六章 黒き聖女と鋼の聖女
第89話
パチリと小さな破裂音が、深い場所にあった意識を現実へと引き上げる。
反射的に目を開き周囲を見渡すと、人形のメリアが焚き木の中に小枝を投げ込んでいるところだった。
新しい薪が投げ込まれ、小さくなった炎が息を吹き返す。
やけにその炎が明るく感じたが、ふと空を見ればもうじき夜になろうかという時刻だ。
周囲は深い森と山々に囲まれ、平地より早く夜の闇が訪れるとは言えど、頭の中にある最後の記憶では太陽は真上にあったはずだ。
つまり昼間から俺のせいでこの場所から移動できていないことになる。
「悪い。 眠ってたみたいだ」
どうやらエルグランドでの出来事は想像以上に疲労として残っていたようだった。
近くで人形の手入れをしていたアリアに頭を下げるが、彼女は気にした様子もなく肩をすくめた。
「別に謝ることないわ。 ドーラも傷を癒していたし、貴方が眠っていなくてもここで足止めを食らってたわ」
そう言われて、周囲をもう一度見渡す。
しかし見当たるのはアリアだけだ。
「ドーラとビャクヤは?」
「治療が終わってすぐに、狩りに出たわ。 もうそろそろ帰ってくると思うけれど」
「狩り?」
思わずオウム返しに聞き返す。
「知らない? 動物を取ってくることよ」
「それは知ってる。 だが、ふたりで森に入ったのか?」
「仕方ないでしょ。 物資をあの街において来たんだから。 それとも餓死するのがお好みかしら」
確かに、飲まず食わずで進める距離なんて高々知れている。
だが状況が状況だ。森の中とは言え、追っ手や魔物に見つかる危険がないとは言えない。
特にドーラは自衛手段を持っていない。
ビャクヤと共に行動しているなら大丈夫だろうが、別行動をしている最中に魔物に見つかれば命はない。
心を冷たい手がなでるが、それを振り払うような高らかな声が森に響き渡った。
「帰ったぞ! ふたりとも、大漁だ!」
「なかなかやるわね、ビャクヤ。 久しぶりに血が滾ったわ」
見れば森の中からふたりが歩いて出てくるところだった。
野兎や鹿を担いで出てくる姿は、疲労で眠っていた俺の数倍は男らしい。
しかし気がかりなのは先ほどまで治療していたというドーラの状況だ。
「ドーラ、傷は大丈夫なのか?」
「えぇ、おかげさまで。 元々傷の治りが早い方なの。ほら」
そういって、ドーラは真っ白い下腹部を晒した。
確かにそこには真新しい切り傷があったが、すでに傷口は塞がっている。
狩りをしても開いていないのなら、歩いての移動も問題ないだろう。
それでも、ひとつだけ問題があった。
ドーラは俺に腹部の傷を見せようとしたのだろう。
しかし衣服をめくりあげたため、見えてはいけない部分が見えそうになっていたのだ。
それを男の俺が指摘していいのだろうか。
と言うか、こうして視線を向けていること自体、まずいのではないか。
そんな唐突な出来事に反応できなかった俺の代わりに、人形のメリアが衣服を抑えつけた。
「ちょ、ちょっと! 少しは恥じらいを持ちなさいよ!」
「あら、ごめんなさい。 でも鱗のある私のなんて見ても、うれしくないでしょ?」
「それは、回答を控えさせてもらう」
我ながら波風を立てない完璧な回答である。
ただこれで俺を含めて全員がそろったことになる。
獲物を解体しようとしているビャクヤを制止して、近くへと呼ぶ。
「ビャクヤも、少しいいか? 三人に話しておきたいことがある。 今後の方針についてだ」
◆
俺の話を、三人は焚き木を囲んで静かに耳を傾けていた。
内容は聖女と交わした会話だが、ドーラにも包み隠さず聞かせていた。
彼女ももはや無関係ではない。
特に今後に関して言えば、彼女の事を第一に考えて行動することになるのだから。
それを自身も気付いていたのか。
話を聞き終わると、ドーラはおずおずと尋ねてきた。
「その隠れ里に向かうってことで、いいのよね」
「ドーラの安全を考えるなら、それが一番だ。 ミリクシリアの話を信じるなら、隠れ里には異種族の住人もいるらしいからな」
「あら、そんなに私を気遣ってくれるの? 彼女は俺が貰っていくぞ、だものね」
ドーラは蠱惑的な笑みを浮かべて覗き込んでくる。
「あ、あれは勢いというか、流れでいっただけだ。 深い意味はない」
思い出すだけでも頭を抱えたくなる。
自分でもテンションが少しおかしいことになっていたのは、自覚がある。
だが行動を後悔しているわけではない。
実際に彼女を救えたことは、俺達にとって唯一の成果と言っていい。
ただ、失った物があまりに大きすぎた。
今後、俺達はあのエルグランドに入るどころか、近づくことさえできないだろう。
下手をすれば他の街にまで指名手配を行われている可能性もある。
見方によっては無実の市民を殴り飛ばし、街の守り手である聖女と一戦交えたのだ。
