断章 永塚

第18話 正しい施策

 その部屋を訪ねるのはいつも日没後になる。永塚がA市役所の市長執務室へ通うようなって数週間経つが、まだあの部屋に足を踏み入れることに気持ちが慣れない。


 一階のホールで偶然、市長と一緒になった。市職員たちが遠慮するのか、ふたりきりでエレベーターに乗り込む。


「お疲れさまです、市長。本日もよろしくお願いします」

「ご苦労さま、毎日大変だね」


 いいえ、これも職務ですからと、これまで何度も繰り返されてきたあいさつを今日も交わす。市長は、白髪で穏やかな好々爺然とした老人だが、その風貌も含めたそれが、地方政界で海千山千を重ねてきた彼一流の韜晦術だと、最近、永塚も理解しはじめていた。


「状況はどうだね」

「小康状態を保っています」

「収束させられそうかね」

「……」


 永塚は答えに詰まった。


「勇み足だったかな。いいよ、部屋で聞かせてもらおう」


 市長の顔は笑っていたが、声は笑っていなかった。地域の首長として、いち早くを知りたい気持ちは永塚にもわかる。しかし、物事には順序というものがある。組織の中で生きる官僚・永塚にとって、それを正確にわきまえないことには国の統治組織の中でいまの地位を保つことはできない。


 執務室のある最上階の廊下では、ひと足先に到着したが永塚たちを待っていた。


「遅いぞ、永塚理事官」

「申し訳ありません」


 じっさいは、予定時刻の午後8時より五分早い。現政権の要であり、地方議員からの叩き上げ、苦労人として知られる官房長官はそういう男だった。官房長官は、黙って市長にうなずいてみせると執務室の扉をノックした。


 ――はいってくれ。


 執務室の扉は大きく、重い。ゆっくりと内側へ開いてゆく。窓を覆う厚いカーテン。部屋の中央に据えられた木製の執務机。豪華な応接セット。部屋の中では、青いスーツに身を包んだ目つきの鋭い男が待っていた。


「掛けてくれ。話を聞こう」


 部屋の主は、この部屋本来の持ち主であるはずの市長、そして官房長官に応接セットのソファを勧めた。


「永塚くんも座りなさい」

「しかし、……」

「いいんだ。今日の報告は長くなるんだろう?」


 A市役所の市長執務室が、《首相》執務室となって1ヶ月余りが経っていた。首相は、まず自身がソファに身を沈めながら、内閣官房感染症調査委員会理事官、永塚英二をさし招いた。


「わが国におけるエウロパ脳症の感染状況について、現在の状況と、感染症対策の専門家としてのきみから率直な意見を聞きたいんだ」




 永塚はしばらくためらっていたが、官房長官にうながされて、ソファに腰をおろした。


「まず最初に、立入禁止区域の再設定についてですが、全国四ヶ所の立入禁止区域の再設定は順調に行われており、近日中に再設定終了の報告ができると考えています」


 首相は目を閉じて足を組み、ソファに深く身体を沈めて、永塚の報告を聞いている。


「感染者の封じ込めは、順調に進んでいると受け取っていいのかな」


 官房長官だった。


「はい。第一種立入禁止区域を取り囲むフェンス設置の進捗状況は、77パーセントです」


 永塚は手元のファイルにすばやく目をとおしながら答えた。もちろん報告内容は頭に入れてある。資料が綴じられたファイルはいざというときの保険であり、有能すぎないことをアピールするための小道具だ。


「フェンスの設置に関してトラブルは?」

「ありません」


 今朝、まさにこのA市のフェンス設置現場で、設置にあたっていた自衛隊員と隔離対象者が接近するというはあったが、その事実は伏せられた。市長の物言いたげな視線に、永塚は気づかぬふりを通した。


「結構だ。立入禁止区域の再設定について、メディアの反応だが――」

「総理、先般成立した新型感染症特措法に基づくメディア規制は、有効に機能しております。新聞、テレビはもとより、インターネット接続事業者、SNS運営事業者への対策も万全です」


 官房長官の言葉は正しい。対策は万全だ。しかし、それが効果を挙げているかどうかは別問題だ。


「いいでしょう」


 いいと言ったものの、首相の表情に表れた陰は消えなかった。新聞やテレビといった既存メディアは政府発表に従った報道を続けているが、一部のSNSからは政府の方針に批判的な投稿が削除されないままでいる。首相は、自身への批判を病的なまでに意識する人だった。


「感染状況は」

「新規の感染確認はありません。延べ感染者数256名。入院治療中の者36名――」

「死亡者、回復者は」

「死亡者220名。回復者は……ありません」


 永塚の報告に首相は、組んだ足を解いて文字通り頭を抱え、大きなため息をついた。白髪の混じりはじめた頭髪を激しくかきむしる。国家を運営する責任を負わされた者の苦悩を前にして、永塚は心臓に氷が当てられたように感じた。


「回復者ゼロ……致死率100パーセント! 官房長官、感染状況に関する政府広報は」

「行っておりません」


 対照的に官房長官の表情は動かない。この感染症に関して政府が公式に感染者数や死亡者数を公表したことは一度もない。


「それは、国民に対する誠実な態度といえるのだろうか?」


 助けを求めるように視線を上げて、首相は唸った。


「お言葉ですが、総理。『よらしむべし、知らしむべからず』と論語にあるとおりです。いまは感染症対策に正しい施策を実行し、結果を出すことにのみ注力すべきです。政府が、いたずらに国民を混乱させるような行動をとるべきではありません」


 断固とした決意を感じる官房長官の言葉だった。しかし、断定的な口調とは裏腹に、そのとはなにか、あまりにも漠然としてあいまいだった。


「永塚くん、きみの意見を聞きたい」


 三人の視線が永塚に集中した。本来なら、首相から意見を求められるような立場にないことはよくわかっている。永塚は顔を上げると慎重に言葉を選びながら話しはじめた。

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