第4話魔術師、教会と異端審問官
教会の中は、外観からある程度は予想した通り、閑散としていた。
並べられた長椅子にも埃が積もり、空気がカビ臭い。恐らく、あまり頻繁に利用されている訳ではないのだろう。
出迎えたのは、黒髪の青年。
短く切り揃えた黒髪の下には身に纏う漆黒の
彼は先に立って教会に入ると、僅かに咳き込んだ。
青年も滞在者なのだろう。惨状に眉を寄せ、ため息を吐く。それから、気を取り直したかのように祭壇の前にまで進むと、くるりと振り返った。
シンジは未だに、入り口近くで立ち尽くしていた――教会、神の家に踏み込む決心は中々付かない。
「改めまして、来ていただいてありがとうございますカルヴァトス教授。私はネロ・エリクィンと申します」
ゆったりと頭を下げながら、「このアードライト国にて、インクィシゾーネを仰せつかっています」
「
軽々とされた自己紹介は、充分に驚嘆に値するものだった。少なくとも、魔学教授です、と自己紹介するよりは。
異端審問官、あらゆる魔術師が恐れと共にその名を語る、忌むべき者。
秩序を与える神の名において、神に依らない神秘の一切を否定する狂信者。そのストラに描かれる通り、善意と博愛をもって秩序を押し付ける。
神秘狩りの神命とやらでどれだけの無用な血が流れたか、忘れる者は多くないだろう。
シンジはそっと、胸元の万年筆の手触りを確かめた。
「驚きましたね、エリクィン神父。まさかこんなにも堂々と、魔術師を呼ぶとは」
「誤解です、カルヴァトス教授。私たちは最早、そこまで苛烈ではありません」
「それは、相手が決めることですね」
シンジは、そっと眼鏡を押し上げた。「殴られた相手が、貴方に笑うかどうかでしょう」
「それはそうですが。しかし敢えて、貴方に信用を依頼するのならば、教授。私に今与えられているのは犯罪の捜査権ですよ」
「犯罪?」
「ジョルジュは、どこまで話しましたか?」
「何も。たった今、彼がジョルジュだと確信を持ったくらいですよ。……そうか、なるほど。彼は噂の、カストラータですね?」
それは、人造の天使であるという。
男でありながら年を取らず、美しいソプラノを永遠に保つとか。
エリクィン神父はにこりと微笑んだ。
「流石は教授。頭の回転が速い」
「おかしいとは、思ったんだ。講演のあとには握手会も、市長との対談の予定もあった。それらを全て無視できたのは、貴方の役職のお陰ですね?」
「それも勿論ある、しかし、それだけではありません、教授。このような特例が認められたのも、全ては事態の緊急性を考えてのことです」
「まるで、世界の危機のように言いますね、神父さん」
シンジは皮肉たっぷりに肩をすくめた。「魔学者がお役に立てるかどうか」
「立つ筈です。何しろこれは、貴方の専門分野だ」
エリクィン神父の笑みに、おどけるような色が混じった。「既に、貴方はお気付きの筈ですね?」
何もかもお見通しというわけか。
シンジはため息を吐き、そして移動中の地獄で延々先延ばしにされていた、最も重要な質問を口にした。
「……あれを、どこで?」
「あれはなんですか、教授?」
「質問に質問を返すなと、誰かに教わりませんでしたか、神父?」
「別な質問でも構いませんよ教授。例えば、そう、貴方は神を信じますか?」
茶化すように尋ねるような内容なのだろうか、それは。
信仰者が聞けば、良い気持ちはしないのではないか。それとも、あまりにも当たり前で、聞くまでもない真理であり、彼らにしか通じないある種のジョークなのだろうか。
シンジは、もう一度ため息を吐いた。
神父の態度は正しい。彼はシンジに、魔学者としての見地から意見を求めるために、ここまで呼んだのだ。シンジの知的好奇心を満たすためではない。
協力は、この一言だけで終わるわけではあるまい。相手に
精々勿体振って、シンジは手札を一枚切った。
「……あれは、吸血種の牙です」
「吸血鬼、やはり……」
シンジに長椅子に座ることを促して、エリクィン神父はその黒瞳に冷ややかな鋭さを覗かせた。「神に反する者、小さな
「貴方の言っている悪鬼とは、関係がないかもしれないが」
シンジは椅子の上に積もった埃を眺めて、立ったままでいることを選んだ。「この牙から判るのは、牙の持ち主が吸血種であるということです。それは、伝承で謳われるような人智を超えた邪悪では無いかもしれない」
「どういうことです、教授? 吸血種と言えば、その、【血染めの貴婦人】や【赤杭】といった連中では?」
昨今流行っているらしい、怪奇娯楽小説に登場する怪物の名前を、神父は困惑気味に挙げた。
その、年齢相応の無知な憧れに、シンジは笑みをこぼした。
