第136話
延々と広がる鏡写しの水面には、蒼穹が広がっていた。
俺の立てる小さな波紋が広がっては、そしてなにもなかったかのように消えていく。
ただ、それだけだ。
風の音も、水の音も、なにもかも、消え去ってしまった。
そこにあるのは、不安を掻き立てる孤独と静謐だけだった。
「ここは……。」
ふと、なにかを感じて、背中に視線を向ける。
そこには、巨大な塔が二つそびえ立っていた。
塔の上部は空を突き抜けて、目では確認できないほどの高さに至っている。
一方の塔は、武骨だがしっかりと組まれた、石材で出来た塔。
そしてもう一方は、素材や構造さえまったくわからない、真黒な塔。
そのふたつは自分こそがこの世界の主であると主張しているかのように、隣り合っている。
その塔を見ていると、焦燥感が駆り立てられた。
なにも覚えてない。
なぜここにいるのかも。
しかし、ここに居るべきではないことは、確かだった。
記憶ではなく、本能がそう告げている。
「ここに長くいるべきじゃないな」
なぜか視線が引き寄せられるふたつの塔から、強引に目を離す。
そして無限に広がる蒼穹へと意識を向ける。
「出よう、外へ」
手に力を込めて、足元の水面へと指先で触れる。
その瞬間。
世界は気泡となって消えさり、俺の意識は再び微睡みへと落ちていった。
◆
どれほどの間、そうしていたのかは分からない。
ほんの数秒だったのか、それとも日が変わるほどの時間か。
意識が覚醒した瞬間、自分が呆然と目の前を眺めている事に気が付く。
なにか幻術を受けて、意識を無くしていたのか。
慌てて周囲を見渡すが、記憶の中にある光景と殆ど差異はない。
あるとすれば、致命傷を受けたロロファスの姿だけだった。
ロロファスは片腕を突き出した状態で、地面にひとりで倒れていた。
その傍に、ディノンの複製の姿はなかった。
恐らくだが、ディノンの複製が逃げる為の時間を稼ぐために、ロロファスは魔法を放ったのだろう。
たとえ自分が致命傷を負わされても、ひとりで孤独に死ぬことになろうとも、最後の瞬間まで彼を思っていたのだ。
「なぜその感情を、もっと別の形で使えなかったんだろうな」
生まれながらに心根に抱き続けてきた劣等感。
そして比較対象と比べた時の、自分への失望。
どうしようもないことだと分かっていながら、諦めきれない自分の醜さ。
それらは、痛いほどに、よくわかる。
だからこそ、全てを手に入れたと語ったロロファスが孤独に息絶えたことに、同情せざる負えなかった。
思わずその遺体から視線を逸らすと、閉じられていた扉から白い影が飛び出してきた。
「ファルクス!」
俺の名前を呼んだのは、傷だらけのビャクヤだった。
ディノンとの戦いに集中できるよう、別室へ飛ばしたはずだったが、ロロファスが合流したことで横やりが入ったのだろう。
慌てた様子のビャクヤだったが、その体に大きな傷がないことを確認して胸をなでおろす。
特に幻術でビャクヤの死ぬ様を見せられた後ということもあり、目頭が熱くなるのを感じた。
「無事だったか、ビャクヤ。よかった」
「いや、面目ない。ロロファスの幻術に騙されて、そこの部屋に閉じ込められてしまったのだ。出てくるまでに時間がかかってしまったが……。」
ビャクヤの声が尻すぼみになる。
ひとりで横たわるロロファスの姿を見つけたのだろう。
そしてその周りにディノンの複製の姿はない。
視界の端でビャクヤの様子をうかがえば、小さく肩を落としていた。
「ロロファスはこっちで対処した。ディノンは、姿を消したみたいだが」
「済まぬ。我輩のせいだな。任せておけと言ったというのに」
「失敗は誰にでもあるさ。俺も人に言えないような失敗を何度もしてる。肝要なのは、そこから何を学ぶかだろ」
実をいえば、ビャクヤが複製とはいえディノンを殺める事には少しだけ忌避感があった。
ふたりとも俺を成長させてくれた恩人であり、同じなのは姿だけだとは言え、その二人が殺し合いをするという状況はどうしても受け入れがたい。
