かぶ。


 そ、そう。そうそうそうそうそう。


 帰ってくるの当たり前だよ。勇者だし。

 べつに、喜ぶようなことじゃない。うん!


 ぐぅ。


 なんにしても気が緩んだのか、はしたない音を鳴らしてしまった。

 ……寝るまえに、何か食べよう。丸一日なにも食べてないんだった。



 ☆★☆★☆★☆★☆★



「ここを、こう……こう?」

「違います。そこを重ねすぎては形が崩れてしまうでしょう」


 ギデオンが戻ってきた翌日の午前。

 ボクは、サラ先生に刺繍を見てもらっていた。

 何を隠そう、淑女教育の中で最も苦手だった科目だ。


 いまも、ギデオンとヘンリは会議中だ。

 そろそろボクも混ぜてくれてもよさそうなものだけど、二人が何をしているかは知らないことになってるからなぁ。


「エーレントラウトさま。刺繍は手が覚えるまで毎日欠かさず練習を続けるようにと言いましたね」

「はい……言われました」


 だけど、こんなちまちましたのつまんないよ。

 ていうか、なんでこんなの覚えなきゃいけないのさ。

 貴族の女性ってそんなヒマなの?


 ……あー、ヒマかもしれないな。ボクとか。

 なにもしてないよね、そういえば。


「バックステッチでもう手つきが怪しいのですから、私の教鞭から離れて以来、一度も針を持っていないのではないですか?」


 ご慧眼、恐れ入りました。その通りです。


「やはり私はここへきてよかったと思いますよ。あなたは私が教えた多くの生徒の中でも際だって不器用でしたからね」


 ギデオン、恨むよ。どうして先生をご近所に呼び寄せたの。


「エーレントラウトさま。これは宿題です。次回までに……そうですね、こことここと、ここ。三カ所をリーフステッチで縫っておいてください」

「はい……」


 たしか、主人付きメイドメアリが刺繍を得意にしていたよね。

 彼女のハンカチの刺繍は見事の一言だった。


「まさかとは思いますが、メイドにやらせたものを提出したりしてきたら」

「めめめめ、めっそうもありません。それは淑女のすることではありませんわ!」


 あっぶな。おっかな。

 読まれてるなぁ、大勢教えてきた中には、たぶんそんなことしてた人もいっぱいいるんだろう。


「まあ、そうですよね。三〇年以上教えてきましたが、そんな卑劣なマネをなさった方はいままで一人もいませんでした。ごめんなさいね、さすがに失礼でした」

「い、いいえぇ。お気になさらず」


 いや、ホントに。



 ☆★☆★☆★☆★☆★



「これは、いったい何があったんですか」


 サラ先生を見送って二階に上ると、職人らしき男性とメイドシンディがなにやら話しているのに気がついた。


 あ。寝室のドアの修理を呼んでいたんだね。ウチの執事はやることが早い。


「蝶番どころか壁の方までえぐられてます。爆裂魔法でも飛んで来ましたか?」

「それがアタシにもわかんないんよ。中には同僚と奥様がいたんだけどさ」


 うーん。あの子はちょっとおしゃべりなんだよね。いい子なんだけどさ。


「シンディ」

「え? あ、奥様」


 慌ててボクに頭を下げる二人。


「シンディ、家内の話をみだりに外に漏らすものではありませんよ」

「申し訳ありませんっ」

「あ、これはどうも奥様、俺が余計なこと聞いちまって」


 職人さんの方も気はいい人だね。シンディをかばってあげてるよ。


「わかってくださればいいのです。修理の方、お願いしますね」

「はい、おまかせを」


 まあ、ボクが見ててもやりにくいだけだろうからね。

 あ、そうだ。書庫でも覗きに行こう。この間持ち出した本はもう読んじゃったしね。



 ☆★☆★☆★☆★☆★



 最近は、人間から見た魔族ボクらを記した本を読むことが多い。

 先頃終わった魔族と人間の戦争は、二十年の長きにわたって続いていた。


 そのせいか、ボクらを悪鬼羅刹のごとく扱い罵詈雑言を浴びせ、現実の存在からはほど遠い、醜い姿と卑しい心を持った、決して共存はあり得ない絶滅させるべき絶対悪として描かれているものがほとんどだ。


 その絶対悪の中心とされるのは ―― 魔王。


 ここで言う魔王は先代の、つまりボクの父のことだ。

 なにせボクは、即位して間もなく勇者の若奥様になってしまったからね。本になって叩かれる暇がなかったんだ。


 ……つくづく、いまのボクの境遇が秘密になっていてよかったよ。

 女の子になって毎晩のように勇者にいじめられてかわいがられているなんて書かれたら、もうぜったいに生きてはいられない。


 ふと手に取ったこの本には、一昨年 ―― つまり終戦の一年前くらい ―― のデータが記されていた。かなり新しい本だ。


「東部連合で1500人、ディオハ王国で2000人、を接していたこの国では、5000人、か」


 最後の数年は膠着状態が続いて大きな侵攻作戦はなかったはずだが、それでもたった一年の間にこれだけの人の命が失われていた。


「そりゃまあ、ボクらを憎みたくもなるよね」


 もっとも、魔族にもこれと大差ない数の犠牲者は出ているのだけど。


「人間たちに、ボクらの国で読まれていた絵本を見せてやったら、なんて言うかな」


 知らずに、薄い笑みを浮かべている自分に気がついた。


 人間たちが魔族の村に大勢で襲いかかってきては、子供をさらったり大人を殺したり食べたり……そんな、目を覆いたくなるような物語を、たくさん子供に読み聞かせていたのだ。


「もう、そんなのダメだよ」


 本に落としていた目を、力いっぱい一気に天井へと向ける。


「うん」


 両拳を握って誓う。ボクに何ができるかわかんないし、たいしたことはできないだろうけど。

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