レプブリカ ナン フィリピーナス 太陽の国(1)
もう、何十年以上も昔の話。
それは私がまだ、7才になってすぐの頃。母の生地であるフィリピンへ、兄と、弟と、私と、そして母の4人で過ごした、1か月と少しの物語。
熱い芝生と、焼け付く太陽と、マニラアサの木の香りの下で、悠久のように流れる時を過ごした記憶。
その頃の私は、自分がハーフであるという事を聞かされてはいたものの、その理解が追い付いていなかった。
周りの人たちは私を日本人として見てくれるし、むしろ、日本語が不自由な母が異質な存在のようでもあった。
私の生まれた地域では色々な行事が盛んにおこなわれていた。
夏祭り、灯篭流し、ハロウィン、そしてクリスマス。それらがしっかり、子どもたちのために行われていた。
母は、ハロウィンとクリスマスはもちろん理解していたものの、日本の、それも地域の祭りに参加した経験は兄が生まれてからのもので、毎年のように不慣れな様子で、それでも頑張って参加していたのだと思う。
思うに、こういった行事に取り組む際には、子どもの頃に経験したものが直接出てくるものなのだろう。
子どもの頃にキリストの行事にしか触れていない母は、それはそれは、日本の行事に参加するのに苦心したものだと思う。
だから私たち兄弟が、母に日本の行事を教えてあげたものだった。
この夏祭りは何の感謝祭なのか。灯篭流しとはなぜ行うのか。私は母に教えてあげるために、幼稚園の先生の話すそれを身を乗り出すように聞いていたと思う。
母の喜ぶ顔が見たくて、知らないを知ってほしくて。
さて、ということで、私は生まれてずっと日本人として生きてきて、そしてハーフの母がいた。
だから、自分もそれだと言うのが、ピンと来ていなかった。
そしてその日がやって来た。
どうやら私たちは、遠く離れた国へ旅行に行くらしいと兄が言った。
当日母は、実家へのお土産をパンパンにかばんに詰めて。私は当時最新のゲーム機だったゲームボーイカラーを持っていった。
「それ、みなよろこぶよ。みな日本のゲーム好きだから」
母の言う通り、フィリピンの人は大人も子どもも日本のゲームが好きで、私はよく貸して貸してとせがまれたものだった。さて、その意味のタガラゴ(タガログ語と日本では表記するそうだが、母の言葉を何十年も聞いてきた私にはこうとしか聞こえない)はなんといったか、残念ながら覚えていない。
まあ、これこそボディーランゲージで伝わることなので、そんなに言葉を意識していなかったのかもしれない。
初めて見た異国の景色は、まるでクリント・イーストウッドのドル箱三部作に出てくるような、どこか荒れた世界に緑を足したものだった。
発展途上の光景と言えば想像に差し支えないだろう。
飛行機をどこで降りたか覚えていないが、タクシーを借りて、そこからマニラの街(さすがに首都は高層ビルの立ち並び道路の舗装された都会だった。少なくとも私の生まれた都道府県の県庁所在地よりは都会だ)を通って郊外に少し入ると、もうその西部劇が広がっていた。
街とその区画の間に検問があり、白黒にカラーリングされた遮断器が降りていた。
警察なのか、警備員なのか知らないが、銃を携帯した大柄な男が身分の証明を求めてきたのだろう。
母は何かを男に見せて、そして遮断器はおもむろに立ち上がった。
そうしてついた母の実家は、なんというか、団地というのだろうか、白レンガの、平屋の続く家々の中にあった。
ぼろ臭そうな感じはなく、むしろ、プレハブの安っぽい感じを受けた。
その周辺には8世帯くらいがいて、それぞれが同じような一軒家を持っていた。
道路を挟んで家と家の間に帆のようなものはって、その下の日陰で寝転んだりできた。
私も含め、子どもたちは雨の日にはその下で水浴びをした。
時にその雨で体を洗う事もあった。
もちろんそんな時は男子と女子と時間をずらし、別れて浴びるのだが、私のようなマセタくそガキは大人の制止も聞かず、外で裸になっている女子を覗きにいったものだ。
兄は興味なさげに、フィリピンで買ったテトリスのできる謎のゲーム機で遊んでいたと思う。
3才になったばかりの弟は言わずもがな。
今思うと、女の子に興味津々なのはどうやら兄弟の中で私だけだったようだ。
そんな団地の向かいには、大人も寝転がる柵のない公園があり、そこにはマニラアサが天高くそびえ立っていた。
私はずっとマニラアサをバナナだとして疑わなかった。
大の大人の倍以上の高さに垂れている房をバナナだと疑わなかった。
なんとそれがバナナでないと知ったのは、こうして自叙伝を書くことになってからである。恥ずかしや。
知らない人は調べてほしい。あれは、バナナだよ。
とにかく、芝生の生えたその公園で、大人たちから差し出される南国のフルーツを味わいながら、ゆったりと時を過ごすのがフィリピンのルーチンだった。
今となれば、とてつもない贅沢をしていたなと、思う。
驚いたこととしては、フィリピンでは日本のアニメを字幕付きで放送していたこと。
私がいた時は、Gガンダムなどを放映していた。
日本のアニメは老若男女に大人気で、私も大人たちと一緒に必殺を叫んだものだ。
そう、シャイニングフィンガーは私の中でフィリピンと深く結びついている。
母の実家はもう一つあり、そちらはマニラの街中にある大きな邸宅だった。
当時の私が10人縦に並びそうな深いプールを備えた大きな家。
そちらには数度お邪魔しただけで、あまり、記憶に残っていないが、なぜ母がプレハブのような家に帰るのか聞いた、その答えは耳に良く残っている。
「お姉ちゃんいるでしょ?アー、マミーのね」
私にとっておばさんにあたるその人は、プレハブの中、部屋に閉じこもって、なかなか私たちの前に姿を現すことはなかった。
母の兄と、母の母がいて、その人もいると聞いていたけれど。
たまに奇声を上げるその人は、恐怖の対象だった。
「お姉ちゃんね、レイプされて、ダメになったのよ」
当時の私はそれを理解できたのか。
分からないが、何だがよくない事が起きたという事は、母の表情から察せられて。
「だからね。いてあげないと。キレイな人で、アー、そう、いい人、ホントは」
うん、と私は頷いただろうか。
兄は頷いていた。覚えている。だから私は、頷くことが、救いになる気がしていたのだと思う。
「やーホントいい子たちよ。マミーの大事ね」
この時の母は太陽に輝いて、きっと誰よりも美しい人だった。
次は、母の親戚のいるバターン半島へ遊びに行った時の記憶です。
白い砂浜と青いビーチとブタ。そしてフィリピンの田舎でのより深い自然の神秘体験を語ります。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます