全ての始まりc.4

 名前のない女は興行師だった。

 故郷を覚えておらず、身寄りのない孤児として教会に預けられた彼女は、ある日近くを寄った曲芸師の見世物に大層な憧れを抱き、数年来の夢へ向け努力を続けた。


 魔王軍という混沌の襲来、目に見えて苦しみ救いを求める人々が、幼き日の瞳にどう映ったか、もう定かではない。

 確かなのは、彼女にとって平和を祈る日々の信仰が酷く無力なものにしか思えなかったという事だけだ。

 毎朝、祈祷する時間を畑仕事にでも費やせば5人のシスターと17人の子どもとで、ほんの僅かにでも畑を広げれば炊き出しの量も増やせるのではないのだろうか。己の空腹を別にしても、10歳の少女はそう思わずにいられなかった。

 幾度か言葉にもしたが、シスターたちは5人ともニコリと微笑んで彼女の頭を撫でた。


「そうね、みんなのスープはもう少しお野菜増やしましょうか」


 駄々を捏ねているように思われたのか、子どもだと取り合ってくれなかったのだろうか、彼女にとって真摯な訴えは、しかし、望んだ結果と向き合わせてはくれなかった。


 転機となったのは、流れの曲芸師が再び町を寄った日のことであった。あの日見た憧れは、色褪せない輝きを持って彼女の目の前に現れてくれた。

 目を閉じることなく、口を閉じることなく、人々の顔を満面の笑みへ変えるその技に大きな衝撃が心を揺さぶった。

 慌てるように弟子入りを懇願し、快諾した曲芸師と旅に出た。


 20の町を巡り、三つの国を旅し、7年の歳月が流れた。

 師から独立し、一座を築きあげた。芸が師を超えたとは思わなかったが、商才というものに関しては自負が生まれた。

 相変わらず身寄りは無かったが、そんな彼女自身が気付けば一座の柱になっていた。一座の拠り所となっていた。


 金銭の余裕は全て貧困に喘ぐ者たちへの寄付に回した。皆も賛同し、町々を廻り国々を渡る度にその輪は広がっている様に思えた。

 共助の呼びかけがひと段落した頃になって、魔王討伐の報せが世界を駆け回った。勇者セルゲイの名と共に一党の栄光が広く知れ渡る。


 誰しもが混沌の終わりに歓喜し、すぐそこから訪れる平和に涙した。

 彼女はそんな折、ふと教会が恋しくなり、里帰りしたくなった。

 彼女の故郷は飛び出したあの教会だ。少なくとも彼女自身はそう思っている。


 凱旋と自称できるだけの目的を果たした。

 あの日飛び出した日から随分先へと進んだのだから、少しくらい戻ることも許されるだろう。


 7年の彼女の努力は、燃え盛る教会の残骸を前にただ膝をついた。

 町の兵士が言うには野盗の仕業らしい。

 詳しい話は覚えられなかった。


 魔王軍の崩壊を受け、それまで身を潜めていた悪党たちが成り代わるように暴れ出したこと。

 危機が去った事で我慢する理由が無くなったこと。


 そんな到底納得できないような理由を語る兵士にすら、腹の底から恨めしい気持ちでいっぱいだった。


 平和を望む人々の敵は、魔王軍からただの人へと変わった。

 危機が去り、我慢する理由のなくなった人々から、決して少ないとは言えない数の暴徒が生まれた事を、惚けた頭で聞いていた。

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