第3話馬車の行方
「到着しました、教授」
やっとか、という言葉を呑み込んだ自身の忍耐に対してシンジは、心の底から賞賛を浴びせることが出来た。
ここまでの馬車の旅は三〇分間の地獄だった――今時魔導機関ではない本物の馬に牽かれた迎えの馬車は、確かに相当の年代物だったがしかし、性能の面でそう評価したわけではない。
座席にはクッションが敷かれていたし、車輪のサスペンションも問題なし。そもそも聖都の道路は、三代前の聖王が本腰を入れた整備工事によってその八割が舗装されているから、振動は非常に穏やかだ。座席にカップが置いてあったとしても、中身の珈琲はこぼれないだろう――残念ながらその用意は無かったが。
珈琲が無かった、それは些細ではあるが間違いなく地獄の入り口ではあった。
そして本格的な地獄は――先ほどの言葉が青年の三〇分ぶりの発言だったということだ。
シンジ・カルヴァトスはそもそもそれほど饒舌な方ではない――少なくとも世間話が兎のように跳ね回る事態は、全くと言って良いほど経験が無い。
だが万物にとってそうであるように、例外的に饒舌になることがシンジにもある。生徒からの質問、講義の時間、要するに思考するべき謎が目の前に有るときだ。
黙考も不得手ではないが、口に出したり文章として出力する方が考えがまとまりやすい。特に他人との議論や解説形式での思考は、シンジに新たな着想を数多く与えてくれるものだ。
いや、そもそも。
見知らぬ
例えば、
「何処へ向かっているのかな、あまり遠くないと嬉しいんだが」
とか。
例えば、
「先ほどの化石、一体どこから手に入れたんだ?」
とか。
例えば、
「呼び出したのは誰なんだい? それなりの地位にあるとは想像できるが」
とか。
シンジでなくても抱くであろう当然の疑問の数々。
半ば強制的に連れて来たのだから最低限、答えてほしいという程度の質問だったと自負していた。
それなのに。
向かいの席に座った青年は、赤みがかった瞳にシンジを映しながら一言だけ応えそれっきり、目を閉じてしまった。
「着けば解ります、教授」
謎を提示された魔術師に対しては正に、地獄の責め苦にも等しい行為――沈黙。
石像と化した青年を暫く見てから、シンジは結局諦めて、三〇分間悶々と過ごすしかなかったのである。解放の感動はひとしおであった。
「……ここが目的地か」
軽く伸びをしながら見回して、シンジは首を傾げる。「それで、答えはどこで貰えるんだ?」
つい皮肉を言ってしまったが、何しろ辺りにはそれらしきものは見当たらない。
それどころかそこは崩れかけた塀の前だ――崩れかけた煉瓦塀に枯れた茨が絡みついている様は退廃的で、風情を感じるといえば聞こえは良いが、観光客を呼ぶにはもう少し手入れが必要になるだろう。
伝言役に伝統的な馬車だ、てっきり豪華絢爛な屋敷にでも招待されるのかと思っていたのだが、肩透かしを食った気分である。
「そちらから敷地にお入り頂けます」
青年は、予め決められていた台本を読むように淡々と言った。「どうぞお進みください、主人が待っております」
「『着けば解る』の次は『行けば解る』かい? こう言っては何だが、いくら何でも無礼ではないかな」
「私は主人から言われたことを為すのみです。それに本来、ここには誰もが訪れるべきです」
「それはどういう……って、おい!」
謎めいた言葉に振り返ると、青年は再び馬車に乗り込もうとしていた。
慌てて呼び止めるが、彼は一切躊躇することなく客車のドアを閉めた。シンジ自身も何処かで予想していた通りの行動ではあったが、こんなところで放り出されるのを受け入れる訳には流石にいかない。
とはいえこれからどう呼びかけても、あのドアを青年が開ける未来など期待できないと、この短い時間の内にシンジは学習している。
ならば、御者だ。
「おい、君」
素早く回り込むと、シンジは御者台に座る黒服の男に声を掛けた。「悪いんだが」
見上げた男は直ぐにフードを目深に被る。
その寸前ちらりと見えたあの顔は、伝言役の青年と同じものだった――ように、見えた。
答え合わせの隙も無く、御者が鞭を入れる。馬は忠実に嘶き、馬車は走り出していく、呆然としたシンジの前から。
「……やれやれ」
謎は膨らむばかりだ、神秘を司る魔術師にしても。
ならば、進むしかない。出題者がそうせよと言うのなら、一先ずのところは。
幸いにも何分と歩くことなく、シンジは門に辿り着いた。
正確には門があったであろう場所であり、アーチも崩れた今そこは単なる塀の切れ目でしかなかったが、果たしている――或いは果たしていない――役割としては同じことだ。さして遠慮も気負いもなく、シンジはそこをくぐった。
くぐった、その瞬間。
自分の選択が如何に軽率であったかを、シンジは思い知ることになった。
「……ここは……」
そこはけして、単なる廃墟ではなかった。
魔術師にとっては勿論、一般人にとっても廃墟と言われては、首を縦に振るのに抵抗があるだろう――少なくとも世界で四〇万人は、頑として振るまい。特にこの聖都では、そんなこと口が裂けても言えない。
そこは、教会だった――世界最大の宗教、秩序神アズライトを信仰する
どうする、引き返すか。
悩む時間こそがシンジにとって余分だった。引き返すべきだったのだ、魔術師であるのならば例外なく、教会など死地以外のなにものでもないのだから。
だがシンジは迷ってしまった――迷った瞬間にはもう、事態は取り返しの付かない方向へと転がり始めている。ぎぎぎという呻き声を上げながら、教会の門は開いていたのだ。
それはそうだろう、彼らはいつでも門を開く。どんな者も受け入れる。ただ――場合によっては帰さないだけだ。果たして今回は、どちらだろうか?
「ようこそいらっしゃいました、シンジ・カルヴァトス教授」
少なくともその言葉だけは、シンジを歓迎していた。
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