虚空

零之零 羅喉を放つ

 もしも神というものがいるのなら、これこそ天罰と言うにふさわしいだろう。


 白衣の少女はひとり、音もなくなめらかに降下する薄暗い鉄の箱の中、しゃがれた声でだる熱を吐き零した。


 〘地下十階〙


 生気の抜けた調子はさながら亡霊だった。ぐったりと壁に体をもたれかける少女の腕や膝に力はなく、まるで砂でできているかのように、今にも崩れさってしまいそうだ。


 〘地下十五階〙


 壁に表示される数字が増えるごとに少女の腹部はずきりと痛む。少しでもそれから気をそらそうと、少女は手の中の小さな板切れに視線を落とした。携帯用の小型電子端末。漆黒を呈していたその表面に弱々しく明かりが灯る。無明の深層を目指すなか冷光を放つそれは、忠実に事実だけを記していた。


『西暦二一二五年 八月十一日 二十時零分 風速:二十五 気温:零下十五度 天候:殊雪じゅせつ


 目を留めるも一瞬、すぐに少女は慣れた手付きで板上に親指を滑らせた。


 〘地下二十階〙


 転々と端末の画面が切り替り、とある計画書が表示されたところで動きを止めた。


【開闢計画:第四段階】

 『人類を生み出したこの星は、最期をもってその。』


 立案者は巳月みづき弦間げんまとあった。その名は少女にとって重要な意味を持っていた。医療区画を出る許可が降りてようやく、今日は二週間ぶりにこの男に会いに来たのだから。


 〘地下三十階〙


 昇降機が停止した。員証を持つもののみが立ち入りを許されている研究棟最深区画の扉は、撫でるようにゆっくりと開く。

 扉先の光景も、決して開放的なものとは言えなかった。ひと二人すれ違える程度の広さの八方に派生した通路が、この昇降機を中心に続いている。明かりは最低限の距離間隔で灯されていて、この星の行く末のように薄暗く、また静謐であった。

 少女は男に会わなければという一心で、鉛のような重い脚を踏み出した。通路にはところどころ扉が散見され、その先には人の気配がある。しかしこの時間はどの研究員も自室に籠もってその日の記録を洗っているだろうがため通路はがらんとしていた。


 とぼとぼと自分の足音。かたかたと打鍵音。ぴぴぴと電子音。なにひとつ、耳をくすぐりはしない。無機的で、無感情で、詮無い。そう、詮無いことなのに。


 ところが通路に出て少ししたころ、少女の感情は僅かに跳ねた。

 ぴたりとその場で足を止めると、髪が靡いて少女は自分を包む空気に違和感を覚えた。


 風が吹いている。


 そよそよと誘うようなそれは生ぬるく、嗅いだことのないふくよかな匂いと湿気を孕んでいる。少女は無意識に、肺を大きく膨らませていた。急な肺の拡張ですこし目眩がしたが、不思議なことにそれはその情報量の多さとは裏腹に、警戒心とは無縁だった。


 そも地下に風が吹くということ自体がおかしいと気づくと少女は真っ先に換気装置の故障を疑ったが、すぐにその考えは否定した。つい昨日に整備員による定期普請があったばかりだからだ。もしも不備があったなら真っ先に一般連絡網に記載があるはずだったが、携帯端末を検索してもそのような知らせはない。天井の通風口に手をかざしても、やはり通常どおりのように思える。

 風は正面の通路から吹いているようだ。少女は手を引かれるように、そちらの方向に足を向けた。


 ある程度進むころに、自分が三〇〇五号観測室を目前にしていることに気がついた。奇しくもそこは少女の目的地でもあった。偶然はしかして少女の愁眉を険しくした。そして、前触れ無く『それ』は起こった。


 ず、

 がん。


 まるで眼前に雷が落ちたようだった。明らかにただ事ではない音は地の底を駆け巡り、階層一帯に烈震を齎した。

 反射的に仰け反ったところを、一拍遅れて強烈な突風が殴りつけた。そのまま壁に叩きつけられ、ようやく驚愕と痛みに悲鳴を上げることを思いだした。


 轟音にかぶさるようにして、今度は施設全体に耳をつんざく警報が鳴り響いた。真っ赤な警告灯に施設はかつてなく明るく照らされる。


『緊急事態発生。緊急事態発生。地下三十階研究棟、観測区画にて原因不明の出火を検知。危険度"五"と判定。区画の研究員は直ちに避難せよ。繰り返す、区画の研究員は直ちに避難せよ』


