第17話「そのときはそのときだ」
アクアリウムのなかには、近海の珊瑚礁が再現されているのだろう。いろとりどりの熱帯魚が群れをなして珊瑚のあいだを泳いでいる。
「これがチョウチョウウオ。向こうの青いのがナンヨウハギだよ――」
水槽のガラス越しに舞い泳ぐ魚たちを指さして晴人が教えてくれる。いつのまにそんなことを覚えたのだろう。
「おかあさん、聞いてる?」
「う、うん、よく知ってるね。だれに教えてもらったの」
「牧島のおばさん」
今朝の散歩で、晴人はすっかり牧島夫妻と仲良くなってしまったようだ。牧島夫妻と岡嶋はひと足先にホテルへ戻っていた。
――またね。晴人くん。
晴人に向かって手を振る牧島夫人の顔から険しさが消え失せていた。あのひとでもあんなに優しい表情ができるんだ。すっかり高くなった陽の光が、青い海を背に白い砂浜を眩しく輝かせはじめていた。
岡嶋は、わたしたちよりひと足先にホテルへ戻った。今日の午後にJAXAから乗組員の家族に対して、今後の予定についての説明があることになっている。牧島夫妻は、その後もしばらくこの島に滞在する予定だと話していたが、わたしは自分の仕事や晴人の幼稚園のこともあって、明後日には帰国するつもりでいた。
――北原さん。
岡嶋の言葉が耳の底から離れない。
――恵理が発症したことで、午後の説明会ではJAXAからなんらかのアクションがあるはずです。でも、なにがあっても『エウロパ脳症』には触れないでください。
当然だ。
岡嶋宇宙飛行士が致死率の極めて高い感染症を発症していると、明らかになれば『KANATA』計画のイメージダウンは計り知れない。しかも『エウロパ脳症』は、その詳しい症状も治療法も分からない未知の感染症なのだ。
――ことが公になると、パニックは避けられません。政府も、そんなことは望まないでしょう。そうなれは、あなたも措置されます。
ホテルに続く道へと消えた岡嶋の顔は、最後まで陰鬱なままだった。
「お母さん」
「なに」
「こわい顔」
そうかもしれない。いや、きっとこわい顔をしているに違いない。ひどい話だった。もし、彼のいうことが本当だったら。
「なにを〜」
殊更こわい顔を作ってみせると、息子が歓声をあげて逃げ出すので、親子ふたり、ひとしきり追いかけっこをして遊んだ。きゃっきゃと、はしゃぎながら駆けてゆく晴人を追いかけているうちに、気持ちが軽くなってくる。
この先になにが待っているのか、なにが起こるのか、わたしたちはどうなるのか分からない。でも、まだ起こっていないことを心配してもはじまらない。なにかあったとしても、そのときはそのときだ。
午前中は、晴人とふたり、ホテルのビーチで遊んで過ごした。
白い砂浜と青い海。
どこまでも続く水平線。
打ち寄せる波の音。
わたしたちは、ようやく2日目にして南国リゾートへやってきた気分を味わうことができた。
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