そして今にして思えば、俺の手で終わらせることがディノンのためでもあるのではないかと、そんなことを考えていた。
ただ同情心からの言葉だと受け取ったのか、ビャクヤはますます肩を落としていた。
相応しい言葉をかければいいのだろうが、その言葉が見つけられずにいた。
なんと声をかけようかと困っていると、壁に寄り掛かっていたアリアが、等々に目を覚ます。
「……最悪な夢を見てたわ。あのイカれ女、最後の最後にこんな置き土産していくなんて、ほんと最悪」
「め、目が覚めたか、アリア。悪いんだが、すぐにでもここに収容されてる魔物の対処を――」
俺からの提案がなされるその前。
強烈な魔力の流れで、思わず口をつぐんでしまった。
魔法を使う身であるなら、多少なりとも魔力を感じることは出来る。
自分の中に流れている魔力の他にも、自然に存在する魔力も同様だ。
魔法を操るアリアも同じ感覚を感じたのだろう。
困惑した様子で周囲を見渡している。
それも無理はない。
今感じているのは、強力な魔物を目の前にした時に感じる物と同等の威圧感だった。
これほどまでの魔力が一度に消費される事象は、この場所ではひとつしかない。
「な、なにが起こってるの!?」
「転移が始まったんだ! すぐにでも止めないと、アルレリアが地図から消えるぞ!」
「だがどうするのだ!? この施設について我輩達はなにも知らぬのだぞ!?」
この施設の規模は把握しきれていない。
しかし少し歩いただけでも、尋常ではない規模であることだけは理解している。
そこに収容されていた魔物達が一斉にアルレリアへと送られてしまえばどうなるか。
想像することすら躊躇われるその事態を食い止めるには、そもそもこの転移を止めなければならない。
だがその方法を俺達は持ち合わせていない。
俺の転移魔法で部屋の外に出すことも考えたが、これほどの数を前にしては焼け石に水だ。
根本的に、この施設を制御する方法を見つけ出さなくてはならない。
しかし今から探して、転移が終わる前に見つかるかどうか。
そもそもそんな物がこの施設の中にあるのかさえ怪しい。
次々と消えていく魔物の姿を前に歯噛みしていると、反響する足音が耳に届いた。
視線を向ければ、出口を探しに向かった冒険者達が戻ってきていた。
「おーい! お前達! いったい何が起こってんだ!?」
「ここにいる魔物が、アルレリア近郊に転移してる。急いで止めるか、アルレリアに戻らないと、街が消えることになる」
手短に話したところで、全てが伝わるとは思っていなかった。
だが冒険者達は次々に消えていく魔物を見て、事態の深刻さを察したのだろう。
ひとりの冒険者が、恐る恐ると言った様子で部屋を指さす。
「ならこの部屋に入ればいいんじゃねえのか? 一緒に転移してもらえるんだろ?」
「街を簡単に滅ぼせるだけの数が集まってる魔物の、その真っただ中に転移していいならその方法もなくはない」
「それは……ちょっとばかし具合が悪いな」
いくら高位の冒険者であろうとも、不意を突かれて戦えば格下であっても苦戦を強いられる。
それが取り囲まれた状態で戦うとなれば、格下であっても十分に命の危機になり得る。
ここにいる魔物に囲まれたことを考えれば、とてもではないが魔物達と転移するという作戦は使えない。
となると、残された方法は二つ。
「急いで出口を見つけてくれ。俺達はこの転移を止める方法を探す」
出口から外へ出て、アルレリアを襲っている魔物を討伐しに向かう。
あるいは、転移そのものを止めてアルレリアの被害を抑える。
少なくとも街には、竜討祭の再開を待つ冒険者達が待機しているはずだ。
転移する魔物の数が少ないなら、冒険者達が街への被害を抑えてくれる。
だからこそ、すぐにでも転移を止める方法を見つけ出さなくては。
そう考えていた俺の頭に、聞きなれない声が唐突に響いた。
『なら、僕の所に来てもらおうか』