 急な警報に各部屋から他の女性研究員や技術者が、尻を蹴り飛ばされたように飛び出してくる。施設内を吹き抜ける発生源の知れない暴風が、彼女らの白衣を引き裂かんばかりにはためかせる。必死の剣幕で研究員同士で状況の説明を求め合っているようだったが、警報に遮られて他の音はまるで聞こえない。周囲はあっという間に混乱状態に陥った。


 暴風は嗷嗷ごうごうと耳を嬲る。鈍痛が眼底に向けてじわりと熱を広げ、さらに耳鳴りが平衡感覚を狂わせた。かろうじてまぶたの隙間を覗いても、涙でぼやけてしまってよく見えなかった。

 耳鳴りが治まってきても、今度は胃袋ごと吐き出しかねないほどの吐き気に見舞われた。それでも少女は風を頼りに、それをかき分けてもがくようにして前進した。ただただ膨大な不安が、少女の動力源となっていた。


 次々現れる研究員が障害物化し、その度に衝突と二進三退を繰り返す。ときにはもつれて転がり、手の甲には踵がめり込む。痛みに顔がゆがむも、執念が少女をすぐに立ち上がらせた。体を屈め、歯を食いしばって目的地ににじり寄る姿はまるで獣のようだった。進めば進むほど身に纏っていた白衣が水気を吸って重みを増すような気がした。これが湿度によるものか冷や汗によるものかは判断している余裕がなかった。


 近くて遠い、三〇〇五号観測室の入り口がついに正面に差し掛かった。ぼやけた目をこすって確かめると扉は開け放たれていた。

 ……いや、それどころか扉は吹き飛ばされていた。相当な衝撃だったのだろうか、軽銀を主成分とした合金素材とは言え完全にくの字にひしゃげて所々が焼け焦げているのを見て、少女はぞわりと寒気だった。


 ばぢり、ぢりぢり、と電気の弾ける耳障りな音と青白い発光が部屋から漏れている。観測室は精密機械の密集地だ。機器によっては微細な静電気ですら命取りともなりうるものもある。それらがこれほどの強力な帯電と放電にさらされるのは異常と言うに他ならなかった。

 少女は下唇を噛みながら部屋に飛び込むと、その部屋の中心に、同じように白衣を纏った背の高い中年男の姿があるのを見た。それは紛れもなく、少女の目的の人物の姿であった。


 少女は男の無事に口元が綻ぶ。しかしながら、目を皿のようにするのはほぼ同時だった。次の瞬間には頭の中が真っ白になるような光景を目撃したからだった。


 は部屋の反対側の壁面に設置されている、映像投影板から放たれる光を背に受けて鎮座していた。

 色にすれば青黒く、全長にして成人男性二人ほどの大きさがある。中心へ向かってうねりを上げて流動を繰り返すそれと、周囲の空間との境界は光が屈折して波のように撓んでおり、吸い込まれているかのように曖昧だった。それが強い風を放ちいなずまを纏う。

 原理は目下想像が困難だったがこの事態の中核に在するなにかであることは間違いない。少女は対象の存在が夢幻のたぐいではないと仮定すると、眼前に佇むそれの正体と記憶の中で類似するものの単語を口からこぼした。


「位相の、歪み?」


 言って、はっとした少女はすぐに口を濯ぐように「まさか」と吐き捨てた。この時代の科学でも発見が叶わなかった代物ゆえに、その単語を口にすること事態、現代科学者としては冒涜的な行為であった。

 男、弦間は少女には気づかない。そのかわり、うわ言のような言葉をこぼしていた。


「冗談じゃないぞ、夢でも見てるのか?こんなもの、この世に魔法があってたまるか!」


 少女は思考を切り替えると弦間にすがりついて言った。


「こっちへ、早く!」


あや!?」


 弦間の狼狽えようと言えばよほど寝耳に水であったらしく、まるで墓穴から腕が生えてきたのを目の当たりにしたように、もはや滑稽ですらあった。しかし取り乱したのもつかの間、すぐに弦間は冷静に、しかし口早に告げた。