「神父様でも、娯楽小説を読まれるのですね。存外通俗的なところがあるようだ」
「神の言葉を解するには、広い知識が必要です」
何処と無く照れ臭そうに、神父は頬を掻いた。「深淵を知ることも、神の光の眩しさを知るためには欠かせませんからね」
「……二十人力の怪力に、超人的な速度。狼、蝙蝠、霧に姿を変え、瞬く間に傷を癒す再生能力を持つ。流れる水の上を渡れず、十字架を恐れ、ニンニクに顔をしかめ、太陽の日差しを浴びると灰にまで燃え尽きる」
かの有名な一説を、シンジは
「しないのですか?」
「貴方には残念なお知らせでしょうけれどね。吸血種だからといって、そこまで特異な特徴を持つ生物は存在し得ない」
もし、居るとするのなら。
それは恐らく――吸血種を装った何か別の生物だ。
エリクィン神父は、諦めきれない様子で食い下がった。
「しかし、神話時代。貴方の研究する時代においては、別なのでは? 神の奇跡が具体的に息づいていた時代、ならば、その逆の悪徳にも具体的な力があったのでは?」
「そうかもしれません」
シンジは認める。「しかし、かの時代といえども何でもありの坩堝ではない。そこに存在していた生命には、確かな秩序性があった筈です。そこに、夜の支配者の実在を補強する論拠は、今のところ見付かっていませんから」
魔術とは、万能の奇跡では無い。
理論があり根拠が有り、論理的に物事を解析する科学の一つだ。そんな、物語に語られるような性能の持ち主が、単純に血を飲むだけで活動できる訳がない。
「もしも吸血鬼の能力を魔術的に再現しようとすれば、魔術師数人分の魔力が常時必要になります。血だけで賄いきれはしません」
「……やはり、貴方を呼んで良かった、教授。貴方はあらゆる知性の目標とするべき個性を自然に備えておられる」
「はぁ……、まぁ、勉強は、しているつもりですが」
「そうではない、その、魂の在り方の話です、教授。……貴方の美徳は、教授。その寛容さですよ。他人を受け入れようとする度量です。学者と名の付く者は、多くがその美徳を備えていないものです」
「神学者もですか?」
「残念ながら」
シンジの皮肉を受け流して、エリクィン神父は穏やかに微笑んだ。
彼にも、他人からの批判を受け入れるだけの度量はあるように見える。だとするなら、今の話は自画自賛か、それとも、学者でない彼にとっては美徳ではないのか。
埃を気にする様子もなく、エリクィンは長椅子に腰を下ろした。
寛容さを誉められた手前、シンジも渋々彼の後ろの席に座った。茶色いスーツのズボンは、シンジにしてはそれなりの品だ。洗濯屋に特別料金を支払う覚悟をして、深々と座る。
エリクィンは器用に身体を捻り、シンジに向かい合った。
「吸血種というものには、勿論現在判明している限りで構いませんが、人の形をしたものはいるのですか?」
「多くはありませんが、例えば
「敢えてヒト型をとるのも、案外、理に敵っているのですね。小説家の想像力も、中々示唆に富んでいる」
想像力を与えられたからヒトは堕落した、というのが、一般的な神話の原罪であったとおもうのだが、シンジは敢えて沈黙する。
彼は勤勉だが、生真面目な信徒ではないようだ。しかしながら、竜のそれとは違い、ヒトの逆鱗はどこに埋まっているか解らないものだ。
代わりに、示唆に富んだ会話をシンジは続けることにした。
「彼らは、恐らくはその特殊な食料事情ゆえ、【聖伐】が起こらなくてもいつの日か絶滅したでしょう。或いは、もっと何か、普遍的な名前で呼ばれるようになったのかもしれません。吸血依存症、日光恐怖症、そんな病気を患っただけの、単なるヒトとして扱われるような未来があったのかも」
「それは、悲劇ですね」
エリクィンは、哀しげに肩を落とした。「私は科学の発展を否定するつもりはありませんが、しかし、名付けという行為には悲劇的な側面がありますね」
例えば、異境の神を天使と名付けるような。
例えば、民間に伝わる祭日を神の祝福された日に置き換えるような。
或いは、例えば、魔女狩りのような。
名付けは、共有化の第一歩だ。
本当はもっと、世界は個人的な、独特な感性に満たされているものなのかもしれない。それを、怒りとか悲しみとか陳腐な言葉で表すことで、世界は色彩を失ったのではないか。
「だが、結局はそうならなかった。大いなる神の御手は、吸血種を滅ぼした」
「他の神話生物と同様に」
「だとしたら、神父さん。私は今改めて、貴方に尋ねなくてはならない。……これを、吸血種の牙をどこで手に入れたのですか?」
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