◆
気付けば、というのが適切だろう。
目の前の冒険者と話していたはずが、次の瞬間には別の部屋に立ち尽くしていた。
即座に腰の剣に手をかけ、周囲に視線を走らせる。
ロロファスのいた部屋に似ているが、あの部屋より様々な器具が所狭しと並べられている。
驚くほど透明なガラスの器具に、磨かれた金属の器具。
そしてそれらの中央には、椅子に縛り付けられた子供の姿があった。
「誰だ!?」
「おっと、そんな物騒な物は仕舞ってほしいな。僕はなにも君に危害を加えたいわけじゃないんだ。その逆だよ。手助けをしたいんだ」
縛り付けられたその子供は、剣先を向けられても無邪気ともいえる笑みを崩すことはなかった。
だがそれが俺への信頼や無邪気さから来ている訳ではないことは、十分に理解している。
俺は転移魔法でこの場所に連れてこられたのだろう。
そして転移魔導士である俺が転移したことに気付けない程、高度な魔法だった。
つまり目の前の人物が、この施設への収容や、そして魔物の転移を行っている可能性が高い。
表情が一切崩れないのは、俺を簡単に無力化できるという意思の現れに違いなかった。
重要なのは、この子供が自ら俺を無力化する意思があるのかどうか、だ。
「ロロファスの仲間、なのか?」
「いいや、厳密にはあの幻術師に、転移魔法を使う体のいい道具として利用されていた立場だね。僕とした事が、なんの拍子か幻術で都合の良いように操られていたみたいなんだ。まったく、創造者の名が廃るよ、これじゃあ」
創造者。
気になる単語ではあるが、今はそれについて深く聞いている時間はない。
端的に、事の解決につながりそうな言葉だけを拾い上げていく。
「利用されていた、ってことはこの施設について色々と知っているんだな。俺達の手助けをしたいっていうのなら、魔物の転移を止めてくれ。一刻を争う事態なんだ」
「確かに施設については熟知しているけれど、転移を止めるのは不可能だよ。転移魔法は一度起動したら最後、強制的に対象を転移させてしまうんだ」
それは転移魔法の大原則だった。
どれだけ強力な術師であろうとも、魔法の原則には逆らえないということか。
「なら転移した先の魔物をもう一度、この施設に収容しろ。それなら可能なはずだ」
「魔力が無限にあるならできるだろうけど、残念ながら僕の魔力は有限なんだ。そしてこの転移魔法で殆ど底を突きかけてる」
「なら何ができるっていうんだ! まさか俺を孤立させて時間稼ぎをしたいわけじゃないんだろ!?」
そんな黒い思案が頭をよぎる。
ロロファスがまだ生きており、冒険者達を施設の外へと出させないために俺をこの場所に呼び出したのではないか。
だがそんな俺の考えをあっさり否定するように、子供はとある提案を明示した。
「今の僕にできるのは、この施設にいる冒険者を街まで送り届けることぐらいかな。ただ一つだけ覚えておいてほしいんだ。自体が収まったら、僕に会いに来てほしい。もちろん無理強いはしないけれど」
この施設がどこにあるかは、未だに判明していない。
つまり俺達にはこの施設から出ることも、アルレリアへ向かう術も手元にはないのだ。
子供の提案は、俺達が今もっとも必要としているものだ。
そしてここで要求を蹴れば、転移を断られてしまうかもしれない。
アルレリアを魔物の被害から守るのであれば、この子供の要求を聞くのが最も賢い選択には間違いなかった。
「約束する。だから頼む、俺達を街へと転移させてくれ」
「よーし、じゃあ君達を街の近くに飛ばすから、準備してね。あぁそれと後からのことも考えて名前は名乗っておいたほうが良いか」
子供は縛り付けられた椅子から、俺を見上げる。
そして思い出したかのように、子供は名乗った。
「僕の名前はフォロボス。フォロボス・アーセナルだよ。覚えておいてね、ツクヨミのお気に入り君」
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