「いや、俺はもう遅い。この階層はすぐに閉鎖、隔離する」


「遅いって……じゃああれは!?あなたは!」


「そうだ。それもかなり高濃度……もしかしたら、これが『聖奠機構せいてんきこう』の連中が予言したものなのかもしれないな」


 少女は言葉の意味を測りかね絶句した。この位相幾何学的な構造物を、それ以上の怪奇と宣うにはあまりにも横暴だと思った。しかし他でもない弦間の言葉を疑うという考えを少女は持たなかった。彼がそう言うなら、そう思うしかない。そしてこれが一体何であれ、この場が危険であるという事実は変わらない。

 すでに周辺機材の一部は出火をはじめている。暴風も稲妻も徐々に激しさを増し、迫りくる惨劇の予感が、時限爆弾のように少女の焦燥を煽る。

 施設の武装隊、及び救急隊の到着を待つという選択肢は初めから無かった。すでに動き出しているにしても先程の揺れで昇降機が停止している可能性を考慮すると、地上に近い階層に固まって駐留している彼らがここへの到着するには、どれだけ早くてもあと5分はかかるからだ。


 矢も盾もたまらず拳を握りしめると、弦間が少女の肩に手を添えて立ち塞がった。


「俺のことはいい。さあ、お前は生きなさい。それにあの子にはお前が必要だろう」


「そっ……それは……」


 思わず少女は口ごもる。それだけでなく少女は弦間の姿をまともに見れなくなった。顔を逸らすより先にまた一つ精密機器が爆ぜ灰煙を巻き上げる。いよいよ猶予はない。

 弦間は声を荒げて少女を急かすが、たった一人の家族を危険な場所に置いて自分だけ逃げようものなら、少女は一生自分を許せなくなる確信があった。


 「でも」と講義しようとする少女の声は、しかし喉奥で鏖殺された。


『だれ?』


 透明な声だ、と思った。


『おまえたちは。だれ?』


 孔から聞こえた。感情は稀薄で、耳元で囁くようで、なのに頭に直接響くようで、楽器の音色のようでもあった。

 少女は唖然とした。何かに操られているかのように、口を半開きにしたまま孔の底を食い入るように覗き込む。依然として、孔は青黒く深淵の様相を呈しているだけだ。

 弦間も同じように目を見開いているところから、声は気の所為ではないらしい。はっと我に返った弦間が声に対して問い返した。


「言葉・・・?意思の疎通ができるのか?お前は何だ?どこから来た?!?」


 弦間の声は昂りを抑えられない様子だった。敵意か、それとも警戒心か。あるいは科学者としての『さが』か。弦間の口の端は、これでもかと吊り上がっているのを見て、少女は眉の端を吊り下げた。


 孔の向こうの声はなお抑揚のない様子で言った。


『そういう。ことか。』


 その言葉を境に孔からの声は止んだ。その代わりにさらなる暴風が、否、もはや衝撃波とも言える暴力的な応酬が少女と弦間の体を吹き飛ばした。

 容赦などなく少女は先ほどと同じように後頭部を壁に強打した。瘤ができていたらしく、同じ箇所を打った少女は悲鳴を上げることすらできず、声にならない苦悶の声を上げて朦朧とする中で必死に意識をつなぎとめようとした。


「文!」


 一方で、どうにか気絶だけは逃れた弦間が、よろよろと床を這いながら倒れた少女を抱え上げる。


「駄目だ!気をしっかりもて!」


 弦間の腕に揺さぶられる中、少女の視界は々に狭まってゆく。最後に目にうつった弦間の心配そうな表情にはただただ罪悪感に迫られた。


 せめて……。少女は血涙を絞る思いでただ一言、この数週間の間ずっと言わなければと思っていた謝罪の言葉を口にした。

 

「ごめん……なさい……私……。あの子……を……」


 それを最後に、少女の意識はぷつりと途切れた。

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