序章
零之壱 成劫
姉の声が土間の奥から聞こえた。怒声にも似た大声だ。内容は至極単純で、再三起床を催促されているのだ。朝は決まって、かもめの鳴き声で目を覚ます。呼ばれる前からこの目はとっくに冴えていた。
畳の青っぽい匂いと、温かい朝餉の匂い。見上げた天井の木目は睨み返し、障子の向こうに朝日の気配を感じる。清々しい一日の始まりを飾る陽光を受けても、この布団の外へと体躯を露出させるのは、こと労力を要した。それというのも、やはりこの蛹の如き微睡の安寧に包まれては、魅入られるほかなかったから……というわけでもなかった。
弐度寝なんていう怠惰に興じようと閉じた瞼に、細くゆとりを残す。その隙間に、自らの手のひらをうつした。
夢を見た、ような気がしていた。
それがどんな内容かは覚えていない。けれども、少なくとも楽しい夢ではなかったと思う。
目を覚ました時、頬は涙で濡れていた。掌にはくっきりと爪の跡が残っていた。こんな朝を迎えるのは今に始まった事じゃない。物心ついたときから毎日、一日も例外はない。だから今はもう慣れてしまったけど、やっぱり気持ちのいいものじゃなかった。
何度目を閉じても、記憶を遡ることもままならない。
ことこの上ない寝覚めの悪さによる眠気を僅かも払拭できないままに。
「おおい、起きろって言ってんでしょう
鬱憤を募らせたべたべたという足音が近づく。しびれを切らしたらしい実力行使の権化によって、ついに大切な
白い寝間着姿を強制的に顕にされた少年は、急な温度変化にぶるりと小柄な体を身震いする。眼にうつった、藤色に籠目柄の着物を着た女に眉根を寄せて抗議した。
「んんぅ~……姉さんってば乱暴なんだからぁ……。寝起きというのはね、蛇の脱皮のようなもんだよ……ゆっくり丁寧に、時間をかけて慎重に……ね?」
姉の
「脱皮じゃあ遅いんだよ。蜥蜴が尻尾切るくらい慌てなさい。数刻であんたの友達が迎えに来ちゃうよほれ、はよ着替えてご飯を食べろ」
言うやいなや踵を返し唯衣は土間へと戻る。狐霊はのそりと上体を起こして、「それじゃあしょうがないね」と渋々布団を離れた。
狐霊は桶に溜めてあった水で顔を洗い、桐箪笥から着物を取り出した。肌着に長襦袢と紺の着物を着て帯を締める。そうして囲炉裏の前の座布団に正座をする頃には、朝食がすでに据えられていた。
麦めしに、れんこんの味噌汁、雑魚の干物、水いちごの酢和え。すべて木製の器に、至って素朴な献立が並んでいる。
狐霊は合掌し、それから箸を取る。とっくにぬるくなってしまった汁物から味わいながら唯衣に問いかけた。
「母さんはもう仕事に行ってるの?」
鍋を洗う唯衣は振り向かずに答えた。
「そうよ。私も今日は手伝いに行くから、夕飯はあんたお願いね」
「わかった。
はきはきと食を進める。『友達』の迎えはまだ来ない。一応、外の様子を気にしていると、迎えの代わりに前触れ無く、ずんと地面が揺れだした。
「わ、まただ」
狐霊は言葉にしてれんこんと事態を飲み込むと同時に身構えた。しかし然程慌てることはなかった。
それもこれも、ちかごろこの地震は頻発しているためだ。揺れの大きさは一律で、長さに少し差がある程度だ。立っていられないほどのものではなく、屋根瓦もびくともしない。
……とはいえ人の不安を煽るには十分ではあった。目の前の囲炉裏の鈎が振り子のように左右に揺れ、壁棚の食器類や置物がかたかたと音を立てる。狐霊は真っ先に鉱石棚へ目を向け、自分が座っていた座布団をその下に敷いてあたりを見やった。そこには狐霊が蒐集した色とりどりの鉱石がずらりと並んでいる。落ちたところで鉱石自体は大した被害にならないが、床板を傷めては困る。
何事もないまま揺れが収まると、唯衣が物陰から頭をのぞかせた。
「今のは長かったね」
狐霊は座布団を元に戻し、囲炉裏に突き刺さった箸の灰を手で払いながら言った。
「最近よく揺れるね。ほんとにただの地震かな」
「どういうこと?」
姉が怪訝な顔をするので先程無理やり起こしてくれた仕返しにいたずらっぽく、狐霊は大袈裟に言ってみせた。
「もしかしたら怒り狂った地底人が、地上を征服するために攻めてきてたりして」
「馬鹿言うなよ。寓話書誌の読み過ぎじゃないの?」
「いいのー。子供のうちの特権ですからー」
「もう、口ばっか達者になっちゃって」
唯衣はふらりと居間へ出てきて横座へ座ると、ふうと一息ついた。たった数歩の距離だったが、狐霊には足元がやや覚束ないように見えた。狐霊は鈎から急須をとって茶を注ぐとそれを唯衣に手渡す。姉にこそ減らず口をたたくものの、今頃近くを歩いているだろう友人らは無事だろうかと狐霊は心配を屋外に向けた。
「まぁ、何があったってどうせ大したことないよ。この何百年の間もずっと平和だったんでしょ?」
狐霊がそう言うと唯衣は茶をすすり、憂鬱そうなため息を付いた。唯衣の瞳は部屋のなにもない壁の方へと向けられていたが、そこを見つめているわけではなくもっと遠くに焦点があるように見えた。
狐霊はそんな唯衣の心中を察して、膝立ちで自分の胸に唯衣の頭を抱きしめた。
「まったく、
よしよしと頭を撫でてやると、唯衣は狐霊の腕の中で不服そうに声色を低くして訴えた。
「ちぇ、
「にひひ、今日から姉さんが妹になる?」
冗談で和ませようとしたけれど、唯衣はやけにしんなりとしていた。おや、と思うと唯衣はぽそりと呟いた。
「……ねぇ……狐霊はどこにも行かないよね?」
「そりゃあ……」
狐霊の言葉はそこで遮られた。聞き慣れすぎて愛着すらあるものたちの声がみっつ、家の外から元気いっぱいに轟いたからだった。
「おーーーーーい!!迎えに来たぞーーーーー!」
弾かれたように反応したのは姉の方だった。
「あ!もう、もたもたしてるから来ちゃったじゃない!せめてあとひとくち掻き込んで!忘れ物ないようにしていきなよ!」
そして思い出したように土間に戻っていった。まるでさっきのことなんかなかったかのようだった。姉さんってばあんなに慌てて忙しいなぁ、と狐霊はのほほんと思った。
少しでも多く腹を満たしたのち立ち上がり、口の中のものを飲み込むより先に玄関へと歩き出した。予め玄関前に用意しておいた革鞄を手に取りこげ茶の『
「ねえはん、いっへきあーう!」
「気をつけてね」
その先に待っていたのは。
青い空に白い雲
眩く輝く白い巨星
苔蔦に覆い尽くされた 穴だらけの 石の巨木林
瓦礫の山々と 大小さまざまな 金属の残骸たち
そしてどこまでも広がる 青く広大な『ただの水溜り』
狐霊を迎えに来た幼い三人の子供たちは同じく一様に着物に長革靴を履いており、世界を水平線まで遍く覆う水溜りの上に立っていた。狐霊は頬についていた米粒一つを親指で唇の隙間に押し込み、手を振り招かれるままに桟橋を駆け、水溜りの中に飛び込んだ。足を一歩踏むたび飛沫が飛び跳ねきらきらと宝石のように輝く。その冷たい飛沫は重力に引かれ弧を描き、勢いよく友人に降りかかってまばらに濡らす。
「やぁ、もー!濡れちゃうじゃん!」
友人の一人である
「おはよ、みんな!さっきの地震大丈夫だった?」
狐霊の問に答えたのは
「おう、なんも心配いらねえぞ。けど、こんなに地震ばっか起きてちゃ安心して昼寝もできねえってなもんだ」
「嘘ばっかり。お兄ちゃん平気で眠りこけてるくせに」
口を尖らせる外張にすかさず、その妹の
目指す方角の先、おおよそ三町ほど向こうに瓦屋根の建物が密集した丘陵があった。その中央には、いかにも建築様式がそれらとはかけ離れた、真っ白で背の高い宮殿がひときわ目立っている。
子どもたちの足元から広がる波紋。それに反応したように、小さな魚が一匹、ぴゅっと逃げていった。
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