無理もないのかもしれないが、非常に大きな痛手だ。
今後の活動も大きく制限される覚悟をしなければならない。
だが当分は心配はしなくていい。
なんせここはエルグランドから東へ向かった山奥。
エルグランドからの追手以外、人の目など心配する必要がない場所だ。
それゆえに、別の問題も発生しているのだが。
「気は進まぬが、その隠れ里とやらへ向かうほか、選択肢は残されていないのだろう?」
「ここから引き返して、エルグランドからの追手を振り切り、カセンまで逃げ延びる。 馬車を置いてきた以上、距離的にも物資的にも、現実的な方法とは言えないな。 少なくとも進む方が希望はある」
「ならば危険な賭けだが、進む他あるまい。 ファルクスの戦を止めるという方針も、我輩は嫌いではない」
ビャクヤは俺の提案に納得した様子でうなずき返した。
だが向かい側に座るアリアから疑問の声が飛んでくる。
「そもそもあの……クラウレスの目的って、病気を広める事じゃなかったの?」
「クラウレスの目的は魔族と人間の全面戦争だろう。 そして人間の街で病を蔓延させ世論を扇動したことを考えると、魔族側にその企てをした者がいると考えられる」
「全面戦争を望む人間側の作戦ってことはないの?」
不安げなドーラがそんな意見を挟む。
だが俺はすぐさま首を横に振った。
「俺も最初はそう考えた。 だが最後の暴動の規模を見るに、あの病はエルグランド全域を蝕んでいた。 ああなってしまえば都市としての機能の大部分を失う。 人間側が仕掛けたのだとすれば、被害が大きすぎる」
クラウレスは魔素に侵された人々……感染者を操る術を持っている。
そして意図的に感染者を作り出すタイミングを操作できるのは確実だろう。
であればもっと計画的に感染者を作り出し、世論を誘導することもできたはずだ。
余りに今回の暴動は規模が大きく、そして住人の被害が大きすぎた。
戦争をこれからしようと言うときに、都市としての基盤である住人が減ってしまえば元も子もない。
「一応、筋は通ってるわね。 なら魔族側のその……原因を作った相手を見つければ解決ね」
「敵側の状況を未だ知らぬ我輩達に、見つけられるのか?」
「容易じゃないだろうな。 人間の街でも手間取ったんだ」
「じゃあどうするのよ」
「先手必勝。 魔族の前線基地を攻撃する」
「ふむ、まったく意味が分からん」
ビャクヤの意見に賛同するように、アリアとドーラが怪訝な顔で首をかしげる。
話が飛躍し過ぎたか。頭の中にある計画を組み立てなおして、そしてビャクヤへ問いかける。
「根本的に考えてみろ。 病を発生させて異種族への嫌悪感を煽り戦争へ発展させる。 これが魔族のやり口だとしたら、回りくどすぎる。 ビャクヤ、お前ならどうする?」
「我輩は好まぬが、なにも戦で決着を付けなくともいいのであろう? ならば病は炎と同じ。 籠城している相手には最も効果的だ」
「その通り。 別に戦争じゃなく、病を蔓延させてエルグランドを落とせばいい。 ならなぜ魔族は全面戦争にこだわるのか」
俺からの問いに対して、三人からの答えは沈黙だった。
少なくともアリアとビャクヤは人間の中に使徒がいると考えていたに違いない。
だが考えてみれば使徒が人間である確証などどこにもない。
魔族側の中に使徒がいる可能性も、十分に考えられる。
魔族の計画によって世論を誘導され、全面戦争へと突き進むエルグランド。
しかし、純粋にエルグランドを落とすなら戦争へ持ち込む必要はない。
十分に魔素が街中に回っている以上、暴動を乱発させれば戦争をするどころではなくなるからだ。
「ここからは俺の邪推で、まったくの妄想だ。 だが言っておく」
ならば戦争を望む魔族の狙いはなんなのか。
そこで俺はある仮説を三人に披露する。
「俺が思うに戦争での勝敗は関係なく戦争そのものに意味がある」
「それは、どういうことだ?」
「恐らくだが、戦争が始まったと同時に戦場に病を広める気だろう。 少なくとも俺が首謀者ならば、そうする」
鋼の聖女とエルグランドの正規軍。そして魔族の軍隊。
それらをまとめて魔素で侵し、傀儡とする。
黄昏の使徒の目的は、魔素による被害を拡大させることだ。
であれば二つの勢力がぶつかり合う戦場こそ、最もその目的に相応しい場所となる。
敵味方入り乱れる中で魔素をばら撒けば、二つの軍隊を従えるのと同意義だ。
そして使徒の傀儡と化した使徒の軍勢は、大陸に散らばり更なる破壊を呼ぶ。
だからこそ、止めなければならない。
「エルグランドの進撃よりも先に俺達で前線基地を攻撃して、魔族を撤退させる。 たとえその場しのぎであっても、絶対にエルグランドと魔族の戦争を始めさせるわけにはいかない」
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