第16話「そう信じたかったから」
じつは予感がありました。
そして罪の意識にさいなまれています。
恵理とは『KANATA』が月軌道に入った頃から連絡をとっていました。そうです、わたしには内閣付属機関職員としての特権があります。
率直にいって、妻は以前とは変わってしまっていました。別人のように。忘れっぽくなっており、些細なミスを繰り返すようなっていたのです。
――なんだか不安なの。
妻は、繰り返し繰り返しわたしに訴えました。JAXAの管制はもちろん、ほかの
――ぬぐってもぬぐっても、ぬぐいきれない……。
と。妻は怯えているといっていい精神状態で、わたしは戸惑いました。
恵理は鉄の女でした。何ものにも屈することのない意志と
それが6年の年月を経て、
――自分がなんだか変わってしまうようで。掴みとれない、見通せない膜の向こう側に私がいってしまったようで。
簡単な作業でミスを繰り返す。
さっきまで覚えていたことを思い出せない。
なぜだか分からない。その原因に手が届かないもどかしさと焦りに、彼女は追い込まれていました。
――どうしてしまったんだ。
――分からない。すぐそこに答えはあってつかみとれそうなのに。
――メディカルチェックは。
――異状なかった。わたしはどうしたらいいの?
ふたりの間をメッセージが行き交うたびに、彼女なかで不安と混乱が増幅されてゆくのがわかりました。リアルタイムのコミュニケーションは、彼女の症状を悪化させるだけだと考え、わたしから連絡は断ちました。
いま思えば、単純なミスを繰り返したり、忘れっぽくなっていたのは、認知機能に障害が生じていることを示していたのです。
でも、わたしはJAXAにこのことを伝えなかった。
自信が持てなかったからです。正確な症例報告のない奇病と、妻の症状を結びつけるだけの根拠に乏しかった。
しかし、もっと大きな理由は怖かったからです。まちがってしまうのが怖かったから、口をつぐんでしまったのです。国家プロジェクトとしての『KANATA』計画の影響力や、CICIでのわたしの立場、将来を考えてしまい、わたしは黙っていることを選んだのです。わたしはわたしの保身を優先したんだ。
「わたしは間違っていました」
岡嶋はそういって言葉を切った。
弱い人だ。誠実であろうとはしているようだが、まだじぶんがくびきに繋がれていることに気付いていない――。
そう考えはじめて驚いた。わたしはどうなんだろうと。わたしに岡嶋を断罪する資格があるのかと。
胸元に手を当てる。もちろんわたしはくびきに繋がれていないが、わたしの心がなにかに縛られていないとどうして言えるだろう。
鉄太。感染症。晴人。死……。
わたしにも失いたくないものはある。
「昨日、ゲートをくぐって現れた妻は、元の鉄の女の姿をしていました」
ふたたび口を開いた岡嶋の口調は沈痛だった。
「背筋を伸ばして颯爽と歩き、笑顔でカメラに向かい手を振っていました。申し分のない「宇宙飛行士」としての態度でした。わたしも、ほっとしました。あれは一時的な気分の落ち込みだったんだ、もうすっかり良くなったんだと。――でも、それはわたしがそう信じたかっただけだったのです」
「そう信じたかった……」
胸がざわつくのを感じた。岡嶋宇宙飛行士の運命についてでない。それは、わたしの――。
「彼女はおかしかった。ほとんど口を開かず、わたしを避けていて、お手本となる宇宙飛行士を演じるだけで精一杯という感じだった。だいいち感情を表さないんだ――まったく。6年ぶりに会ったというのに!」
氷の手で心臓を掴まれた気がした。きっとそのとき岡嶋がそうであったように。ああ、鉄太!
「ごめんね」
そうじゃない。わたしは抱きしめてほしかったのだ。おかしいだろうか。ずっと会いたかったと言ってもらいたかったのだ。6年間も会えなかったのだから。
でも、鉄太。あなたが、もしあなたが感染症の症状と戦っていたのだとしたら、わたしは――。
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